清流の日野・清水堀沿いを歩き‟吹上大仏”に癒される

暑い夏の盛りに日の出町の鹿野(ろくや)大仏(2023年8月14日付ブログ)を訪ねて、その新鮮さに気をよくしたのを幸いに、さらに日野市東豊田の“吹上大仏”を見たくなった。日野台地から浸み出す湧水も見たい。最寄りのJR豊田駅南口に降り立った。この駅に立つのは久しぶりだ。イオン多摩平の森店が北口に開店した平成26年(2014)以来、10年ぶりだろうか。南口に立つのはもっと前で30年近くになるか。

これからも変わり続けそうな豊田駅南口

度肝抜かれる背比べする集合住宅

当時、駅南口には長年住み続けてきたであろう戸建て住宅が軒を連ねていたが、区画整理されて、いまは10階建てぐらいの集合住宅がニョキニョキと高さを競うように立っていた。私は『浦島太郎だ』と自認を迫られているような気分に陥った。

若いころに行きつけた中央図書館は、どこへ移った? 地元の人に聞いた。「私の家の近くですから、途中までご案内します」と先導されて不安なくたどり着いた。図書館は豊田駅の真南に当たる日野台地の縁(日野市豊田)にあり、赤レンガの瀟洒な建物のイメージは、当時と変わらない。八幡神社の敷地だという。

峠を越したヒガンバナの花も見られた中央図書館下の湧水

心地よい東京都選定の湧水

お目当ての「中央図書館下湧水」は、図書館裏手の崖線から勢いよく澄んだ水が噴き出していた。崖線の上部にある祠は八幡神社だ。平成15年(2003)に「東京の名湧水57選」に選ばれた市内3ヶ所の一つで、2番目に湧水量が多く、毎秒17ℓ。

日野市が選定した「水辺のある風景 日野50選」の湧水でもあり、水路には土留めの杭を打ち、小石も配置されている。日野市では水生生物が棲みやすい環境を再現したという。崖線にはケヤキなどの大木が枝を広げ、葉を重ねた下の水辺に秋の風を思わせる心地よい微風がそよいでいた。

八幡神社は、周辺の矢崎地区の鎮守で豊田の7つの森(白髭神社=惣身の森、天神社、三嶋社、若宮神社など)の一つに挙げられている。図書館の窓辺から八幡神社の祠が望める。いま八幡神社は、若宮神社(東豊田)に合祀されて遥拝所になっている。

林間を思わせる風情の中の水路は100m余り東方へ流れて、一部は豊田用水に流れ込んでいた。もう一方の流路は豊田用水に架かる「やざき橋」手前の小池にドボドボと音を立てて、いったん流れ落ちて、その脇から豊田用水に入っていた。

カワセミもやってくる「やすらぎ処」。右の道路手前に稲が干してある。ガードレール手前が豊田用水

刈り取った稲を干す快適空間

橋の下流には刈り取った稲がはさ掛けしてあった。近くにある1坪(3.3㎡)ほどの田んぼで収穫したものだろう。田には稲を刈り取った後の稲株が立つ。池もある。周囲の住宅やビルに釣り合わない光景だからこそ癒し効果絶大な空間だ。秋を感じさせる光景にワクワク感が増す。ここは矢崎橋やすらぎ処プロジェクトメンバーの管理地だった。立ち入りはできないが、カワセミなどがやってくるらしい。季節とともに光景を変える貴重な一角だ。

黒塀の脇を流れる豊田用水

ゆったり流れる豊田用水

東方へ流れる豊田用水沿いをしばらく進む。豊田用水は同市豊田の浅川に架かる平山橋から取水して段丘崖沿いをゆったり流れ、北東の東豊田を経由して川辺堀之内の日枝神社辺りで浅川へ戻る。延長3.2㎞(支流含む総延長13㎞)。東豊田辺りでは流量が多く、流速もある。人も押し流すほどに思える。澄んだ水の効用に癒やされる。

豊田用水流域には30年ほど前まで水田が広がっていた。春と秋には用水組合員らが用水浚いをして管理していた。近年は援農ボランティアらに声をかけているそうだ。

清水堀の起点で洗ったばかりのサツマイモが置いたあった

野菜洗いに欠かせない清水堀

豊田用水は、東にある豊田小学校へ向かう三叉路をくぐる。この辺りで当方は北側への路地に入る。日野台地を形成する吹上台地の崖線に近づくためだ。幅30㎝ほどの清水堀が東方へ流れている。古くからの用水で、いまも水が湧き続けている。目の前の白髭神社境内下が湧水の起点になっていて民家の軒下などを縫い、地元豊田や東豊田の人々の生活道路沿いを1㎞ほど東方にある東豊田公園手前まで流れている。

崖線にはケヤキなどの木々が生い茂る。崖線下の民家では清水堀の水で洗ったばかりのサツマイモがあった。上水道を引く前は、風呂や洗濯、野菜の洗い物などに使っていたという。いまも生活に欠かせない湧水だと家人が水辺で語ってくれた。「本当にきれいで、いい水なんです」

民家繋ぐ崖線から噴出する湧水

豊田小学校へ向かう道路にいったん戻り、住宅地のひと区画を東方へ。右手にある修空館道場入口の看板を見て、ここで当方は左に折れた。再び崖線に近づくためだ。崖線に突き当たる手前の空き地と雑木林の境を清水堀が流れていた。

崖線(右)と空き地の間を流れる清水堀

水路は、連なる家々の門前や軒下を縫うように延びる。洗い場を設えた地点もあり、生活用水でもあることを今に残す。水路には緑鮮やかな水草が揺らぎ、沿道にはシラカシやケヤキ、クヌギなどの大木が連なる。庭が広がる家々も目に付く。柿がたわわに実り、秋の景色が濃い中で、遅いヒマワリが大輪を広げていた。「水と緑の日野」を象徴する懐かしい光景に安堵している自分に気づく。

清水堀に被さるように実った柿の実

夏に別れを告げるように咲くヒマワリ。その下を清水堀が流れる

日野市では豊田南土地区画整理事業を進めており、この一環で、清水堀を幅1mにして雨水と排水を分け、湧水だけが流れる清流にすることを住民に知らせている。堀沿いには遊歩道を設置して環境に優しく動植物が生息しやすい構造にするという。

湧水量増えた日野台地の崖線下

東京都が「東京の名湧水57選」に選定した平成15年度に比べて、平成25年度には多摩地域の湧水地点(381ヶ所。島しょ含む)が46ヶ所も少なくなっていた。令和3年(2021)度の日野市環境白書によると、湧出地点は令和3年夏期の調査では79ヶ所だった。湧出総量も過去10年間を比較すると、最大量の毎秒160.7ℓ(日量1万3887㎥)と増えていた。中央図書館下など日野台地下位面(80m崖線)からの湧出地点は10地点で、測量可能なのは12.7%。ここでの湧出量は日野市全体の34.3%だった。日野台地上位面の湧出量は前年度比で1.07倍、下位面で1.33倍だった。多摩丘陵では0.49倍に半減していた。

こうした現状に対して、令和3年度の市民意識調査で「日野市の良いところ」の設問に対して「自然環境が良い(水とみどり、農のある風景)など」への回答率は74.5%で前年度より1.4ポイント下がったとは言うものの、日野の自然に関心が高いことを示していた。

水辺の自然を守り、親しむ思い高く

清水堀沿いを歩いていると、豊田2丁目自治会の掲示板が目についた。夏の間、沿道にヒマワリを植える活動に賛同したのは70軒(8月末現在)、合計587輪が咲いたことを報告していた。「散歩中にひまわりが咲いているのを見つけると、お顔を知らなくても、このお宅も豊二(自治会名)なんだとうれしくなりました。来年も取り組みましょう。豊二をひまわりで一杯にしましょう」

柿やナスを庭先で販売していた

庭先販売のテーブルでは「渋みがないので、青くても甘いです」と手書きのメッセージを添えて太秋柿を3個入り300円で販売していた。家に持ち帰って食した。甘みがじわっと口中に広がって2個目の皮をむいた。幟旗を立てて次回の販売日を知らせる柿農家もあった。以前のこの一帯には水田や野菜畑が広がる中にブドウや梨畑が点在していた。その名残を感じさせる庭先もあった。「新高梨は、(今季の)猛暑のため、例年より早く収穫を始めました。傷んだ物が多く、今年の収穫は終了しました」と知らせていた。

善生寺の前庭の池や手水でも上総掘りで揚げた水が豊富に流れていた

上総掘りで汲み上げた水で潤す

清水堀沿いの光景は、のどかで春の小川で遊ぶような身軽さが湧いて、あっという間に“吹上大仏”が鎮座する法華宗大久山善生寺(東豊田)の門前に着いた。参道には釈尊の10大弟子である尊者像を安置していて厳粛さが漂っていた。寺の歴史などは2022年2月7日付ブログで「ヨーク」さんが触れているから割愛しよう。

先代の12代住職の竹内敬覺(きょうがく)さん(90歳)は周辺の用水や境内の池について話してくれた。「豊田地区には上流と下流に2基の水車があった。それほどの水量があり、田畑が広がっていた。また、この辺りではどこを掘っても水が湧く。この裏手の台地と崖線があるから。いまの豊田用水は、浅川から引水しているが、元々は湧水だけだった。この寺では40年ほど前に地中の水位が下がったから上総掘りで5、6m掘り下げて池の水や参拝者用に水を確保した。上総掘りにした家は当時、豊田地区に住み続けていた75軒ほどの中でも5軒はなかったな。井戸は一般的につるべ井戸だった。手押しのポンプやモーターで汲み上げていた」

静穏な表情で東豊田地域を見守るように崖線上に座る釈迦牟尼像

本堂奥の庭に備えられた文殊菩薩などを前にして南を向いた釈迦牟尼像

東豊田地区を見守る5mの大仏

善生寺が開創されて今年で378年。平成時代に入って大きく様変わりした。本堂の奥に吹上台地が迫る。前庭を整備したのに続いて奥庭には文殊菩薩や不動明王など7体の像を据えた。本堂が建つ位置に比べて10mほど高い台地のてっぺんに南を向く釈迦牟尼座像を祀った。釈迦牟尼座像は仏身約5m。鋳銅製。総高6.5m。総重量約8t。浅川の対岸に横たわる多摩丘陵や、落葉した後にJR中央線から抜きん出て見える。

台地に基壇を設えたように高い位置で背を見せる釈迦牟尼像

平成7年(1995)は釈尊生誕2560年、善生寺開創350年にあたったのを記念して釈迦牟尼座像を造立した。ところが、この年の1月17日午前5時46分、阪神淡路大震災に見舞われた。6432人が犠牲になった。大仏の鋳造を地震発生の1週間後に控えていたことから大震災犠牲者の冥福を祈ることにして同年11月3日に開眼法要を行った。

大仏と同じ大きさの手が本堂前庭に据えてある

大仏の顔は、水を打ったように穏やかそのもので沈思黙考を形にした姿に見える。晴れ晴れとして清らかですらある。本堂奥にある大仏と同じ大きさの両手が前庭にあり、触れたくなった。

豊田地区教育発祥の地

善生寺は豊田の教育発祥地でもある。明治7年(1874)、個人宅に開設された豊田学校の生徒が増えて手狭になったことから5年後、善生寺に新校舎を建設して学校が移転してきた。昭和16年(1941)に国民学校の豊田分校になった後、翌年、300m南に 新校舎が完成して移転したが、善生寺の施設は 学校の付属施設として残った。役目を終えたのは昭和31年(1956)。77年間、豊田の教育拠点だった。現在の日野市立第二小学校の前身だ。教育発祥の地の碑の近くには自然石に刻まれた水車小屋があり、これも寺周辺の昔日の一コマだ。

農耕地帯だったころの東豊田地域を彷彿とさせる石造の水車小屋

再び、善生寺前を東進している清水堀の流れに従って進む。東豊田陸橋をくぐると、清水堀は豊田用水に合流していた。用水脇にこじんまりした馬頭観音だろうか、風化して文字が読めない石碑があった。いま、生活道路となったが、遠い昔の人々が往来した街道だったことを物語っていた。

清水堀が合流する地点の豊田用水。趣を新たにしていた