甲州街道・仙川からの深大寺参詣道を行く

2018年に「第7回多摩めぐり」で、深大寺の北方向からの参詣道を歩きました。甲州街道からも深大寺への参詣に向かう道があります。甲州街道から深大寺を目指すには、仙川からの参詣道と布田宿からの参詣道があったようです。その他、近郊の人々は佐須道を利用したとも言われています。江戸から甲州街道を歩いてきた場合は、仙川からの参道が使われ、甲州街道を西から来た場合は、布田宿から深大寺を目指したと思われます。

以前、調布市の上野原五差路付近に住んでいた頃、仙川から帰路につく時にこの道を通っていましたが、参詣道とは全く知らずに歩いていました。30年ぶりに懐かしくもある道を歩いてみました。

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旧甲州街道の面影

つつじヶ丘駅と仙川駅の間には、甲州街道の旧道が一部残ってます。参詣道の入り口までは、つつじヶ丘駅から、この旧道を歩いていくことにしました。

つつじヶ丘駅北口を出て、仙川方面に行くと、滝坂小学校があります。滝坂とは、雨が降ると滝のように水が流れたことにからつけられた名前です。ちょうど国分寺崖線が通っていることから、高低差があるのです。
その坂の名をつけた滝坂小学校前を通ると「祝開校152周年」のパネルが掲示してありました。歴史のある学校です。

「滝坂下」の交差点に出るので、甲州街道を新宿方面に進みます。間もなく道が二股に分かれ、左側が旧甲州街道で、滝坂と言われた道です。分岐点にある遊歩道は、入間川(いりまがわ)が暗渠になった道です。

左手にある内田印刷店には、この辺りの歴史を説明する図や写真が掲示されており、旧道の様子がよくわかります。
入間川は、この付近では「大川」と呼ばれていたようです。

旧道と新道の間は、木々が茂る土地として残っています。旧道の方から見ると、新道は盛土されて高くなっています。
絵図の通り、右手の土蔵の前に薬師如来があり、昔の様子が偲ばれます。

新道と合流するあたりに、「馬宿 川口屋」の碑があります。川口屋は、江戸時代に難所として知られた滝坂を越える旅人や行商人が、馬と共に休憩・宿泊するための宿でした。この石碑は、川口屋の歴史を残すために地元の人により立てられました。

甲州街道から参道へ

「仙川二丁目」交差点から参詣道に入ります。かつてはここに参詣道の道標があったそうですが、現在は深大寺境内に移設されているそうです。
周囲はすっかりマンションが立ち並び、さすがに30年という時の流れを感じます。そんな中、中原テニスクラブは、そのままでした。都内では、テニスクラブも年々、閉鎖や小規模化が見られますが、変わらず営業しているようです。

右手には、民家の中に不詳ながら道しるべが見られます。

この辺りは高台で西側が低くなっているが、しばらく歩くと下り坂になります。入間川(上流では中仙川)に向かって低くなっています。入間川は、暗渠になり「中仙川遊歩道」として住民に親しまれています。

中仙川遊歩道を横断すると、上り坂となります。登りきると尾根道で歩きやすい道が続きます。

上ノ原五差路

以前はこの付近に住んでいました。参詣道入口からここまで、所要時間は約30分です。
「上ノ原五差路」の交差点は、旧鎌倉道の一つといわれる南北道と参詣道が斜めに交差します。

道の拡幅工事の際に馬の骨が出たことから、死馬捨場があったと考えられています。供養の馬頭観音は、その時に造立されたもので、昭和54年(1979)5月と刻まれています。

五差路にある馬頭観音

「施主 富沢木代治  施工 橋本石材」とありますが、富沢商店の前にあるので、当時の店主によるものかもしれません。ここからしばらく、「神代植物公園通り」を歩きます。

分かれ道の庚申塔

「神代植物公園通り」と「絵堂通り」に分れる二股には寛政4年(1792)と刻まれた庚申塔が立っています。

道しるべでもあり、右側面に「右大さハみち」、左側面に「左深大寺」と刻まれています。「大さハ」は、三鷹市大沢を指すと思われます。
バスは、神代植物公園通りを進み、植物公園経由で深大寺へ行きます。参詣道は、左側の絵堂通りを行きます。

明大島岡球場跡

30年ぶりに歩いて様変わりしている所はいろいろありましたが、一番びっくりしたのは、明治大学野球部の合宿所と練習場が大規模マンションに代わっていたことです。

球場は合宿所も併設しており、昭和36年(1961)に当時、監督だった島岡吉郎氏が私財を投じて、東京・調布市に土地を購入して開設しました。同氏が亡くなった89年に「島岡球場」と名づけられ親しまれてきました。明大硬式野球部が45年間にわたって使用してきた「島岡球場」(東京・調布市)ですが、老朽化にともない東京・府中市に建設が進められてきた「明治大学府中グラウンド」へ移転となり、2006年10月27日にの竣工式が行われました。

新グラウンドの通称は「明治大学 内海・島岡ボールパーク」で、約7万5000㎡の敷地に、センター125m、両翼100mの第一球場、明治高校硬式野球部・明治中学野球部と準硬式野球部が使用する第二球場のほか、室内練習場、合宿所などを併設しています。第一球場の左翼後方には、明大硬式野球部の創設者で東京六大学リーグの結成に尽力した元明大教授の故内海弘蔵氏と、「人間力野球」をかかげ総監督時代を含め37年間明大硬式野球部の指揮をとった故島岡吉郎氏の銅像がグラウンドを見守るように建てられています。

そして跡地であるここ調布には、「島岡球場」を記念して、モニュメントが建てられています。星野仙一、高田繁、広澤克己といった明大野球部が生んだ昭和世代にはおなじみの選手の手形も記念碑となっています。

島岡球場跡地を過ぎ、中央高速の上を「絵堂橋」で横断します。道は細く住宅街に入ります。

絵堂(えどう)のヒイラギ

「絵堂」というのは、一帯の古い小字(こあざ)名に由来します。 道を左手に入ったところに、市指定文化財「絵堂のヒイラギ 一対」があります。

屋敷(現在でもお住まいです)の正門に魔除けとして植えられた左右一対(2本)のヒイラギで、これほどの古木が対で残っているのは珍しく、民俗資料としても貴重とされています。

ヒイラギは、屋敷木として、家を新築した時に植えるものとされてきました。ヒイラギを屋敷に植えるのは、尖った葉先を魔除けとする昔からの風習があるからです。また、節分には、マメガラ(大豆の枯枝)に刺したメザシとヒイラギの葉を、母屋・蔵・納屋など、屋敷内の建物の入口に付けて、害虫駆除のまじないとしました。

ここは「深大寺用水」を築いた深大寺村の名主、富沢松之助とみざわ まつのすけ、1844年 – 1926年)の屋敷跡でもあります。深大寺用水(じんだいじようすい)は、明治時代初期に現在の調布市周辺の田畑を潤すために作られた農業用水路です。江戸時代から続く水不足を解消するために、地元の情熱によってわずか短期間で築かれた歴史を持ちます。明治4年(1871年)に許可が下りると、延べ約13kmの用水路をわずか20日ほどで完成させたと伝えられています。

松之助は、代々深大寺村の名主を務めた富沢家の当主で、明治元年(1868)に名主となり、明治22年(1889)には神代村(じんだいむら)の初代村長に就任しました。連光寺村(現多摩市)の富沢家の分家で、江戸時代中期に深大寺村(現在の調布市深大寺付近)に移り住んだ一族です。

絵堂通りに戻ると、右手にあるのは法生院です。敷地内に地域の集会所を併設しています。さらに進むと左手は深い谷で、東京都立農業高校神代農業高等学校神代農場になっています。

青渭神社のケヤキ

突き当たると三鷹通りで、向側が青渭神社です。青渭神社は、延喜式内社武蔵國多摩郡八座のひとつとされています。江戸時代の深大寺村の総鎮守である青渭神社の境内には、大きなケヤキの古木があります。高さは約34メートル、目通り(目の高さ)の幹の太さは約5.5mで、指定文化財とされています。
文政11年(1828)成立の「新編武蔵風土記稿」、翌年成立の「江戸名所図会」に、このケヤキのことが記されています。幕末の慶応元年(1865)に、深大寺が火災にあい、青渭神社も類焼しましたが、このケヤキは残り、今もなお樹勢はさかんです。

深大寺境内にて

深大寺東参道


青渭神社、深大寺小学校の前を通り、深大寺東参道に到着しました。
参詣道の入り口からは、のんびり歩いても1時間位でした。


参拝して無事の到着を感謝の後、移動されたという道標へ向かいます。道標は、元三大師堂への階段の脇にあります。

この道標は、市指定有形民俗文化財であり、説明板がありました。

この石碑は、深大寺の元三大師堂(がんざんだいしどう)にお参りに来る人たちのための道しるべとして、常花講の人たちが、甲州街道の滝坂(現仙川二丁目四番地)に建てた道標です。

正面には「厄除け ご自作 元三大師 常花講」、右側面には「是ヨリ大師尊参詣道 石原宿迄五丁近」と刻まれており、背面と左側面の銘文からは、この道標が元禄16年(1703)に立てられ、文政3年(1820)に、七八世澄然(ちょうねん)により再建されたことわかります。また、台石には、深大寺村のほか、登戸、三田、麻布、赤羽などの住民の名が刻まれており、元三大師が近郊のみならず広く信仰を集めていたことがうかがえます。

参詣者たちは、甲州街道をこの道標地点で北西に入り、現在の三鷹市境を経て青渭神社前を通り、深大寺に詣でたもので、当時の古道は今でもたどることができます。

道標は、もとは仙川町2丁目の甲州街道沿いにありました。昭和39年(1964)に東京オリンピックに伴う国道20号線(甲州街道)拡幅工事のため取り除かれましたが、往時の深大寺参詣を知るうえで貴重な資料であることから、現在地に移されました。

そして、何と!境内のなんじゃもんじゃの木が満開でした。満開はゴールデンウィークの頃・・と言われているのでちょっと早い感じです。

明大野球部グラウンド跡地に驚かされ、想定外のなんじゃもんじゃの花に喜んだ参詣道でした。