地名から浮かび上がる地域の姿-東久留米の「道」地名

今回は地図にはなくてはならない「地名」に関連したことについて書きます。

地図は地表面の状態やその表面に存在するモノについて記述したものですが、そこに記載されている多くの事項の中で、「地名」だけが「無形」のものです。

今回、このブログを書くきっかけとなったのは、東久留米市周辺の明治後期の地図を眺めていて、ある面白いことに気が付いたことに始まります。
次がその地図です。東久留米市は当時は北多摩郡久留米村でした。

明治後期の「北多摩郡久留米村」(明治39年、1/20000「膝折」)

この地図に記載されている事項で、赤丸で示した多くの「●●道」が眼に入ってきたのです。
書き出すと、東京道府中道滝山道布田道秩父道です。

陸地測量部が作成した公的な地図ですので、その記載ルールに依れば道の名前が地図上に表示されることはありません。したがってこれは地名ということになります。

念のために、江戸期もしくは明治初期の絵図を探してみたところ、明治6年頃に地租改正のために作成された「地引絵図」がありましたので、それに書かれている字(あざ)名を確認すると、字滝山道字府中道西字布田道と「●●道」がはっきりと字名として示されています。

「前沢村・地引絵図(明治6年頃)」 字名(黄色の枠囲いをした)が読めるように南を上にし、対応する道の進路に矢印を付した。

さて、道の名前が地名になっているというのはあまり聞きませんし地図上で見かけることもほとんどありません。しかもこのように集中して存在するというのは大変珍しいことです。
ですから、「多くの道の名前が地名になるということは…」、といろいろなことが頭に浮かんできました。

◆武蔵野の典型的な風景を象徴している?
地名は普通はまずその場所の自然地形で表すことが多いものです。例えばここに示している地図上にも、前澤、南澤、小山、向山などがあります。
次に、その場所のランドマークとなる人工物も地名になります。この地図では、稲荷塚、宮前、白山前、多聞寺前があります。

したがって、このようなモノで場所を特定することが困難なほどに、何も目に付くもののない武蔵野の単調な原や畑が広がっていたということではないでしょうか。
特徴のある目につくものといえば原野に延びている道だけといった風景が目に浮かびます。
まさに「武蔵野」の典型的な景色です。

◆交通の要衝であったことを示している?
次に、これだけ多くの道の名前が集中しているということは、この付近が交通の要衝であって、各方面へ四通八達する必要のある何かがあったのではないか、ということが気になりました。

まず道の名前を見ていきましょう。
道の名前は、その場所からどこへ向かって行くのかその主要な場所の名前を付けるのが自然です。江戸へ向かうから江戸道、府中へ向かうから府中道というように。

東京道:明治39年ですから東京道となっていますが江戸時代であれば江戸道と呼んでいたのでしょう。江戸へ向かう道です。
府中道:言うまでもなく甲州街道の府中宿へ向かう道です。明治時代になると久留米村を統括する北多摩郡の郡役所もありました。
布田道:これも甲州街道の布田五宿(調布市)へ向かう道です。
秩父道:秩父へ向かう道。
滝山道:現在の八王子市滝山へ向かう道です。滝山が何故目的地になるのかといえば、滝山には戦国時代末期に多摩地域を支配していた小田原北条氏の支城である滝山城およびその城下町がありました。江戸時代には既に滝山城やその城下町はなく八王子に中心は移っていたのですが、戦国末期の道の呼び名がそのまま江戸時代を経て明治時代まで残っていたものと思われます。

この地名の辺りから道の向かう先を示すと次のようになります。

各道の行先(「今昔マップon the WEB」(関東1894~1915年)により作成)

このように描くと、これら矢印の出発する場所が気になりますね。

この場所は江戸時代においては前沢村の「前沢宿」辺りになります。
大きな街道におけるような正式の宿場ではないのですが、このようなロケーションであれば旅人や行商人が宿泊できる「宿」の機能は確かに必要であったのではないかと思われます。
次に示す地図は冒頭の地図を拡大したものですが、家並みは東西に伸びる真っすぐな道の両側に連なっており、町が形成されています。

上掲「北多摩郡久留米村」の部分拡大図

現在でも交差点名が「前沢宿」となっています

でもこれだけではなさそうです。
さらに調べると前沢村に気になるものが2つありました。

◆前沢御殿
江戸時代初期に尾張藩の鷹場の施設として、「前沢御殿」(別名、楊柳沢御殿(ようりゅうさわごてん))がありました。(上の拡大地図に表示)

1641年~1676年までの35年間に35回の鷹狩のあったことが記録に残っています。
鷹狩の一行は尾張藩主を始めとして300人ぐらいの規模で、10日~1ヵ月ほどの滞在日数でした。その間、周辺の村からは人足の動員、物品の調達、それに鷹場の整備などで人や物が相当動いたと思われます。

前沢御殿のあった所。今は墓地となっている。

前沢御殿(楊柳沢御殿)説明版

◆米津寺(べいしんじ)
この地は大名米津(よねきつ)家の知行地で、その菩提寺・米津寺も前沢宿にありました。(上の拡大地図に表示。ただし、寺の記号が記載されていない)

この大名家は後に久喜藩(埼玉県久喜市)や長瀞藩(山形県東根市)の藩主となりましたが、ここ前沢に菩提寺を置いていました。現在ではこの米津家の墓所は東京都多摩地区に所在する唯一の大名墓所として、東京都の指定史跡になっています。

米津寺本堂に架かる扁額

米津家墓所(東京都指定史跡)

米津家墓所説明版

ということで、このようなものがあれば、各地からあるいは各地へ移動する人や物はそれなりに多く、人々のコミュニケーションの中でこの道の名前を口にすることは多かったことでしょう。
このことがすべてではないでしょうが、これらが少なからず関係して、道の名前が字名になったのではないかと想像しています。

現在においては、この辺りの地名(住居表示)は「東久留米市中央町」となっています。東久留米駅前や東久留米市役所のある繁華な所から離れたこの場所を中央町というのは少々違和感があるのですが、この場所の歴史を踏まえれば納得のいく住所と言えます。

現在の地名と主要な街道 (地理院地図に追記)

明治期に道の名が地名になっていた場所の現在の地名(住居表示)を確認しておきましょう。
東京道→南沢2丁目:江戸時代からの南沢村から
府中道→中央町5丁目
滝山道→八幡町3丁目:前沢の鎮守である八幡神社から
布田道→中央町5丁目
秩父道→南沢5丁目
これらを眺めていると、現在の地名はいかにも味気ないと思ってしまいます。

道の名前が昔から変わりました。

それから、道の名前も今は変わってしまいました。
東京道→東京へ向かうのに他の道が多く利用され、今では地域の生活道路的に利用される位置づけになり、「南沢通り」、または「笠松通り」と名称もローカル色の強いものに変わっています。
府中道→小金井街道
滝山道→昭和40年代の団地開発により道が消滅しました。
布田道→道筋は薄く残っているものの今は道に名前が付いていません。
秩父道→所沢街道

滝山団地の造成で滝山道が消えた (Google Earth を利用して作成)

滝山道についてもう少し付け加えると、大規模な団地造成によって道そのものと名称は消えてしまいましたが、「滝山団地」という団地の名前にその名を留めています。そしてこの辺りの住居表示名も「滝山●丁目」となっています。
「道」が取れてしまった今では、まさか八王子の滝山と関係した地名であることを知る人は少なくなってきていることでしょう。