深緑と坂道と多摩川 立川崖線の里、青梅・千ヶ瀬河辺下通り~河辺駅前の顔

青梅線駅前シリーズに打って付けと思ったのは河辺駅とペデストリアンデッキで直結している北口駅前の再開発ビルに入っている青梅市立中央図書館と、その上の階にある河辺温泉梅の湯だった。図書館で吉川英治や干刈あがた、本橋靖昭、小川秋子、小林敏也さんら小説家や絵本作家たちの作品を集めた青梅市ゆかりの作家コーナーから本を借りて、温泉の休憩コーナーで読もうと目論んでいた。だが、新型コロナの変異株による感染が蔓延して東京は3回目の非常事態宣言下に陥った。図書館も温泉も臨時休業してしまった。

だ円形ペデストリアンデッキ。駅前の河辺タウンビルA館(右)には20店舗余りが入るスーパーマーケットのイオンスタイル河辺があり、B館(左)には青梅市立中央図書館と5・6階に河辺温泉梅の湯がある。A・B館5階の上空通路で結ばれている

河辺タウンビルA・B館を結ぶ5階の上空通路の窓越しで見る河辺駅北口のペデストリアンデッキ「河辺びっぐぷらむ」。2008年に完成した

次の手を考えた。東京を象徴する多摩川が作り出した扇状地、武蔵野台地の扇頂が青梅駅近くだ。古多摩川が今よりもはるか北側を流れ、時代と共に南下して扇状地となった武蔵野台地は、青梅市街地から北側の霞川沿いと南側の立川崖線に挟まれて広がる。この扇状地の南端に東西へ延びる立川崖線を楽しむことにした。河辺駅は立川―青梅駅間の駅の中で多摩川に最も近い。

多摩川の扇状地である武蔵野台地の始まりが青梅であることが分かる航空写真(地理院地図・全国最新写真(シームレス)に追記)

武蔵野台地の胸元を歩く
武蔵野台地の胸元に当たるのが河辺駅付近。駅南口から徒歩3分ほどの住友金属鉱山アリーナ青梅(青梅市総合体育館)南側に立川崖線が横たわっている。この崖線の下に細長く平たんに広がる台地が千ヶ瀬面で、ここを通る千ヶ瀬河辺下通りを歩いた。
千ヶ瀬河辺下通りは奥多摩街道河辺東交差点から南に下って西の千ヶ瀬町4丁目、青梅街道交差点までの2.8㎞区間だ。千ヶ瀬面を東西に突き抜けて奥多摩街道のう回路にもなっている。このルートを中心に左手に見え隠れする多摩川や右手に高く生えそろったグリーンベルトが覆いかぶさる崖線の坂道や階段を昇ったり下りたりして目に見えるものに誘われるままにジグザクに歩いた。北側に崖線のグリーンベルトが覆いかぶさるのと対照的に、南側の空は広い。手前に多摩川が横たわり、対岸には長淵丘陵の穏やかな稜線が帯のように長く続く。
疫病退散願って八雲神社勧請
河辺東交差点からの千ヶ瀬河辺下通りは、崖線を下る長い坂だった。沿道にはいくつものマンションが続き、住民らは居ながらにして南眼下に這う多摩川を借景にしているのだろう。沿道の所々に蔵を構える民家もある。東部域に商店がない中で「バラエティストアこやま」は住民に欠かせない食糧庫だ。
崖線方向へ足を変え、坂道を登った。「天王坂」というらしい。木々に覆われた鳥居と急階段の上に社が見える。小ぢんまりした八雲神社(河辺町3丁目)だった。村に疫病がはやり、その退散祈願で江戸時代後期の安永2年(1773)に勧請した。祇園牛頭天王社だったのを明治時代に入って今の名に変えたという。坂の名前は、勧請した当時のままだ。境内にあった馬頭観世音の碑が際立って大きく見えた。

立川崖線の斜面に設けた急階段の参道上にある八雲神社

狭い境内に置かれた馬頭観世音の碑も歴史を滲ませていた

道路沿いのマンション脇から直接崖線下に降りる急階段。めまいしそうだったが、地元の人たちの重要なルート(河辺町2丁目で)

急階段(奥正面)を下った先の坂の途中で交差している道路

100段の階段上に広がるパノラマ
千ヶ瀬河辺下通りに戻った。民家が連なる中で黒い厳かな木造の門に目が行く。真言宗豊山派の盛光山東円寺(河辺町3丁目)だ。閉ざされた門の脇から境内に入らせてもらった。
創建は鎌倉時代後期の応長元年(1311)と伝わる。良海が中興開山し、慶安2年(1649)に江戸幕府から寺領3石の朱印状を得たといわれる。掃き清められた庭、小石が敷き詰められた参道。清楚だ。庭木の青葉が瑞々しい。
本堂背後の崖線の木々は、緑の屏風になっている。本堂の屋根上から奥のマンションの上階が頭を出していた。その東側の崖線に這わせた急階段をゆっくりと下りる人がいた。
この階段に息を切らしながら昇った。100段あった。その甲斐あってか、崖線上から本堂の大屋根が足下になり、千ヶ瀬河辺下通りに沿う民家、多摩川、長淵丘陵、さらに南西に大岳山を中央にした奥多摩の山々が連なっていた。噴き出していた汗がいつの間にか引いていた。

東円寺北側の崖線上から30度近くもある急階段を下りる人の姿も

眼下の家の屋根に足を置くように下る急階段(東円寺北側の崖線から)

東円寺本堂北側の崖線上から河辺町の家並みや多摩川とその対岸に長淵の家並み、さらに長淵丘陵、奥多摩連山が展開していた

東円寺裏の崖線上には大岳山が間近に迫っていた

崖線の壁が醸し出す清新さ
東円寺と並んで春日神社(河辺町3丁目)がある。千ヶ瀬河辺下通りに面している。小ぶりの拝殿の奥に、ここでも崖線の壁が立ちはだかり清新さを漂わせていた。
創建は不明だが、江戸幕府から社領3石を拝領していた河辺村の鎮守だ。元は春日大明神と称した。新編武蔵風土記稿に載り「社地十間四方、(河辺)村の中ほどにあり、三間四方の覆屋なり、前に鳥居を建て」と記す。
明和元年(1768)に焼失した後、東円寺住職だった心眠房意賢が村の人たちと共に10年ほどかけて近くの現在地に再建。明治6年(1873)に村社とし、明治35年、春日神社に改めたという。鳥居をくぐったところに児童公園があり、地元の人々が集う神社であることを色濃く出していた。

寛政時代(1789-1800)の石燈籠も目についた春日神社(河辺町3丁目で)

斜面の石垣を覆うバラに癒された

多摩川の川原に咲いていたハリエンジュ。青空に白い花房が映える

イモカタバミの花びらの勢いもいい

林川寺前に横たわる多摩川
春日神社を出て、千ヶ瀬河辺下通りから離れて坂を下った。多摩川沿いの小道を進むと林川寺(河辺町3丁目)境内に出た。曹洞宗の寺で山号は高雲山。この地に天正元年(1573)天寧寺(青梅市根ケ布)6世九山整重禅師が庵室を開いたのが創建とされる。元禄2年(1689)焼失後、再建。薬師如来像を本尊としている。
本堂に掛かる寺額に「林泉寺」とあるが、門柱には「林川寺」とあった。改めて地図を見た。「林川寺」とある。『泉も川も水に縁が深く、目の前に多摩川の水がゆったり流れている。気を静めよう』と自分に言い聞かせた。境内に配した小さい池は日光を反射させて光の泉になっていた。
境内前の多摩川の河原に降りたかったが、要注意の警告板が道を閉ざすように置いてあった。流水が川岸をえぐったか。身を乗り出してみると、砂と小石混じりのガレ場がほぼ垂直に切れ落ちており、その下に流水が見えた。私の足腰ではガレ場と格闘する自信がないと降りるのを諦めた。
この地点から多摩川下流100mほどに河辺の渡しが昭和8年(1933)まであった。対岸の長淵集落をはじめとする調布村と河辺村を結んでいた。崖線上には大山道(武蔵秩父大宮道)の道標があることから相州(神奈川県)大山(阿夫利神社)の参詣や箱根ヶ崎(瑞穂町)、所沢(埼玉県)へと向かった人々もいたろう。この上流に下奥多摩橋が架設されて渡しは廃止された。
このほか青梅市街地近辺に渡船場が4ヶ所あった。上流には冬季だけ橋がかかっていた大柳の渡しが万年橋(明治30年=1897年)に、青梅と五日市を結んでいた千ヶ瀬の渡し場近くに調布橋(大正10年=1921年)が架かり廃止された。下流にあった友田・小作の渡しでは、明治末頃まで船頭が河原に小屋を建てワラジなどを編みながら客待ちしていた。大正時代初め、大水に備えて両岸に太いロープを張った鉄索(搬軌)に籠を吊り下げた。いまでいう空中ケーブルに乗って川を渡っていたが、大正9年に吊り橋の多摩川橋に生まれ変わって廃止された。コンクリートの橋になったのは大正9年で、昭和62年(1987)にいまの橋に架け替えられた。

池があるこじんまりした境内の林川寺(河辺町3丁目で)

崖線下から這い上がるように長く延びている坂道(右)から枝分かれした道も坂だった(東青梅4丁目の青梅市立総合病院下で)

大山道の道標。自然石を刻んだ大日如来塔に「右 大山 八王子 左 箱根 所沢」と記す。箱根とは瑞穂町箱根ヶ崎のこと(青梅総合病院西側で)

千ヶ瀬河辺下通り北側の道路沿いに広がる農村風景(千ヶ瀬町1丁目で)

2本のシイノキに抱かれる千ヶ瀬神社
千ヶ瀬河辺下通りに面して鳥居があったのは千ヶ瀬神社(千ヶ瀬町1丁目)だ。鳥居をくぐって青梅二中グラウンドに沿った参道が100mも続く。その先に拝殿の屋根よりも高い崖線の樹林が被さっていた。周囲の‟静かな村”風情とシックな社の趣が重なって厳かさを醸し出していた。
1千年ほど前、出雲国杵築大社(現出雲大社)社人の次男・出雲太郎がこの千ヶ瀬村に住み着き、杵築大社の神を勧請して出雲大社と称したのが始まりだという。社殿を再建したのは承平3年(933)。かつては稲荷大明神とか、稲荷神社ともいわれたが、明治15年(1882)お伊勢森の神明大明神宮を合祀して村の名をつけた千ヶ瀬神社と改称した。豊宇気姫命、大国主命など5柱を祭神としている。
境内に神木のシイノキが2本ある。出雲太郎が植えたと伝わるスダジイだ。本殿東側の斜面にへばりつくようにある木に「朝日の御蔭」という名がついている。千ヶ瀬町の象徴であり、青梅市内最大の巨木だ。高さ約16m、幹の太さは5.6m。青梅市天然記念物に指定されている。
一方の「夕日の御蔭」は拝殿西側の神明社前にある。初代の木は文明12年(1480)の大風で折れたのが元で枯れたという。いまある大木は2代目なのだろうか。支柱に乗る大木も風格を醸し出しており、葉は深緑で、この日の青空に映えていた。

千ヶ瀬河辺下通りから長い参道の先で崖線を背負っていた千ヶ瀬神社(千ヶ瀬町2丁目で)

東のシイノキ「朝日の御蔭」(千ヶ瀬神社で)

西のシイノキ「夕日の御蔭」の下で休憩するウォーキング中の2人(千ヶ瀬神社で)

崖線を突き抜ける青梅街道と奥多摩街道(手前の橋上)が交わる青梅市役所下交差点。奥の架橋がJR青梅線(東青梅4丁目で)

崖線をくり貫いた新しい道路(千ヶ瀬町2丁目交差点付近で)

筏で江戸市中へ送り込んだ青梅材
多摩川といえば、真っ先に思い浮かぶのは筏だ。筏流しの期間は秋の彼岸から春の彼岸ごろまでだった。筏に組まれた木材が取り引きされたのは下奥多摩橋の下流にあった「千ヶ瀬の筏会所」だ。上流の奥多摩から管流しで青梅下げした木材を筏に組み直して会所で取り引きされて、青梅材として再び多摩川を下り、城下の市中へ運び込んだ。江戸時代から大正時代末期まで、川の底から威勢のいい声が響き上がっていただろうと橋上で想像した。江戸から4、5日かけて帰ってくる筏乗りたちは品川道を下り、羽村以西では主に千ヶ瀬河辺下通りを歩いたのだろう。筏流しは、その後、トラック輸送に代わり、姿を消した。

多摩川の河岸段丘沿いに延びるグリーンベルト。写真前方は河辺町付近のマンション群。その奥に立川崖線が延びる(下奥多摩橋から下流を望む)

江戸城へ上納したアユ
多摩川を代表するもう一つの風物詩はアユ漁だった。この日、下奥多摩橋の下で糸を垂れる釣り人の姿に見とれた。多摩川の中流域のアユは、江戸時代初期から特産であり、「御菜鮎」とも「御用鮎」「上ヶ鮎」ともいわれ、各村で持ち回り、互いに連携して江戸城に上納していた。明治から昭和初期まで鵜飼いも行われていたという。
織物の町を象徴するノコギリ屋根
千ヶ瀬河辺下通りから南に入った道沿いに、かつての「織物の町」を象徴する木造のノコギリ屋根の建物があった。江戸時代中期の享保17年(1732)の文献に青梅で産出されていた青梅縞が登場する。多摩川の清流で布をさらす光景も、この地の風物詩だった。
弥次さん・喜多さんの伊勢詣での道中記でお馴染みの江戸時代後期の滑稽本「東海道中膝栗毛」はじめ、江戸風俗史にある青梅縞は戦後の「ガチャマン景気」後、影を潜め、夜具地も衰退。昭和50年代にはタオルやシーツが主力製品になっていった。いま、このノコギリ屋根の建物の脇にはプラスチックのボタンを製造していることを示す看板が掲げられていた。

ぽつんと「織物の町」風情が残っていたノコギリ屋根の工場(千ヶ瀬町2丁目で)

路地脇の高台にあった日枝神社(左)と大山祇神・玉川大神(千ヶ瀬町5丁目で)

千ヶ瀬町西部域は青梅線東青梅駅に近いことから利便性と景観の良さで多くのマンションが建つ(調布橋から上流を望む)

水と砂州が綾なす絵画
歩いた千ヶ瀬河辺下通りは、千ヶ瀬町4丁目で青梅街道につながった。程なくして南からの秋川街道と交わる千ヶ瀬5丁目交差点を左折して多摩川に架かる調布橋に立った。河岸段丘の発達ぶりを見たのは蛇行があらわになっていたからだ。調布橋上流で「へ」の字に蛇行した流れが左岸の岩を咬み、砂州・中洲を作り、扇状河川特有の光景を見た。澄んだ水の色と、直射日光に光る砂州の対比は、まさしく絵画の世界だった。
多摩川が作り出した武蔵野台地とその崖線下に沿う細い野と道に人々が明日へ託したさまざまな思いが沁み込んでいるように感じた一日だった。コロナ禍で狭くなっていた自分の胸の内に一条の光と風を入れられた。