多摩地域東部・北部の「記念碑」

今回は、多摩地域の東部・北部にある記念碑を一つずつみていきます。

地理院地図に表示されているこの地域の記念碑は25ヶ所あります。
地図上に分布させると次のようになります。なお、( )で示したものは、地図上には表示があるものの、現地確認ができなかった記念碑です。

多摩地域東部・北部の記念碑の場所(クリックすると地図が拡大します)

ざっと眺めると、狭山丘陵や多摩川沿いに密度高く分布し、武蔵野台地上では密度が薄いといった状態です。
記念碑は人の活動を記録にとどめ後世に残すという機能を持っているため、住んでいる人の多い(多かった)場所に多いのは自然に肯けます。


1番から順に見ていきましょう。

№1.野口雨情歌碑、昭和27年(三鷹市井の頭4丁目、井の頭池畔)

吉祥寺在住の野口雨情は井の頭池畔によく散歩に来ていた。この碑には雨情作詞の「井の頭音頭」の一節が刻まれている。

№2.東小金井駅開設記念碑、昭和41年 (小金井市東町3丁目)

小金井市東部地区における住民の悲願であった東小金井駅が開設されたことを記念する碑。脇の胸像は、新駅開設協力会会長の宮崎金吉氏。

№3.御野立場碑、大正2年 (国立市青柳3丁目)

大正元年11月18日に天皇が大閲兵においてこの場所に立ち寄られた記念碑。通りには背を向けて、多摩川方向を向いて立っている。(植物が繁茂しており多摩川は臨めない)

№4.史蹟武蔵国分寺址、大正11年 (国分寺市西元町4丁目)

今は廃止された史蹟名勝天然記念物保存法により史蹟に指定された時の記念碑。立っている場所は武蔵国分尼寺の場所。武蔵国分寺の場所にも同様な記念碑が立っているが、どういうわけかそちらは地理院地図には表示されていない。

国分寺跡に立つ「武蔵国分寺址碑」。こちらは地図上の表示はない。

№5.日露戦役記念碑、明治40年 (府中市宮町3丁目)

野津道貫揮毫、裏面は本田退庵の書による出征軍人の名が刻まれている。この時期には各地で日露戦争の記念碑が建てられている。

№6.馬霊塔、(建立年不明) (府中市宮町3丁目)

東京競馬場の脇にあり、競走馬の供養のために建てられたもの。左右に十数基の馬の墓石が並んでいる。

№7.記念碑、明治45年 (府中市四谷3丁目)

西府村の市川茂一がこの地で養蚕を広めることに尽力し、加えて私財を投じて人々の遊楽の園地を作った。このことを顕彰する記念碑。徳川慶喜の題額というところが注目される。

№8.明治三十七八年戦役記念碑、明治39年 (調布市調布ヶ丘1丁目、布田天神社境内)

日露戦争の記念碑。脇に同様な記念碑が2基あり。

№9.多摩川決壊の碑、平成11年 (狛江市猪方4丁目)

昭和49年8月31日~9月1日にかけて襲来した台風16号による大雨で多摩川が決壊し、狛江市の民家19棟が流出したことを後世に伝えるための碑(自然災害伝承碑)

№10.貞明皇后御歌、昭和26年 (立川市柴崎町2丁目)

大日本蚕糸会総裁の貞明皇后(大正天皇の皇后)が詠まれた養蚕に関する歌碑。傍らには蚕糸振興記念碑もある。この地は大正5年に「東京府原蚕種製造所」(後に「東京府(都)蚕種試験場」になる)が設立された場所。今は立川市柴崎学習館になっている。

№11.殉国慰霊碑、昭和38年 (立川市柴崎町1丁目、諏訪神社境内)

日中戦争から太平洋戦争にかけての戦没者の慰霊碑。

№13.将軍塚、昭和12年 (東村山市諏訪町2丁目)

鎌倉街道ルートにあり、新田義貞の鎌倉攻めの際、ここに陣を敷いたとも白旗を立てたとも云われる。

№14.元弘の板碑、元弘3年 (東村山市諏訪町1丁目、徳蔵寺)

新田義貞の鎌倉攻めの際の犠牲者の供養塔。「太平記」の記述を裏付ける内容の記述があり戦史を実証しているとして有名。国指定重要文化財。現在は徳蔵寺保存館内にあるが、昭和42年以前は境内にあった。

№15.明治三十七八年戦役紀念碑、明治39年 (東村山市諏訪町1丁目)

日露戦争の記念碑。乃木希典書。東村山市社会福祉センター裏手にある。

№16.東村山停車場之碑、明治30年 (東村山市野口町1丁目)

川越鉄道敷設の際に住民の力を結集して東村山駅を開設したことを記念して建立。

№17.中野昇君之碑、(建立年不明) (東大和市多摩湖1丁目)

東京市が水道事業の規模拡大を計画し村山貯水池を建設した際、それに尽力し亡くなった中野昇氏を追悼する碑。

№18.殉国慰霊塔、昭和37年 (東大和市奈良橋2丁目)

戦没者の冥福と平和を祈念して建立。脇に損壊した表忠碑がある。

№19.中島先生頌徳碑、昭和11年 (東大和市多摩湖2丁目)

東京市の水需要の増加に対処するため、村山貯水池計画を立案した中島鋭治博士の功績をたたえた記念碑。

№21.六地蔵、明治31年 (武蔵村山市本町5丁目、六道山公園内)

明治30年、赤痢が流行り51名が死亡しこの地で火葬したことから、それを供養して建立。

№22.少飛の塔、平成2年 (武蔵村山市岸3丁目、禅昌寺境内)

大東亜戦争における陸軍少年飛行兵で散華した4,500余柱の慰霊顕彰の碑。昭和38年に東京陸軍航空学校の地に立てられていたが、平成2年に禅昌寺境内に移転建立された。したがって、昭和の地形図には表示されていない。

実は、記念碑の表示は禅昌寺境内に記されていますが、次の地図で示すように「少飛の塔」の場所は境内の中でもかなり南寄りにあります。記念碑の記号の表示は墓地の中央辺りにあって、はたして「少飛の塔」を表示しようとしていたものかどうかちょっと気になります。禅昌寺の関係者に聞きますと、墓地内には他に記念碑のようなものはないし、過去もなかった!とのことでしたが…。(「地図上の記念碑」の台帳がないと、このようになってしまいます。)

赤丸が「少飛の塔」の場所です。こんなに離れていてよいのだろうか、と思ってしまいますが、№22はこれにしました。

№23.殉国慰霊塔、昭和32年 (武蔵村山市本町2丁目)

横田地区における戦没者・戦災死者を供養した碑。

№24.東伏見稲荷大鳥居再建碑、昭和13年 (西東京市東伏見1丁目、東伏見稲荷)

伏見稲荷が昭和4年に京都から遷座した当時の鳥居は仮鳥居であり、昭和11年に倒壊した。それを大鳥居として再建した際の記念碑。(写真に写っている現在の大鳥居は三代目になる)

№25.分倍河原古戦場碑、昭和10年(府中市分梅町2丁目)

元弘3年、新田義貞は鎌倉攻めの際、この地分倍河原にて北条軍と2度の合戦を行って勝利をおさめた。その後一気に鎌倉を落とし鎌倉幕府が滅亡することになった。その古戦場を示す碑。