鹿野大仏、百八態羅漢、閻魔王の静穏さに癒された~日の出町平井

穏やかさを絵に描いたような鹿野大仏


日の出町平井の「鹿野(ろくや)大仏」の顔を見たくてJR福生駅西口から武蔵五日市駅行きのバスに乗った(塩沢寶光寺前下車)。鎌倉大仏(11.39m)をしのぐ大きさだけに鹿野大仏の全身が、その名に由来する鹿野山(約209m)のてっぺんに突き出ていた。大仏のお膝元を通る「ふれあい通り」を東へと続く道沿いの寺院には羅漢像や閻魔王像があり、どれも穏やかな顔を見せてくれた。ふれあい通りは“仏街道”であり、熱暑の最中ながら心鎮まる地元旅が楽しめた。

参道の空気を引き締める尊者たち

16の尊者に出迎えられる
鹿野大仏を拝むためには大仏を造立した寶光寺を訪ねねばなるまい。文明10年(1478)に天台宗の寺として以船文済(いせんもんさい)が開山し、その後、曹洞宗に改宗した。江戸時代から明治時代にかけて度重なる災禍に見舞われ、総門だけが焼け残ったという。総門は、古風さ故に重装感を漂わせていた。参道の両側には賓度羇跋羅堕闍尊者(びんどらはらだしゃそんじゃ)や迦諾迦伐蹉尊者(きゃだきゃばしゃそんじゃ)など16体の尊者が、炎熱の日差しを遮るかのように参道中腹に横たわったカヤの大木の下で悲喜こもごもの表情で迎えてくれた。
山門に100体の観音祀る
登り詰めた参道にあったのは山門だ。平成13年(2001)に完成した。仁王像と四天王像が雄々しく立つ。山門上階には33体の観音が3体ずつと本堂再建以前の本尊を祀り、100体が安置されているという。
山門完成と同時に七堂伽藍が復興した。本尊の聖観音菩薩を祀る本堂のほか、座禅堂や客殿、庫裏は檜造り、書院は秋田杉といった名立たる材をふんだんに使っている。境内には清楚感が漂っていた。
清水湧き続ける古の湯元跡
境内を取り囲むようなひな壇の墓地を突き抜けて奥にある秋川霊園に入った。一刻も早く鹿野大仏を見たくて。鹿野山のてっぺんで座禅する姿の大仏は、ひときわ大きく鎮座していた。ますます早く大仏に近づきたいというはやる思いを抑えた。

鹿野山上で座禅する鹿野大仏(秋川霊園で)


霊園からいったん下りて鹿野大仏表参道脇の宝光寺沢にある「鹿の湯湯元跡」を見ることにした。背の低い草木が広がる沢でカシの木がすっくと立ち、その脇に「鹿之湯大権現」が祀ってあった。カシの根元から湧水が静かに湧く。直径1mほどの石囲いが古を物語る。一帯に湯宿があったとは。

清水が湧き続ける鹿の湯湯元跡

鹿の湯の由来は500年ほど前に遡る。天文6年(1537)、寶光寺を開いた以船文済が脚に傷を負った1頭のシカが湧き出る水に傷を浸し、数日経つと傷が治っていたのを知った。これを見た文済は、湧水を沸かして人々に勧めた。けが人や皮膚病の人々がたちどころに治った。そこで文済は、この湯を「鹿の湯」と名付けた。文化11年(1814)、浴客を禁止したが、天保年間(1830~46)に再興して明治20年(1887)ごろまで、多摩七湯の一つに挙げられたほどにぎわった。
 ☆他の多摩七湯の所在地 ①岩倉温泉(青梅市小曽木)②出湯(青梅市長淵)③鶴ノ湯(奥多摩町原)④蛇ノ湯(檜原村数馬)⑤藤ノ湯(あきる野市三内)⑥玉の湯(あきる野市網代)

杉林にも凛々しさが伝わる鹿野大仏

見惚れる純真無垢な座禅姿
大仏への表参道に戻って坂を登り、杉林の中から横顔の大仏を仰ぎ見た。粛然と座禅をする。左右の手指を結ぶ印は禅定印。最高の悟りを表した瞑想状態にあることを表したものだ。背は直線に伸び、肩の形状は自然体。「静」の中に温もりを感じる姿に見惚れる。そんな熱い思いが参道を駆け上がらせた。

大仏に近づくにしたがって、像は巨大さを増した。だが、威圧感がないのはなぜだろうか。すべての仏像の基は釈迦如来だといわれる。この大仏も釈迦如来だ。滑らかな体の線が優しい。座禅で得た純真無垢の姿なのだろうか。座禅の根本といわれる調身(姿勢を調える)・調息(呼吸を調える)・調心(雑念を払い、心の乱れを調える)の美なのか。鹿野大仏が公開された平成30年(2018)以来、5年ぶりの再訪で、今回もうっとりとさせられた。

表参道の上段から見た鹿野大仏

奈良の大仏に次ぐ高さ12m
鹿野大仏は、銅合金で造られ、やがて緑青から青緑色になるという。高さは奈良・東大寺の大仏(14.7m)に次ぐ12m。鎌倉大仏よりも大きい。膝幅10m。八角形の台座(高さ3m、横幅15m)と円形の蓮華座(高さ3m、直径14m)を重ねた上に大仏が鎮座している。頭頂は18mに及ぶ。重量は60t。総工費は大仏と蓮華座だけで約4億円だという。大中小、合わせて670個に及ぶ螺髪は、同じ大きさに見えるように設えてある。

製造したのは山形鋳物で知られる鋳造所。5年がかりだった。八坂良秀住職らが気を配ったのは顔だった。粘土で作った仏像の模型をいろんな角度から何度も見直した。頬がふっくらし過ぎていないか。大仏の顔の表情は、見る角度で微妙な違いがある。同じ穏やかさでも深みと温かさを併せ持っているように感じた。設計は翠運堂(本社・松戸市)が担当した。
出来上がった大仏はパーツに分けて鋳造所から寺まで車で運び込み、現場で組み立てた。一連の作業には平安時代後期の技術が登用されたほか、職人が100人ほど関わった。

お膝元から正面を見上げた鹿野大仏
右下から見上げた鹿野大仏
左下から見上げた鹿野大仏
袈裟にも繊細さが表れている鹿野大仏
台座の胎内で輝く仏にも目を見張る

「絶望と希望は命の振り子」
そんな大仏を仰ぎ見ながら、宗教でいう死への迷いとは別に、生あるものの迷いとは何だ?とつぶやいている自分がいた。疎外感を感じた時に孤独を感じることがある。他人は自分の思い通りにはならないし、自分の思うようにできるのは自分以外にない。人はそれぞれ一人で生きる動物だ。
そういえば、先年亡くなった彫刻家の関頑亭さんは、脱活乾漆法で弘法大師像(高さ約2.4m。中野・宝仙寺に安置)を制作しながら「私の職業は人間です」と言ったのを、「私は迷いの連続」という意味だと解釈したっけ。私が好きな「おときさん」(歌手・加藤登紀子さん)は「絶望と希望は命の振り子」と言っている。絶望感の後に奮起する気持ちが湧き、絶望を跳ね返えすのだと説く。私はいわば、諦めの悪さで明日につなげようと何十年も生きてきたなぁ。

平穏な流れを見せる平井川(平井橋で)

平井川流域に根付く伝統の舞
鹿野大仏の山を下りた。バス通りの宿通りよりも一本手前の、平井地域の生活道路の趣が濃い「ふれあい通り」を東へ歩いた。平井川の左岸を並行する形だ。平井川は日の出山(902.3m)を源とする延長16.5㎞の多摩川に注ぐ1級河川。平井川支流の北大久保川、玉の内川など4河川は、すべて左岸から流入しており、日の出町の地形をそのまま映している。

釣り人も遊ぶ平井川(中里橋で)

歩き始めて間もなく、いつか来た道のような光景を目にした。春日神社で蘇った。平成28年(2016)6月、多摩めぐりの会が生まれる前に有志で立ち寄り、鳳凰の舞や神輿について地元の人に話を聞いたことを思い出した。
鳳凰の舞は、平井地区に古くから伝わる民俗芸能で毎年9月29日に近い週末に神社に奉納される。国の重要無形民俗文化財。10人の踊り手が太鼓に合わせて勇壮に舞う。子供たちが扇と木刀を持って演じる「奴の舞」の二庭から構成されているというが、私は、まだ見たことがない。今季、見られるか?
村焼けても守り通した先祖の塔
春日神社に隣接しているのは真言宗豊山派の月向山蓮華院常福寺。本尊の不動明王を祀る。戦国時代の永禄年間(1558~70)に森田将監祥昌が開基し、その後、修験者の圓秀が開山したと伝わる。江戸時代には寛文7年(1667)、代官・曽根五郎左衛門吉広が2反2畝(約2180㎡)の土地を徐税して寺に寄付したという。その後、一時廃寺となりかけたが、僧儀殿が再興した。明治15年(1882)3月には大久野村の大部分と平井村北側全域を焼くつくした「大久野焼け」で堂宇を全焼。空海筆跡などの寺宝は灰燼と化した。その後、長らく仮普請だった本堂や客殿を平成2年(1990)に再建した。

古色を重ねた宝篋印塔

境内には基礎の上に塔身、笠、相輪を重ねた高さ5.4mに及ぶ文政元年(1818)8月に建立された宝筐印塔が立つ。宝篋印塔を礼拝することによって、先祖を供養し、一族を繁栄へ導くといわれる。いわば先祖の墓だ。塔の中には仏舎利など経文が納めてあるという。
気持ちほぐすアイドルと阿羅漢
その重々しさを和らげているのが常福寺のアイドル「福ちゃん」だ。近在では昔から幸福を呼ぶ鳥として梟(ふくろう)を可愛がってきた。「ふくろう」を「不苦労」に置き換えて、少々の苦労を惜しまず日々、物事に励んで幸福を呼び込んでほしいと住職は、平成11年(1999)に石の梟像を設置した。

境内をぐるりと囲む羅漢の数々

これに加えて信楽焼の「百八態羅漢像」もまた、人の心の内を微笑ましく形作り、境内の木々の根元から顔を覗かせている。地元の彫刻家・星野亮斉さんが制作したものだ。星野さんは言う。「私たちは、欲望で苦しみ、怒りで悩み、愚かさで迷う日々を生きています。その元にある貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、癡(おろか)さを三毒といい、これから生じる数え切れないほどの心の乱れを総称して『百八煩悩』といいます」。この煩悩を消すために修行を積んで尊敬されるにふさわしい聖者を阿羅漢といい、昔から羅漢さんとして親しまれている、と続け「私たちの心を解きほぐし、安らかな仏さまの世界に遊んでほしいと願い、羅漢群像を生んだ」という。

「ほ~、どうした?」
「ほ、ほ、ほ」
「ん~そうか」
「また、おいで」

108体はそれぞれ、人の喜怒哀楽、悩み、不安などを顔の表情で形作っている。怒りや苦悩の像の前に立つには勇気がいった。そのこと自体が自分を映すようで。だから笑顔の像を見て回った。気が晴れた。星野さんがいうように「どこかで会ったような、誰かに似ているような、そんな羅漢さん」のように見えた。

閻魔王も優しく見つめる

炎天下だからだろう、ふれあい通りを歩く人の姿はなかった。沿道にある東光院(曹洞宗瑠璃山、創建不詳。1665年曹洞宗に改宗)、妙見宮(創建685年、東光院管理)、祥雲寺(曹洞宗龍頭山、創建1552年)は、どこも趣がある。古道に入れば、高札場があり、往来があったことを示す。

平井川に架かる東平井橋のたもとには濃いピンク色のフヨウが咲き誇っていた。水清く、水草がしなやかに揺れる平井川に彩を添えているようだった。小川の風情もある平井川の東平井橋を渡り、バス通りに出た。ここを右折したら、すぐにコワイ閻魔様を祀る曹洞宗積善山保泉院がある。

閻魔王座像(東京都有形文化財)は、平成18年(2006)に大掛かりに修理されて文明5年(1473)、仏師了戒(了成)が造像した当時の姿に蘇ったという。前面は金網からアクリル板に変えられてすっきりと拝顔できた。

大型閻魔王の先駆けとなった閻魔王像

閻魔王像は檜の寄木造りの座像だ。体部分は複数の木材を独特な形で繋ぎ合わせてある。高さ89㎝というが、それ以上に大きく感じる。左右の裾幅は124.8㎝。全身から重量感が伝わってきた。
閻魔王像は、日奉(ひまつり)重清が創建した平井郷の閻魔堂に安置されていた。江戸時代末期の文政年間(1818~30)のことだ。永禄元年(1558)、その後の慶安5年(1652)にも修理されて、地元の人々に慕われていたことをうかがわせる。その後、保泉院に移されたという。

先駆的な大型の江戸前期の作
閻魔王といえば、地獄の支配者であることから、怒髪天を衝く怒りの形相を誇示しているのが一般的だが、ここの閻魔王は玉眼の丸っこい目を大きく見開いているものの、口元の開け方から感じるのは憤怒というよりは穏やかさが滲んでいる。江戸時代前期の大型閻魔像の先駆的な作例といわれる。頭上に冠をいただき、右手に笏(しゃく)を持ち、中国の道服(どうふく)を着て座る姿は泰然とした趣も映る。
この日一日、仏めぐりをして行く先々で見る者の存在を認めてもらえた心境になり、勝手に安堵した。「救いの道」とは、このことか? いや、そんな簡単なはずはないと気を引き締めた暑い夏の一日だった。