多摩地域西部の「記念碑」

今回は、多摩地域西部の「記念碑」をみていきます。
※多摩地域西部とは、昭島市、青梅市、羽村市、福生市、あきる野市、瑞穂町、日の出町、檜原村、奥多摩町の5市3町1村です。

地理院地図に記載されている記念碑の数は41件です。
昭島市には記念碑の記載はありませんでした。
地図上に示すと次のようになります。( )で示したものは、地図上に表示はあるのですが、現地では確認できなかったものです。

画像をクリックすると拡大します。

歴史のある青梅市域における分布密度は高いですね。それと青梅市域には「自然災害伝承碑」が3件と多いことも注目されます。
※自然災害伝承碑は青色で示しています。(2、3、19)

№1から順に見ていきましょう。

№1 御大典記念碑、昭和3年(青梅市今井1丁目、浮島神社境内)

昭和天皇の即位式が昭和3年11月10日京都御所で行われたことを記念して立てた石碑

№2 水窪排水記念碑、昭和4年(青梅市今井3丁目)

明治43年の豪雨で水深3mに及ぶ浸水があったので掘割を作って排水工事を行ったことを伝える自然災害伝承碑

№3 雹害記念塔、昭和2年(青梅市新町2丁目、新町御嶽神社境内)

昭和2年5月15日午前11時から約30分間、直径約1.5~2cmの雹が降り続き大きな被害があったことを伝える自然災害伝承碑

№4 架橋記念碑、大正9年(青梅市友田町5丁目、友田御嶽神社境内)

青梅市友田と羽村市羽西をつなぐ多摩川橋が大正9年に鉄筋コンクリート塔のつり橋として完成したことを記念して立てたもの。それまでは渡しであった。現在の多摩川橋はそれから3代目になる。昭和41年の地図では橋の脇に立っていることがわかるが、その後友田御嶽神社境内に移設されている

№5 農道開鑿記念碑、昭和26年(青梅市長淵9丁目)

青梅市調布と大荷田を結ぶ厳しい峠道(万場坂通り)を、東京都の失業対策事業を契機として、峠越えをし易いように開鑿を行った記念碑。東京都以外に地元からも多額の出資と労働の提供を行ったことが記されている

№6 拝殿改築記念碑、大正15年(青梅市千ヶ瀬町2丁目、千ヶ瀬神社境内)

明治の初めは稲荷社で千ヶ瀬村の村社であった。その後明治15年に神明大神宮もここに遷座し、合わせて千ヶ瀬神社と改称した。その後大正15年になって、拝殿などの社殿を改築した際に立てた記念碑

№7 頌徳碑、大正13年(青梅市長淵4丁目)

玉川景元氏の頌徳碑。氏は明治維新直後にできた神祇省の官員のようで、鹿島玉川神社に深い関りを持っていた(「皇国地誌西多摩郡村史」の記述から)。訓導であったことからこの碑は教え子が建てたもの。

№8 調布橋碑、大正11年(青梅市長淵7丁目、調布橋南詰)

千ヶ瀬の渡しに代わって大正11年に調布橋(鉄筋コンクリート主塔のつり橋)が建造されたことを記念して建てられた。現在の調布橋は3代目。周辺には調布橋に係る碑が多数あり、調布橋がこの地域にとっていかに重要であったかを知ることができる

№9 忠霊塔、昭和34年(青梅市本町、永山公園総合運動場脇)

忠霊塔の碑銘は「殉国の英霊を此処に祀る」と記されている。三島由紀夫の「宴のあと」に定礎式などの様子が描かれている。「いい景色ですね。なんていい眺望でしょう。」「東京近郊にこの永山公園ほどの眺望はちょっと類がありませんでしょう。」などの記載がある。
脇には東郷平八郎書になる忠魂碑(大正7年)もある

№10 開通記念碑、明治39年(青梅市滝ノ上町)

大柳方面から青梅街道へ至る道(現在の国道411号)は狭隘であったので明治39年に拡幅して通行の便を良くしたことを記念して建立したもの。

№11 若鮎の碑、昭和48年(青梅市大柳町、柳淵橋の袂)

大正2年に、この地を流れる多摩川に、琵琶湖の稚鮎を放流して遡上鮎のように大型化するかどうかの実験を試み、成功をおさめた。この日本で最初の鮎の放流実験のなされたことを記念して建てられたもの。

№12 愛宕神社跡碑、昭和27年(青梅市森下町)

「御岳菅笠」(天保5年)にも描かれている愛宕神社であるが、大正14年に麓の熊野神社に合祀された。昭和27年、かつてここに愛宕神社があったことを示す碑が建てられた。
地理院地図にはこの記念碑までの道(旧参道)があるように示されているが、現在は歩く人はほとんどおらず、道はかなり荒れているので注意を要する。

「御岳菅笠」に描かれた愛宕神社。愛宕山に社が小さく描かれている。図では山頂にあるかのように見えるが、実際は青梅丘陵から派生する尾根の先端部分になる。

№13 萬年橋碑、昭和21年(青梅市畑中、萬年橋の袂)

明治30年に木橋を架け、明治40年には鋼製のアーチ橋に架け替えられた。そしてそれが老朽化したことから昭和18年に補強工事を行った。記念碑は、この一連の萬年橋架橋に携わった畑中の人々の苦労と、橋の変遷・由来が記されている。川井玉堂題、吉川英治撰文、尾上柴舟書とそうそうたる顔ぶれによる碑となっている。現在の萬年橋は平成17年に架け替えられたもの。(クリックすると拡大する)

№14 第二次世界大戦従軍記念碑、昭和51年(青梅市裏宿町、七兵衛公園内)

陸軍24柱、海軍3柱の戦没者を供養し、戦争を繰り返すことのない平和国家建設を祈願して、裏宿松籟会が建てた記念碑。隣には公園の名前にもなっている裏宿七兵衛の供養碑が立っている。

№15 和田橋之碑、昭和41年(青梅市和田町2丁目)

多摩川右岸の和田と左岸の日向和田をつなぐ橋で、両岸の悲願である架橋が昭和41年に達成したことを記念したもの。橋の袂からは少々離れた場所に立っている。多摩川南岸の山から見下ろすと、和田橋は目に鮮やかに飛び込んでくる。

多摩川に架かる4本の橋。和田橋は手前の赤い橋。奥へ神代橋、好文橋(ちょっと見づらいか)、奥多摩橋と続く。長淵山ハイキングコースの天狗岩から撮影

№16 市道開通之碑、昭和54年(青梅市二俣尾1丁目)

地元住民が生活道路の整備を青梅市に陳情し完成したことを記念した碑。住民の感謝の気持ちが伝わる純朴な碑で、道行く人の目に必ず止まる場所に立っている。

№17 奥多摩橋之碑、昭和14年(青梅市柚木町2丁目)

多摩川の左岸三田村二俣尾と右岸吉野村柚木をつなぐ橋が22年の歳月を経て昭和14年ようやく架かった。それを記念した徳富蘇峰の書による碑。柚木、吉野街道の交差点にある。№15の参考写真の一番奥の橋。

№18 青渭農道竣工記念碑、昭和40年(青梅市沢井3丁目)

昭和35年に起工し、昭和40年に竣工した農道の記念碑。この農道は今は青渭神社への参道にもなっている。青梅市沢井3丁目の自治会長をはじめとする関係者23名の名が刻まれている。

№19 滝本の洪水防石、建立年記載なし(安政6年以降) (青梅市御岳2丁目)

脇を流れる滝本川の氾濫で寛保2年、安政6年に甚大な被害が出た。その後、川から巨石6個を引き上げて並べて洪水防石を築いた。そのことを記した自然災害伝承碑。並べた自然石に銘文は刻まれている。(クリックで碑面拡大)

№20 中西悟堂歌碑、建立年不明(青梅市御岳山、御嶽神社参道脇)

以前は御岳山には「ブッポウソウ」(「ブッポウソウ」と啼くのは実はコノハズク)が生息しており、野鳥研究家(日本野鳥の会の創立者)で歌人の中西悟堂はその鳴き声を聞きに訪れていた。その際に読まれた歌が碑になっている。今は「ブッポウソウ」(コノハズク)は生息していないようだ。

№21 神山霊土歌碑、明治20年(青梅市御岳山、御嶽神社本殿横)

御嶽神社境内の砂が田畑の虫の害を防いでくれるという古くからの信仰を歌に詠んだ歌碑。題字は副島種臣、歌は本居豊穎(とよかい)、書は山岡鉄舟になる碑(クリックで碑面拡大)

№22 奥之宮乃●、建立年不明(青梅市御岳山、御岳山から大岳山への登山道脇で奥の院の直下)

この石造物は御岳山から大岳山へ至る登山道の路傍にあり、記念碑の記号付近には他には何もない。御岳山奥の院への登り口に立っており道標のように見える。「右御本社」、「左大嶽山●」と刻まれている。厳密に言うと、記念碑の記号は山道の東側に表示されているが、この石碑は西側に立っている
(●は苔や摩耗のために読めない文字)

記念碑の位置は道の東側ではなく交差部西側にある。(クリックで拡大)

№23 戦役紀念碑、明治39年(羽村市羽中3丁目、羽村護国神社内)

日清・日露の戦役に従軍した兵士の顕彰碑。書は乃木希典

№24 忠霊塔、昭和29年(福生市牛浜、福生公園内)

西南戦争から太平洋戦争までの当地区出身の戦没者の慰霊と顕彰の碑

№25 高﨑治平頌徳碑、昭和11年(福生市福生)

安政2年福生村に生まれた高﨑治平が明治期に長野・群馬の養蚕手法を取り入れ、西多摩の養蚕業の発展に尽力したことを称えた記念碑。左脇には桑の木が植えられている。

№26 野口正吉翁之碑、大正8年(あきる野市菅生、菅生通りの北側)

菅生村の林業、造林事業に尽力した野口正吉翁の功績を讃えて建立された。

№27 表忠碑、昭和30年(あきる野市上代継、西秋留小学校横)

支那事変、大東亜戦争における戦没者を慰霊顕彰する碑。建長管長曇華時保九十一翁書、発起人西秋留村長。

№28 忠霊塔、昭和30年(あきる野市五日市、阿伎留神社内)

日清・日露戦役から大東亜戦争までの五日市町の戦没者250柱を慰霊する碑。

№29 (発見できず)

№30 諸国神社仏閣巡拝塔、明治14年(あきる野市上養沢)

苔と摩滅で読み取りにくいがかろうじて碑文は読める。脇には馬頭観音や二十三夜塔などの石造物が並んでいる。(クリックで拡大)

№31 御嶽山道供養塔、弘化4年(あきる野市上養沢)

五日市方面から御岳山へ至る参道に立てられた道路の供養塔。青梅街道側から登る現在の参道より古い時代の参道になる。その道は現在は「都道201号十里木御嶽停車場線」として管理されている。

№32 殉国慰霊塔、昭和32年(瑞穂町石畑、お伊勢山)

戦禍に斃れた人々の霊を慰め、町民の敬虔なる憩いの場となるよう、町を見下ろすお伊勢山に建てられている。

№33 武蔵土地改良記念碑、昭和36年(瑞穂町武蔵)

横田基地拡張により狭隘となった耕作地について、その生産性を高めるために灌漑などの土地改良工事を行った記念碑。(クリックで碑面拡大)

№34 開通記念碑、昭和8年(日の出町大久野)

第一次世界大戦後に農村土木事業を新興する政策が取られた際、福生から御岳山に通じる東京府道を整備した時に、平井川上流部道路の整備完成を記念した碑。

№35 開通記念碑、大正7年(日の出町大久野、一の護王神社下道路脇)

尾根越えの急峻な道であったが、切通しを作って通行を容易にした道路改修・開設工事の竣工を記念したもの。右脇には大正天皇の「御大典記念碑」(大正4年)あり。

№36 表忠碑、昭和34年(檜原村下元郷)

日中戦争から太平洋戦争に至る檜原村村内の戦没者の慰霊碑。この碑の建立に際し、草中に倒れていた日露戦争の忠魂碑(右側、明治42年建立)も併せて立て直されている。

№37 庚申塔、慶応2年(檜原村三都郷白倉)

地図に表示されている場所にあったが、道路整備に際して現在地に移動した(檜原村郷土資料館の方の談。次の図参照。したがって、地図に表示されている場所には今は何もない。)。存在感のある庚申塔の左脇には大嶽神社入口碑を兼ねた柱状の御大典記念碑(大正4年)もある。庚申塔が「記念碑」として表示される例はあまりないので、御大典記念碑を表示しようとしたものかもしれないが、そうするとその位置が合わない。(クリックで画像拡大)

№38 富士嶽塔、文政3年(檜原村南郷下川乗)

民間信仰の石造物が記念碑として表示される例は少ないが、地図に表示されている場所には「富士嶽塔」、「寒念仏供養塔」、「二十三夜塔」、「馬頭観音像」などが据えられている。檜原街道が大きく曲がる場所で、よく目に付く場所である。上記写真では富士嶽塔は中央。図を使った表現がユニーク。(クリックで画像拡大)

№39 工事殉職者慰霊碑、昭和33年(奥多摩町原、小河内ダムサイト南岸)

小河内ダム建設(昭和13年起工、昭和32年竣工)で殉職された87名を慰霊する碑。人数からして、相当な難工事であったことがうかがえる。

№40 忠霊塔、昭和30年(奥多摩町河内、小河内神社境内)

日清・日露戦争から太平洋戦争までの小河内村内の戦没者73柱の慰霊碑。小河内村が奥多摩湖で水没することから、奥多摩湖を見下ろす山の上に建てられた。

№41 台湾出身戦没者慰霊塔、昭和53年(奥多摩町留浦)

日本軍兵士として戦い命を落とした台湾人兵士を慰霊した記念塔。塔の形状は、台湾先住民が使用していた「蕃刀」を模したデザインで、台湾産の大理石を使っている。この地に建てられた理由は、ここから見下ろす奥多摩湖の風景が台湾の景勝地「日月潭(にちげつたん)」に似ているからとのこと。