武蔵国分寺種赤米のはなし(7)〜土壌調査結果について〜
今回の武蔵国分寺種赤米のはなしは、赤米の生育不良を打開すべく本年2020年9月22日に行われた「国分寺市赤米栽培圃場の土壌分析結果」についてお知らせします。 圃場の場所は国分寺市西元町の塔跡2の南にな
今回の武蔵国分寺種赤米のはなしは、赤米の生育不良を打開すべく本年2020年9月22日に行われた「国分寺市赤米栽培圃場の土壌分析結果」についてお知らせします。 圃場の場所は国分寺市西元町の塔跡2の南にな
先のブログで、かつて武蔵野市に5万人を収容できる「グリーンパーク野球場」と呼ばれる球場があったことを紹介しました。当時、大人数の観客を球場へ輸送するために鉄道も敷かれていました。その鉄道が、「三鷹駅」
「まいまい」は、「カタツムリ」の事であり、井戸の形がその殻に似ていることから「まいまいず井戸」と呼ばれる。 地表面をすり鉢状に掘り下げてあり、すり鉢の底の部分から更に垂直の井戸を掘った構
もう10年以上も前のことになりますが「多摩・武蔵野検定」の勉強をしているときに、八王子市の大谷町に「北大谷古墳」があることを知りました。我が家に近い所らしいので「いったい何処に、どんな形であるのか?」
今回は、多摩にある4つの一等三角点のうち、今までの紹介で残った最後の一つについて書きます。(既に紹介した他の3つは、「三鷹村」2020.1.27、「雲取山」2020.3.9、「連光寺村」2020.7.
籾摺り(もみすり)は唐臼(からうす)で行う 脱穀(だっこく): 稲(いね)→籾(もみ)+稲わら 籾摺り(もみすり): 籾(もみ)→玄米(げんまい)+籾殻(もみがら) 精米(せいまい): 玄米(玄米)→
武蔵野市の空撮写真を眺めてみると、都立武蔵野中央公園の東隣に、都営住宅などを間に挟んで円を描くように敷設された道路とその道路に囲まれて立ち並ぶビル群が写っています。ビル群はUR都市機構の武蔵野緑町パー
立川飛行場の始まりは、大正11年(1922)6月、陸軍航空第5大隊が岐阜県各務原から立川へ移駐したことから始まる。 大正時代の立川飛行場 その後、昭和時代の初めに民間空港としても共同利用されていた時期
今回は唐臼について書く予定でしたが、今年作っている赤米株が次々と枯れ出してしまい緊急で原因を調べることになりました。予定を変更して「陸稲の連作障害について」書くことにします。唐臼については次回以降とし
全国植樹祭は、戦後の国土緑化運動の中心的な行事として第1回、昭和25(1950)年、以来、天皇皇后両陛下のご臨席のもと、全国各地から緑化関係者等の参加を得て、両陛下のお手植えや参加者による記念植樹等
国道20号を東京から甲府方面に向かう八王子市大和田町3丁目で、多摩川の支流浅川に架かる大和田橋を渡ります。太平洋戦争末期の昭和20年8月2日に、アメリカ戦闘機B29が67万個の焼夷弾で市街地を火の海と
前回のブログでは、一等三角点「連光寺村」のある多摩丘陵にちょっと触れました。(一等三角点「連光寺村」) 今回は、「イルカ丘陵」と呼ばれる丘陵について書きます。 ■「イルカ丘陵」とは 「そんな丘陵の名前
籾摺り(もみすり)がたいへん 前回、実際に手作業でやってみると籾摺りがいちばん大変だったと言うお話しをしました。では昔の人は大量に採れた籾をどうやって籾摺りして玄米(げんまい)にしていたのでしょうか。
旧国立駅舎が完成 JR国立駅前、ずーっと建築中だった赤い三角屋根の建物。電車で通り過ぎる際に車窓から眺めるだけでしたが、遂に完成したので、途中下車してみました。 旧国立駅舎とは 1926(大正15)年
自粛生活を経て、週一の相模原通いが再開しました。車で町田を通って行くのですが、多摩丘陵の向こう側の街は起伏というより山あり谷ありの地形に始まり、ちょっとした未知の世界で新鮮な驚きをもたらしてくれます。