多摩地域南部の「記念碑」

今回は地理院地図に表示されている多摩地域南部の「記念碑」を見ていきます。
多摩地域南部とは、八王子市、日野市、町田市、多摩市、稲城市の5市です。このエリアには61件の記念碑があり、地図上に示すと次のようになります。

クリックすると地図は拡大します。

( )で示した番号の記念碑は現地確認ができなかったもの。(14と42)
ざっと眺めると、八王子市内にある記念碑は37件と多摩地域南部の総数61件の半分以上を占めており、中でも高尾山内には8件もの記念碑が集中しています。

順に見ていきましょう。

№1 イチョウの由来碑、昭和50年(八王子市鹿島、梶川緑地内)

推定樹齢500年のイチョウの下の記念碑(奥の大きい石が石碑)

摩滅が進んでいて読み取ることの困難な個所があるが、多摩ニュータウン開発における都市緑化に際し、大塚神明社の御神木で樹齢500年とも言われるイチョウの木を記念樹として残すことを記した記念碑。大塚神明社はニュータウン開発に伴い、近くの八幡神社に移されている。

№2 区画整理記念碑、平成10年(八王子市東中野、松原公園内)

八王子市では多くの土地区画整理事業が手掛けられたが、そのうちの一つである天野地区の区画整理事業(モノレール中央大学・明星大学駅近隣の地区)の完成を記念したずいぶん新しい記念碑。元八王子市長・波多野重雄の句「広々と区画整理や春の風」が刻まれている。

№3 忠魂碑、大正8年(八王子市下柚木、柚木中央小学校脇)

日清・日露戦役における戦没者の慰霊の碑。元帥陸軍大将・寺内正毅の書。
この頃は日本各地で同様な碑が立てられている。

№4 道路改修記念碑、昭和30年(八王子市下柚木)

馬場南ヶ谷戸講中により立てられている。尾根越の道を拡幅改修した工事の記念碑と思われる。脇には道祖神が祀られており、往来の多かった道であったことがうかがえるが、尾根の下に広い野猿街道ができたことから今は往来は少ない。

№5 越野打越北野境界基準雷松跡記念碑、昭和41年(八王子市絹ヶ丘1丁目)

たびたび雷の落ちた樹齢3百年以上の「雷松」と呼ばれる松がこの地にあったが、明治初期、打越・北野両村間で起きた入会地騒動の際、この松を両村境の基準とした。宅地造成により「雷松」が切り倒されるのを惜しんでこの碑が立てられた。

№6 絹の丘造成記念碑、昭和43年(八王子市絹ヶ丘2丁目)

古来、地元民の共有地の秣場であったこの地は明治初年個人に分け与えられた。多摩丘陵における宅地開発がブームとなった昭和40年、80余名の地主らは打越土地造成組合をつくり、自らが中心となって宅地造成事業を成し遂げた。その完成を記念した碑。一帯は戸建住宅を主体とした住宅地が広がっている。

№7 池宮石造改築寄附名碑、大正7年(八王子市打越町、打越弁財天境内)

題字は「植福及子孫」と書かれている。造立年にはおそらく現在の場所に打越弁財天はなかったと思われるので、八王子バイパスができたことにより移転したものであろう。昭和58年の地図においては、記念碑の表示はちょうど現在八王子バイパスの通っている場所に表示されている。

昭和58年の地図
現在の地図(記念碑は右へ移動している)

№8 庫裏客殿新築記念碑、昭和42年(八王子市打越町、梅洞寺)

梅洞寺境内の庭園に立つ大きな記念碑。おそらくその大きさ故に目につくことから地図に表示したのではないかと思われる。碑面には建立年が記されていないが、梅洞寺の方に聞いたところ昭和42年に庫裏客殿の新築を行ったとのこと。

№9 忠魂碑、明治43年(八王子市石川町、北八王子公園内)

南多摩郡小宮村が立てた日清・日露戦役の戦死者の慰霊碑。乃木希典の書になる。

№10 武田信玄家臣供養碑、建立年不明(八王子市大和田町3丁目)

平山通り下。浅川の浸食によりできた段丘崖に横穴がありその前に建てられている。「お穴さま」と呼ばれているようで、昭和3年に横穴から人骨が出てきてそのことから武田信玄の落ち武者伝説が語られ始めたことから建てられた模様。近隣には他に記念碑らしきものはないので地図に表示されているものはこれであろう。東京都遺跡地図情報によると「大和田横穴墓群(古墳時代)」の一角にあるので武田信玄との関連はなさそうである。

№11 暁橋架設費寄附芳名記、大正12年(八王子市元横山町3丁目、暁橋の袂)

暁橋は1923年、浅川両岸の住民の要望により木造橋が架けられた。記念碑はその寄付者の名前を記したもの。現在の橋は2代目で、1960年に架け替えられたコンクリート橋。

№12 萩原橋碑、明治40年(八王子市平岡町)

明治期に東京府は浅川に架ける橋を2つの道に対して1ヶ所にしようとしたが、商工業の発展の阻害になるとして橋を2ヶ所にするために地元有志の者が出資して橋を完成させた。完成した橋は公共の施設として東京府に献納した。このことを記録にとどめた記念碑。橋の名前の由来は、建設費のほとんどに私財を投じた中心人物・製糸業の萩原彦七の功績に因んだもの。

№13 松原庵二世の句碑、慶応2年(八王子市上野町、本立寺境内)

松原庵二世とされる無底坊是三の句碑と思われる句碑。無底坊は千人頭原氏に連なる者のようである。
松原庵というと江戸中期の女流俳人・松原庵星布が有名であるが、無底坊是三との関係は不明。
句文は文字が達筆すぎて読めず。関東大震災で倒れて折損した部分をセメントで継いでいる。本立寺関係者もこの碑についてあまりご存じないようであった。

№14 (八王子少年院敷地内にある碑だが、立ち入れないのでどのような碑かは確認できず

№15 放庵石阪君之碑記、大正5年(八王子市台町2丁目、富士森公園内)

幕末から明治に生きた政治家で特に多摩地区における自由民権運動に深くかかわった石阪昌孝を顕彰した碑。石阪は野津田(町田市)の生まれであるが、どういう訳か碑は八王子市に立っている。

№16 忠魂之碑、明治39年(八王子市台町2丁目、富士森公園内)

日露戦役における戦没者の慰霊の碑。元帥・大山巌の書になる。

№17 万葉歌碑、昭和29年(八王子市散田町5丁目、万葉公園内)

万葉集に収録されている防人の妻・宇遅部黒女(うじべのくろめ)による夫の苦労を思う妻の心情を歌った歌が刻まれている。「赤駒を山野に放し捕りかにて多摩の横山かしゆかやらむ」と多摩の横山が登場していることから、多摩の横山とされるこの地に碑が立てられた。

№18 日吉神社由緒之碑、昭和35年(八王子市横川町、日吉神社境内)

「日吉神社は、往古の八王子に近江の一宮である日枝大社を勧請したのが始まりであり現時においても八王子市民に神徳の光をあまねく敷せて深い因縁がある」との由緒を記している。

№19 忠魂碑、大正7年(八王子市大楽寺町)

南多摩郡元八王子村在郷軍人会が立てた日清・日露戦役の戦没者慰霊碑。乃木希典の書による石碑。(№9と同じ書であることがわかる)

№20 天皇皇后両陛下行幸啓記念碑、平成21年(八王子市初沢町、みころも公園内)

後方のパゴダ風の建物がみころも霊堂

産業災害で殉職された方々を慰霊するために昭和47年に立てられた霊堂が「みころも霊堂」で、霊堂の建立以来皇室から慰霊を賜っている。記念碑は平成天皇が行幸された際の記念碑であるが、皇太子時代から開堂式をはじめ度たび訪問されている。昭和50年の地図にも同じ場所に記念碑の記載があるが、それは皇太子として訪問された際の記念碑であったと思われる。

昭和50年の地図にも現在と同じ場所に表示されている

№21 菅原道真公銅像、昭和11年(八王子市初沢町)

初沢山中腹にある高尾天神社の参道(急な階段)に立っている。台座を含めて高さ14.5mにもなる日本最大級の菅原道真の像。大正天皇陵が御治定したことを記念して建てたもの。
石碑ではなく「像」が記念碑として地図上に表示されるものとしては、この像が多摩地域においては唯一のもの。

№22 稚児記念之碑、明治42年(八王子市高尾町)

高尾山1号路のスタートするこの場所には幾つかの記念碑が立っている。このような記念碑群についても地図での表記は一つの記号で示すようである。このブログではその中で一番大きな記念碑をピックアップした。
高尾山薬王院の春の行事の一つとして、子どもの成長を願う「お稚児登山」(今は「お稚児パレード」と言っている)が100年以上前から続けられており、登山道の登り口にその行事を記念して建てられた碑がこれ。

№23 新四国八十八箇所開創記念碑、明治36年(八王子市高尾町)

№22に隣接するこの場所にも多くの記念碑が立っている。ここでも一番目立つ碑をとりあげた。
高尾山内を四国と見立て、八十八ヶ所の霊場の土を持ち帰り高尾山中の各所に置かれた八十八体の大師像の下に納め、四国八十八ヶ所霊場巡りと同じ効験を得ることができるようにしたもの。1番札所から88番札所まで巡拝すると高尾全山を巡ることになる。

№24 護摩木山壹千五百坪奉納記念碑、明治45年(八王子市高尾町)

高尾山表参道(1号路)の途中、那賀橋近くに立っている。護摩の焚き上げに使う護摩木の植樹を1,500坪分奉納した記念碑。高尾山内には、杉苗奉納に関する石碑が随所に立っている。
縣敏夫氏により高尾山全山の石造物悉皆調査がなされている(大作「高尾山の記念碑・石仏」2007年がある)が、全石造物(1,353点)のうち16%が杉苗碑であるとのことである。

№25 横浜多賀良講創立記念碑、大正11年(八王子市高尾町)

高尾山・金比羅台付近にも杉苗奉納記念碑が多数立っている場所があるが、その中にひと際大きい碑が立っている。高尾山参拝の「横浜多賀良講」の創立を記念したもの。(この講が現存するかどうか不明)

№26 林野庁殉職者慰霊碑、昭和37年(八王子市高尾町)

高尾山の参道で「霊気満山」と掲げられた浄心門脇から登る小さなピーク(神変山)に立っている。林業行政において殉職された方々を慰霊する碑。

№27 北原白秋先生高尾山歌碑、昭和37年(八王子市高尾町)

男坂を登ったところから権現茶屋に至るまでの参道脇には多くの文学碑がある。(文学碑の路といわれているようである)その中で目を引くのがこの北原白秋の歌碑。
「我が精進こもる高尾は夏雲の下谷うずみ波となづさふ」

№28 年参杉苗植付之碑、明治14年(八王子市高尾町)

権現茶屋の向かいに杉苗奉納記念碑が多数ある。そのうち一番目立つ碑がこれ。群馬県山田郡桐生町(現桐生市)の大沢傅次郎が明治14年から明治37年まで毎年100本~300本の杉苗を植付てきた記念碑。途中2年間の欠年があって何があったのか気になってしまう。

№29 永代日護摩馬込元講社、明治21年(八王子市高尾町)

薬王院四天王門横で、ここも杉苗奉納記念碑が多数ある。特異な形をしているこの碑は馬込元講社が本堂再建に寄付を行った際の寄付者名を記した碑。明治19年、台風による裏山崩落により本堂その他の堂宇が被害を被っており翌年から再建の勧進が始まり、それに応じて寄進がなされた模様。

№30 御大典紀念植付●●、建立年不明(八王子市元八王子町3丁目、八王子城本丸跡への登山道脇)

八王子城本丸跡への登山道の金子丸柵門台の中間あたりにある。登山道右わきのブッシュに阻まれて10m程先の碑の立つ場所まで行くのに難儀する。石碑のあった周辺部に崩落があったように見受けられ、この写真を撮った場所から前へは進めなかった。したがって碑の下部は低木に覆われて読むことができなかった。(●●の部分)

№31 鉄船無心霊神碑、享保元年(八王子市元八王子町3丁目、八王子城本丸跡への登山道脇)

鉄船無心は江戸期の行者で八王子山中に庵を結んで71歳没。八王子城の水場であった溜井の上付近には無心の墓があるが、そこは庵のあった場所ではないかと言われており、墓付近に茗荷の生える一角があってその茗荷は無心の植えたものではないかとも言われている。

№32 八王子城址碑、大正8年(八王子市元八王子町3丁目)

小田原北条氏の出城であった八王子城の落城譚と今の八王子の町の成立経緯が記された碑。この碑の脇には、「八王子神社碑」もある。

№33 下原刀鍛冶発祥の地碑、昭和43年(八王子市下恩方町)

下原刀(したはらとう)とは永正の頃(1504~1520年)領主大石氏の招きに応じて当地へ来た刀工集団が鍛刀した刀をいう。その後恩方下原に移ったので下原刀というが、北条氏や徳川氏の庇護を受け、以来一族十家に繁栄し、その作刀は全国に流布して数多くの名刀を残している。その発祥の地が当地であることを記念した碑。

№34 井橋辨重翁頌徳碑、昭和37年(八王子市小津町)

下恩方から小津へ入っていく通称「モリアオガエルの道」の北側路傍に立つ。明治22年に下恩方村、上恩方村、西寺方村、小津村が合併して恩方村ができた時の初代村長の功績を称えた碑。

№35 今熊山大権現道標、昭和6年(八王子市上川町)

秋川街道沿いの小峰峠の下に立つ。「呼ばわり山」と言われ、行方不明となった人を山頂から呼べば居場所がわかったという伝説で信仰を集めた今熊山へ向かう道を示す道標。道標が記念碑として表示されるのは珍しいが、これ以外に付近に石造物はない。道標近くには昭和10年から平成8年まで今熊神社の鳥居が立っていたという。碑の真後ろにフェンスがあるので、碑陰に何が書かれているか読めず。

№36 夕焼小焼歌碑、昭和31年(八王子市上恩方町、宮尾神社境内)

恩方村出身の中村雨紅が作詞した「夕焼け小焼け」の歌碑。雨紅は宮尾神社の宮司の子として生まれている。ここから1kmほど東の興慶寺には夕焼け小焼けの鐘といわれる寺の鐘がある。

№37 明治天皇小仏峠御小休所址及御野立所碑、昭和12年(八王子市裏高尾町、小仏峠)

明治13年、明治天皇が山梨、三重、京都などを巡幸される途次に旧甲州街道の小仏峠越えをされ、峠の茶店にて小休止された。板輿に乗っての峠越えであった。

№38 若山牧水碑、昭和46年(日野市百草、百草園内)

若山牧水は早稲田の学生であった明治39年に初めて百草園を訪れてから何度かこの碑の場所にあった茶屋に滞在して武蔵野の自然を謳った。その中の3首が刻まれた大きな歌碑である。
そのうちの一首
摘みてはすて摘みてはすてし野のはなの我らがあとにとほく続きぬ

№39 芭蕉句碑、明治20年(日野市百草、百草園内)

地図上に表示されているあたりには芭蕉の句碑が2基ある。明治20年に百草園を開園した時に、以前そこには芭蕉の句を刻んだ「月見塚」があったことからそれに倣って「華見塚」として新たに立てたものがひとつ。もう一つは百草園で催した句会の記念に俳人たちが立てた芭蕉句碑である。掲げた写真は「華見塚」。
  しばらくは花の上なる月夜かな  はせを

№40 玉南電気鉄道記念之碑、昭和2年(日野市高幡、高幡不動境内)

京王線は大正5年(1916)に新宿・府中間の営業を開始したが、府中から八王子の区間については敷設工事費負担が大きい(多摩川に橋梁を架ける必要があった)ことから、その区間は国から補助金の出る規格を満たすように別の鉄道会社を設立して対応することとした。これが玉南電気鉄道
碑文は玉南電気軌道の設立経緯とその後京王線と合併する(大正15年)までの経緯を記している。

№41 殉節両雄之碑、明治9年(日野市高幡、高不動境内)

近藤勇土方歳三の顕彰碑。二人に縁のある多摩郡小野路村の小島為政(小島鹿之助)が発起人となり仙台藩の大槻磐渓が撰文、会津藩松平容保の篆書、松本良順の揮毫により起こされた碑。脇には新選組隊士姿の地元日野出身の土方歳三の像が立っている。

№42 存在を確認できず

№43 御野立記念碑、大正11年(日野市日野本町3丁目、矢の山公園内)

大正10年、武蔵・相模一円で陸軍特別大演習が行われた際、当時の皇太子(後の昭和天皇)がこの地に立って演習を総監され、それを記念して建立。後にその場所が公園として開園すると、日野市内各所にあった戦没者の慰霊碑が移設され、今は公園内に数多くの石碑が立ち並んでいる。

№44 吹上記念碑、昭和46年(日野市東豊田4丁目、吹上公園内)

昭和30年代、吹上地区がスプロール化(無秩序な土地開発が進むこと)する前に、未開発地域を整備して良好な市街地となるように土地区画整理法を適用した組合を結成し、10数年をかけて土地区画整理事業を完遂した。これを記念した碑。

№45 豊田地区教育発祥之地、平成5年(日野市東豊田2丁目、善生寺境内)

善生寺境内に明治12年から昭和17年まで、現在の日野第二小学校の前身である豊田小学校があったことを記念した碑。

№46 菅公千年祭紀念碑、明治35年(日野市豊田2丁目、豊田若宮神社境内)

地図上に示されている場所には現在は記念碑はない。平成5年まではその場所に天満神社があり、そこにこの碑は立っていたが、平成5年に天満神社は豊田若宮神社へ合祀されたため、天満神社はなくなり碑も豊田若宮神社に移設された。この碑の脇に移設の経緯が記されている。
「菅公千年祭」というのは、明治35年が菅原道真の千年忌にあたり、それをお祀りしたもの。

記念碑は矢印のように移転している(平成5年)

№47 平山季重遺跡之碑、嘉永4年(日野市平山5丁目、平山城址公園駅前)

保元の乱、一ノ谷の合戦など数々の合戦に参加しその武勇伝が「平家物語」、「吾妻鑑」に描かれている平山季重の居館跡を示した碑。碑文は季重の子孫とする平山正義によるもので、季重の功績を称えている。

№48 平山台土地区画整理事業竣工記念碑、昭和48年(日野市旭が丘5丁目)

日野の都市計画の一環として進められた平山台地区における土地区画整理事業の記念碑。この事業により新しく「旭が丘」という街区が誕生した。

№49 市川先生頌徳之碑、昭和8年(町田市大蔵町、町田市子どもセンターつるっこ敷地前)

市川嘉七は明治37年東京府師範学校を卒業し八王子市小学校に訓導として着任。その後鶴川尋常高等小学校の校長になり鶴川村の教育および東京の初等教育界に多くの功績を残した。その顕彰碑。
この碑は地図に示されている場所から80m程東へ移動している。

この記念碑は「町田市子どもセンターつるっこ」へ移設されている

№50 故陸軍兵蛭田磯吉君碑、明治30年(町田市高ヶ坂6丁目)

地図に記載されるのは違和感を覚える個人碑であるが、地図の場所にはこの碑しか存在しない。碑の立つ場所としては昔からの主要道脇に立っており、ちょうど道が緩やかに曲がっており目につきやすい場所になっている。
当該人物や碑の由来については不詳。

№51 道路改修記念碑、昭和10年(町田市図師町)

碑の由来についての詳細は不明。碑の前の大きな道路(芝溝街道から唐木田へ抜ける道)の改修を記念した石碑と思われる。碑陰には土地提供者と寄付金出資者の名前が記されている。

№52 慰霊塔、昭和46年(町田市忠生3丁目、かぶと塚公園隣)

この場所に町田市各地(町田地区、南地区、忠生地区、鶴川地区、堺地区の各地区)の戦没者慰霊塔が集められている。示した写真は、その一角にあるひときわ大きな町田市戦没者合同慰霊塔。

№52の脇には町田市内各地にあった慰霊碑が集められている。(堺地区、南地区、町田地区など各地区毎に並んでいる)

№53 従軍記念碑、明治40年(町田市下小山田町、大泉寺山門脇)

下小山田地区で日清・日露戦争へ従軍した者、戦没した者の名を刻んだ記念碑。昭和4年に改修がなされていることも追加で刻まれている。それぞれの戦争に出征した者の名前をみると、両方の戦争に出兵した者が6名もいたことがわかる。
大泉寺にあるので地図上に記された記念碑は中世の小山田氏に関連するものかと思っていたが、付近には近代のこの碑しかなかった。

№54 楓山先生之碑、明治41年(町田市常盤町)

斉藤楓山は本山派修験持宝院主阿闍梨芳山の子で千葉賢弘に経史を学び父の後を継いで持宝院主となり傍ら寺子屋の師匠をしていた。明治に入って町田市域に最初に開校した小野郷学には三等生徒で参加し、後に上小山田村の有隣学舎の訓導となった。その人物を顕彰した碑。

№55 善寧児先生碑、明治25年(町田市相原町、清水寺境内)

英国のエドワードジェンナー種痘による天然痘の予防を成功させてから約50年後、江戸では伊藤玄朴が種痘の実験に成功した(安政5年)。相原村の医師青木得庵は伊藤玄朴から痘苗を入手し末子桃吉を実験台に接種を試み成功を収め、種痘の必要性を説き普及に努めた。得庵の妻喜代が晩年種痘の普及を記念して「善寧児(ジェンナー)先生碑」を建立した。日本各地にジェンナーの記念碑があるが、この碑は明治25年建立でわが国最古のジェンナー碑であるとされる。

№56 開山記念碑、昭和40年(多摩市連光寺、桜ヶ丘カントリー入口脇)

桜ヶ丘カントリーは昭和35年に開場しており、その際に山林を切り開いたことを記念したものか。碑陰には寄付者の氏名が刻まれているが、ほとんどは地元連光寺の者で、中に「府中市南町地主一同」という記載もあった。
桜ヶ丘カントリー、多摩市に問い合わせたが、詳細は不明であった。

№57 拓魂碑、昭和38年(多摩市連光寺、拓魂公苑内)

昭和7年に始まり昭和20年に終了した満州開拓団の苦難を讃え、そして現地に散っていった人々を悼む碑。公苑内には日本各地からの開拓団の慰霊碑170本が並んでいる。

№58 明治天皇御野立所跡碑、昭和15年(多摩市連光寺、都立桜ヶ丘公園内)

明治天皇は兎狩りや鮎漁のために4回ほど連光寺に行幸されている。その際に立たれた場所に御野立所跡碑が立っている。近くには明治天皇御製歌碑もある。

№59 彰忠碑、大正12年(多摩市関戸6丁目)

多摩市役所脇の高台に立つ日清・日露戦役での戦没者の慰霊碑。多摩村で寄付者を募って立てられた。
この碑の建立に関しては「多摩市史通史編2」にその経緯が詳しく書かれているが、完成目前の大正12年9月1日に関東大震災で倒れてしまい、2年後の大正14年4月1日にようやく除幕式を迎えたということである。
なお、テーマとは関係ないが、この場所は高台であるので碑の近くには四等三角点が置かれている。

№60 二代普寛霊神三十年祭記念碑、大正9年(稲城市百村)

この記念碑は残念なことに大変荒れており放置されているという様子。
「普寛」という文字からすると、稲城には木曽御嶽山信仰の講である普寛講があるが、それに関係する記念碑と思われる。約100m東へ行った場所には「普寛神社」があるが、明治になってから新たに興こされた神を祀ったもののようである。

№61 明治三十七八年戦役紀念碑、明治40年(稲城市東長沼)

この一角には稲城市内の慰霊碑が集められている。この碑以外に忠魂碑(大正10年)、慰霊碑(昭和34年)、平和の碑(平成8年)も建っているが、一番古い記念碑を代表として掲げた。なお昭和41年の地図には既に表示されているので、平和の碑に対して表示されたものではないであろう。

「記念碑」ブログの集約

今回を含め4回にわたって地理院地図に表示されている多摩地域の「記念碑」をすべて見てきました。
以下にその全てのブログを並べましたので、見たい記念碑があればクリックしてご覧ください。

 ①地図に記載されている多摩地域の「記念碑」
 ②多摩地域東部・北部の「記念碑」
 ③多摩地域西部の「記念碑」
 ④多摩地域南部の「記念碑」(このブログ)