12月7日の「第21回多摩めぐり 蔵元と地産食材を知り、味わう 」は、開催を中止いたします

第7回多摩めぐり~多摩を深める
中世の道・参詣の道 深大寺街道~
沿道に刻まれた人々の思いと歴史をたどる

青面金剛立像を刻んだ庚申塔に目を凝らす人たち(武蔵野大学北東で)

ガイド:味藤圭司さん

 多摩地域を南北に貫く道路は、数少ない中で深大寺街道(大師通り)は、古くから往来があった。戦国時代の中世では小田原北条氏と関東支配を争った関東管領上杉氏が開いた軍の道でもあった。川越城を本拠とする上杉氏は、北条氏に対抗するため、出城を深大寺に築き、往還した。戦乱が終わった江戸時代の近世では元三大師(がんざんだいし)をまつる深大寺詣での参詣の道と顔を変え、現在は都市間の相互連関を強める幹線道路の一役を担う路線となりつつある。沿線には住民が守って来た道しるべや馬頭観音など先人の足跡がある。11月24日、7回目の多摩めぐりに参加した24人は、北の西武柳沢駅から南の深大寺まで約10キロ(一部バス乗車)を歩き、時代を刻んだ沿道の碑などに当時の人々の思いに心を寄せた。

‟不毛の地”の縦断路、いま南北主要道路

 深大寺街道はいま、北部域では住宅街を抜ける“細道”で、南域では一部を除き幅員36mの調布・保谷線といわれる都市計画道路として整備されつつある。稲城、調布、三鷹、武蔵野、西東京市を結ぶ延長約14.2㎞の都道で、川崎街道、甲州街道、東八道路、青梅街道などの東西方向の幹線道路と接続する。
 この日のコースの北域では、元々あった場所に今も碑があり、歴史をしのばせる佇まいだが、下るにしたがって拡幅工事によって元の街道がなかったり、碑などが移動されていたりする。
 徳川家康が江戸に入った天正18年(1590)ごろ、多摩北部地域は、水がなく、草木が生い茂る原野で‟不毛の地”だったという。青梅街道や甲州街道の整備に次いで、徳川4代将軍家綱が玉川上水の開削に踏み切った(承応2年=1653)後、いくつかの分水が流域に引かれたことで寒村は、息を吹き返したといえよう。
 そのころすでに深大寺街道は、軍の道として、つとに知られていた。家綱が将軍を継ぐ200年も前のこと。扇谷上杉氏と後北条氏の武蔵国を攻防する戦いで本城の川越城と出城の深大寺城を結ぶ道として、扇谷上杉氏には戦略上、重要だった。兵士や軍馬が行き交ったことだろう。
 深大寺街道のもう一つの色合いは、参詣の道だったことだ。天平5年(733)に満功(まんくう)上人が開いたと伝わる深大寺に、戦国のおさまりを見せた江戸時代に入って厄除けのご利益を得ようと参拝する近郷の人々が一層増えた。深大寺街道の北方に当たる川越には喜多院(川越大師)があり、深大寺とともに元三大師を祀っており、元三大師参詣の道として長く親しまれた。昨年、白鳳時代(7世紀後半~8世紀初頭)に彫られた釈迦如来倚像の「白鳳仏」が国宝になり、ますますにぎわいを見せている。
 今日も街道わきには道しるべや、庚申塔、馬頭観音が点在しており、明治期に農民らが涙をのんだ事件を伝える顕彰碑も立ち、人々の辛苦、歓喜あふれる模様が読み取れた。

1.富士街道・六角地蔵石幢

富士山詣での大山道の入り口

 集合した西武柳沢駅北口前の道路は、東西に延びる富士街道。スタートから歴史を彷彿させる趣だ。商店が軒を並べていた。この通りは、西方の田無から練馬方面への都道で、江戸時代は、ここから田無へ出て府中から甲州街道を富士山へ、あるいは鎌倉街道を南下して大山へ参詣した歴史ある道だ。
  

富士街道にある六角地蔵石幢を囲む参加者

これを示すのは、ほどなくして立っていた「六角地蔵石徸(せきどう)」だ。寛政7年(1895)に造立された六地蔵で、道しるべだった。
西・大山道、東・練馬道。われらが行く「志んだ以じ(深大寺)道」へは南と記す。中世の深大寺街道は、元は少し西の田無町と保谷町の境を通っていたという。

西武新宿線の踏切を渡った。住宅が連なる中、車1台が通れる細い道は、緩い下り坂だ。

2.青梅街道

江戸築城の石灰運ぶ人馬

 車の往来が激しい大通りは青梅街道だった。420年ほど前、石灰を積んだ荷車を押す人々や馬が駆けまわっていたのだろう。慶長8年(1603)江戸城築城に向けて青梅の成木村で産出した石灰を運ぶために整備した道だったことに感慨が及ぶ。
西武柳沢駅の西隣の田無駅は西東京市の中心市街地に発展したが、青梅街道が整備された当初でも田無には人家が少なかった。田無北方の人々を移り住ませて宿場を設けたといわれる。

3.石神井川・ほうろく地蔵

時代とともに村・郡・府県の境界地

 青梅街道を横切って南へ進む。かすかな下り坂が続く。小平市の小金井カントリーを水源とする石神井川が侵食したものだという。だが、3面コンクリート張りの川底には溜り水もなかった。雨量をそのまま映す河川のようだ。街道に架かる橋は境橋と記してあった。昔の多摩郡と新座郡の境であり、田無村と保谷村の境でもあり、その後の東京府と埼玉県の府県境になったことを今に残す。
 境橋を渡ったら、街道は、緩い登りに転じた。東西にまたがる文化通り(田無・練馬方面)に交差した。その角にお堂があった。「ほうろく地蔵」だ。地蔵菩薩の光背が、豆などを炒る素焼きのほうろくに似ていることから名づけられたという。地蔵は体長1mほどか。顔といい、体全体の線がしなやかで優しげだ。お堂前面に「春季ゲートボール大会優勝」「合格を勝ち取ろう」などのお礼と願いが掲げられており、いまも地元の人たちのよりどころになっているようだ。
 この付近に敗戦までの1年間、軽便鉄道があり、深大寺街道を横切っていた。陸軍の戦闘機エンジンを製造していた中島飛行機武蔵製作所と中島航空金属田無製造所を結んでいた鉄道だ。米軍が本土に最初の本格的な空襲をした目標の一つだったろうか。レールも壊滅したはずだ。

4.馬頭観音文字塔

坂が物語る人馬の労苦

 長い、ささやかな坂を登り切った街道脇で、真新しい宅地の隅にあったのは馬頭観音文字塔。観音の頭部に馬頭を冠している。文政元年(1818)の造立。住む家が少なく、水もなく、緩いとはいえ、長く続く坂の上に馬頭観音を置いた意味に、先人の人馬とともに生きる知恵を見たような思いがした。江戸期に描かれた深大寺街道の絵図には沿道に「死馬捨場」と記したところがある。

 

5.武蔵野大学・道しるべ庚申塔

学び舎見守る青面金剛立像

 多摩地域で都立高校唯一の建築・建設系工業高校の田無工業高校と並んで、ひときわ目新しい建物が武蔵野大学だ。校舎北側に黒ずんだ「道しるべ庚申塔」が、ここにもあった。安永7年(1778)の造立。損傷が激しいが、「南 □大寺道」「西 府中」「東 江戸道」と読める。一般的に庚申塔に刻まれるのは青面金剛の立像だが、ここでは座像だ。
 昭和4年(1929)に築地本願寺から移転した武蔵野女子学院は、武蔵野大学に法人名を変えて7年。正門奥に大王松がそびえ、左手のユーカリの木の間にイチョウ並木が続く。薬用植物園や水生植物園、能楽資料センター、武蔵野文学館など、多摩地域に関する研究がしやすい資料や施設を備えている。

6.五日市街道文字庚申塔

五差路で武蔵国の八方指す

 武蔵野大学正門前は、北から深大寺街道が差し掛かり、五日市街道、鈴木街道と交差する五差路になっている。ここに高さ2m近い「文字庚申塔」がある。天明4年(1784)に建てられたもので、府中・砂川・八王子、田無・清戸・川越・所沢、江戸道、小川・村山と八方の要所だったことが分かる。
 

青面金剛像を刻んだ庚申塔が一般的だが、この庚申塔には青面金剛を表す梵字ウンと方角の地名だけが刻んである。塔の下部に三猿を彫り、邪気を払っている。
 

深大寺街道沿い最大だった五日市街道文字庚申塔

 

7.千川上水・石橋供養塔・文字庚申塔

将軍家に引いた用水、農工業潤す

 武蔵野大学前には、もう一つの見どころがある。広い道路に目が移り、見落としそうなほど細い千川上水だ。江戸時代を象徴する‟命水の用水”だ。元禄9年(1696)玉川上水から分水して徳川5代将軍綱吉の別荘小石川御殿や湯島聖堂、寛永寺、六義園など将軍家ゆかりの地に通水するため、政商・河村瑞賢が陣頭指揮して開削した上水路だ。
 江戸中期には流域の農民が嘆願して農業用水に利用できるようになった。明治以降は水車を使って製粉や精穀したほか、王子製紙や大蔵省紙幣寮なども利用した。水道事業が整備された昭和46年(1971)、千川上水の給水が終わった。
 今流れている水は下水の高度処理水で、平成元年(1989)の清流復活事業だ。
 

この地の五日市街道は、千川上水を渡っていた。その橋を「井口橋」といい、天保12年(1841)に木造橋から石橋にかけ替えられた記念に石橋を供養する塔を設置した。いまも橋の竣工に渡り初め式をするように、悪霊の侵入を防ぐ祈りを捧げたものだろう。その前年に文字庚申塔を立てた。

清流が復活した千川上水

8.御門訴事件碑

重税に村人の訴え届かず獄死

 一行は、武蔵野大学を直進して五日市街道に入る。歩いて2~3分の地点にあったのが「倚鍤(いそう)碑」だ。明治新政府は、それまでの社倉制度を改めて、農家1軒当たりの拠出を重くするなど重税を課したことに武蔵野新田12カ村の農民が品川県庁に訴え出た事件を後世に伝えることと、犠牲になった人々を弔う碑だ。
 ことが起きたのは明治2年(1869)11月。品川県の400カ村余りに社倉積穀の命が下った。飢饉に備え、農民から新たに穀物を取り立てるという。当時、武蔵野新田一帯は、凶作が続き、ヒエやアワで食いつないでいた貧農にも出穀を迫る酷な制度に13カ村の名主や農民惣代が中心になって品川県に取り下げを訴え出た。県知事・古賀一平は認めず、その後、12カ村の代表は、12月20日、小金井市の関野新田にある真蔵院に集まり、免除を願う訴状をまとめた。28日、12カ村の代表であり、関前村名主の井口忠左衛門保谷新田名主の平井伊左衛門が県の呼び出しに応じたまま、正月も帰らなかった。さらに各村代表者が出頭を命じられ、宿預かりとなった。
代表を欠いた各村の農民たちは、ついに決起。「明十日、明け六ツ時(午前6時)、田無村八反部に四、五日分の食糧を持って集まれ」。今伝わる御門訴事件に発展した。
総勢400人とも500人ともいわれる農民は、青梅街道を東へ。当時、県庁があった日本橋浜町へ向かった。県庁の門内に大砲が据えられ、門外には兵が待ち構えていた。農民は、申し合わせ通り門内へ入らず、門外で訴え続けた。門が開かれたと同時に、多数の兵が切りつけてきた。51人が捕らえられた。首謀者と見られた15人のうち2人が獄死、井口忠左衛門は獄中の病気がもとで出所後、亡くなった。ほかに死傷者が多数出た。

 碑は、門訴から24年後の明治27年(1894)4月に村民68人が建てた。明治5年の廃藩置県で武蔵野新田12カ村は、神奈川県に編入され、新社倉制度は立ち消えになったようだ。12カ村が納めた社倉金は、明治11年に返還され、それを元手に倚鍤碑を建てたという。

悲劇を伝える御門訴事件碑

9.境浄水場

街道阻んだ水道の中枢施設

 深大寺街道がいったん途切れた地点は東京都水道局境浄水場だった。大正13年(1924)以来、94年間稼働している。55×77mのプールが20面ある。多摩川の原水を引き込んだ村山貯水池(多摩湖)と山口貯水池(狭山湖)から送られた水を砂や砂利を通して浄水(緩速ろ過)した後、井ノ頭通りに埋設した送水管で世田谷区の和田堀給水所などに送って、さらに各給水所から一般家庭などへ給水している。

 旧来の緩速ろ過方式の浄水場としては国内最大規模の浄水場だが、柵越しに見たら大規模な工事をしていた。現在のろ過方式を一部改善して急速ろ過に切り替えるのだそうだ。

境浄水場前で工事の説明を聞く

 老朽化などが進む東村山、金町、小作の水道施設は、2023年前後に更新時期を迎えるための準備に入っている。工事中の境浄水場は、東村山浄水場が本格工事に入ると、日量40万㎥低下する分を肩代わりする以上の機能を上げるための工事だという。現在、東村山浄水場から1本の送水管で境浄水場へ送水しているが、この送水管を取り換えるために新たに双方向(2本)の送水管を敷設する。東村山浄水場から区部と多摩地域へ送っている分を境浄水場が区部を請け負い、新たに境浄水場から上水南浄水場へ送水して多摩各地へ送るという分散計画でもある。小平市内などで見られる水道管敷設工事は、これら一連のものだ。境浄水場の工事が完成すれば、現在の日量31.5万㎥から70万㎥に給水能力が上がる。
 

10.大橋

玉川上水またいだ2本の橋

 境浄水場の南側で再び深大寺街道に出た。承応2年(1654)に玉川上水が完成したことで、もともとあった深大寺街道に「大橋」を架けてつないだ。当時の玉川上水には数少ない橋で、武蔵野市で最初に架けられた「新橋」「保谷橋」と並ぶ古い橋だ。境浄水場が出来るまで、深大寺街道は元三大師詣での「大師通り」といわれたことはもちろんのこと、西北は田無を経て所沢、青梅に通じ、南は甲州街道の布田五宿(調布)へ、また横浜開港(安政6年=1859)後は、横浜街道といわれた、近郷最大の道に架かる橋だった。昨年架け替えられた橋の親柱に昭和7年当時のものを修復して生かしている。
 大橋の上流約40mにコンクリート製の橋げたが残っている。境浄水場の建設工事で武蔵境駅から引き込んだ鉄道の橋げただ。振り返ると、直線状の先に浄水場入口があった。

宇宙から帰った桜の異変

 玉川上水沿線は、どこも桜の名所だが、ここも開花期にはにぎわう。これにちなんで多摩めぐりの会事務局長・関根充さんは、飛び入りで「ひとことガイド」をした。関根さんは樹木医であり、日ごろから草木に関心が高いことから、サクラにまつわる話題を提供した。
 山梨県北杜市の武川小学校の児童から100粒の神代桜の種を託された宇宙飛行士の若田光一さんが無重力の宇宙で保管していた種を平成21年(2009)7月に持ち帰った。その種が北杜市の実相寺で発芽した。普通は、開花まで約10年かかるが、4年で花が咲いた上に、その花びらの20%が6枚で一般的なものより1枚多かった。「宇宙へ行ったことで遺伝子に影響したのだろうか」と疑問を投げかけ、生物学者らの研究成果を待っているという。宇宙の謎が、また一つ増えた。

11.品川用水跡・本村公園・仙川

自然環境豊かな鉄路跡

  大橋を渡ると、そこは東側が三鷹市上連雀、西側が武蔵野市境の境界線の住宅街で、本村(ほんむら)公園入口は近かった。入り口前を東西に延びる道路は、元は品川用水(寛文9年=1669年開削)だったという。玉川上水から取り入れた分水が33あり、その中で最長規模の農業用水だったという。品川あたりでさらに分岐して主に目黒川に注ぎこんでいた。流域が市街化した明治末期には排水路化して、昭和20年代には埋め立てられた。武蔵境では、その跡地が市道になっている。
 本村公園には武蔵野を代表するケヤキやクヌギ、コナラなどが緩やかにカーブを描いた園内を覆っていた。土は足にもやさしい。両脇に迫る住宅が気にならない。ここは境浄水場建設当時の引き込み線跡で、園路脇の所々に工務省(国土交通省の前身)を示す「工」マークを刻んだコンクリート製の杭が残っている。
出口のゲートでもあるかのように小橋が架かる仙川があった。武蔵野市唯一の自然河川だが、川底は干上がっていた。降雨次第で流れができる、ホントーの自然河川かと一人苦笑いした。流路が見られるのは三鷹市新川付近から下流の調布市、世田谷区だそうだが、遠い昔、深大寺街道を行き交う人々は、仙川からあふれんばかりの水量があったときは、どうしたのだろう。
 武蔵境駅に近づきつつあった。西武信用金庫武蔵境支店前に着いたとき、突然、ガイドの味藤圭司さんが大きな声を発した。「皆さん、後ろ(東側)を振り返ってください」。中央線高架の南側の先にスカイツリーがすっくと天を突いていた。「わー、こんなところで見えるんだ」「何年も中央線で通っているが、うそでしょう」「サプライズだ」と思わぬ光景に喚声がひとしきり止まなかった。

12.供養塔・大鷲神社

36m幹線道路に譲った供養塔

 中央線が高架になった平成21年(2009)前後から急激に様変わりした武蔵境駅前で昼食を取って、再び深大寺街道に戻った。その昔、旧境村の辻だったが、多摩地域の相互連関を強める計画道路の調布・保谷線にとって代わり、幅員36m、4車線の新武蔵境通りに生まれ変わっていた。

36m道路に拡幅された元の深大寺街道を歩く

 街道をまたぐ中央線の高架に近い道路隅に置き替えられた供養塔は、出番を奪われた格好だ。摩耗が激しく、刻まれた像や文字が判読できなかった。その分、歴史を彷彿とさせていた。
 ひっきりなしに走る車の列を流し、ひたすら深大寺街道だったはずの新武蔵境通りを南へと急いだ。車道と生活空間の距離を取るために設けられた、いわば歩道と自転車レーンを区別している点がこれまでの道路づくりと違うことに気づいた。歩行者にも自転車利用にも安心だ。
 2つの塚があったと言われる塚の交差点で新武蔵境通りを右折して連雀通りに数十メートル西に入った。近隣では最も古くから酉の市を行っている大鷲(おおとり)神社を訪ねた。日本武尊を祀っている。元は、同じ井口村の別の場所にあったのを明治9年(1876)にこの地に移したという。武者小路実篤が揮毫した社名碑が立っていた。

13.野崎八幡社・三鷹市のキウイフルーツ

鎮守の社で300年違いの味堪能

 新装の新武蔵境通りをバスに乗るのも手だということで塚―野崎間をバスに乗った。野崎八幡社は、元禄2年(1689)深大寺の寺中寺だった池上院の土地に勧請されて、江戸時代から三鷹市野崎の鎮守になっている。境内入り口には享保12年(1727)に造立された庚申塔と、延享元年(1744)造立の石造聖観音菩薩立像があった。
 この境内で参加者に近所の野崎果樹園で栽培されたキウイフルーツ「東京ゴールド」をプレゼントした。JA東京むさし(武蔵野市、三鷹市、国分寺市、小平市、小金井市)の収穫量は、70tのブルーベリーと並んでキウイフルーツは73tと都内最大。三鷹市では40軒ほどの農家が栽培している。
 

 東京ゴールドは、小平市で発見された新種で平成25年7月25日、農水省に品種登録された。東京特産品だ。果肉は黄色で、果心部が黄白色。肉質が柔らかく、甘みが強い。酸味が程よいと評判。果実を縦に切るとハート形というのも話題になっている。
早速、口にした人は「あま~い」とにっこり。これに元気をもらって、東八道路を横断して深大寺方向へと再び足を向けた。

熟して食べごろだった東京ゴールド

14.庚申塔

三猿戯れる笑顔の金剛像

 調布市深大寺北町の住宅街の十字路脇にあった庚申塔に彫られた青面金剛像は、若々しく笑顔をこぼしているようでユニークな塔だった。塔頂の梵字は「ボロン」といわれる大日如来が最高の境地に入って説いた真言を表している。

 深大寺北町の辻に立つユーモラスな庚申塔に 注目する人たち

寛延元年(1748)造立と古いが、像の細部が明確で親しみやすい。足下の三猿が戯れているように感じるほど鮮明だ。

15.調布市総合体育館・神代植物公園隣地の森

東京緑地計画に基づく深い森

 周囲は、木々が深くなってきた。神代植物公園が象徴するように山手線を中心にした50㎞圏に構想されている東京緑地計画の一部だろう。この構想をベースに建設された調布市総合体育館は、半地下の建物で、建物の壁面がほとんど見えず、法面を土と植物で覆って周囲の緑深い景観に合わせている。

深大寺の森に包まれて、いざ白鳳仏へ

行く手に見える深い森は深大寺の木々と植物公園の隣地だ。一帯が造成と整地されたことで深大寺街道の面影はない。高木、大木が並び、山道の風情が強い道は深大寺の乾門に続いていた。

16.深大寺元三大師・白鳳仏

国宝になった青年像の釈迦如来

 都内では浅草・浅草寺に次ぐ古刹の深大寺の開創は、奈良時代の天平5年(733)満功(まんくう)上人による。中国の僧・玄奘三蔵を守護したとされる深沙大王(じんじゃだいおう)を祀り、平安時代に天台宗に改宗して元三大師(がんざんだいし)を安置している。源氏が信仰し、密教寺院として隆盛を高めた。その後、徳川幕府から朱印地を与えられ、多摩川流域40カ寺ほどの末寺を擁した。中でも厄除けの元三大師を拝む人々が絶えず、江戸・両国に出開帳したほどだ。近年では平成21年に開帳された。次回は25年後の2034年だ。
 昨年、国宝に指定された銅像釈迦如来倚像は、白鳳仏ともいわれ、奈良・新薬師寺の香薬師像や法隆寺の夢違観音像に酷似し、飛鳥時代後期の白鳳期(7世紀半ばから8世紀初頭)の傑作といわれる。いずれも深大寺が開創される以前の文化の中心だった畿内の同一工房で制作されたという。

白鳳仏を一目見ようと詰め掛ける人たち

 釈迦堂に安置されている釈迦如来像は、青年のような微笑みに慈しみがにじみ、全体に流麗さが際立つ。台座に腰かける姿は凛として気品が漂う。右手指2本が欠損しているのが痛々しい。両脇を守るように置かれた香薬師像(新薬師寺)と薬師如来仏頭(千葉・龍角寺)、聖観音像(兵庫・鶴林寺)の分身が空気感を強めていた。

 開創期の深大寺は法相宗で、釈迦如来像は本尊だったが、一千余年後の天保12年(1841)ごろ、本堂の脇仏として安置されていたという。その後の諸堂焼失の復興の際に元三大師堂の須弥壇に仮安置されたままになっていた。存在が分かったのは明治42年(1909)。戦後まもなく重要文化財に指定されて注目を浴びた。昨年の国宝指定で都内唯一の国宝仏となり、関東の国宝仏としては3体目。

17.深大寺城跡

敗残した‟無血の城”

 深大寺山門から南東へ歩いて数分、東、南、北側三方を沼地に囲まれ、さらに下った野川を配した高台に深大寺城跡があった。地形そのものが攻防の効果が望めそうな城郭だ。加えて西方にある空堀も城の堅守ぶりを見せる。
 深大寺城は北に扇谷上杉氏が拠点を川越城に構え、東に江戸城、南に後北条氏の小田原城と関東勢力が入り乱れる中心域だった。
その背景は――。鎌倉公方に仕えた扇谷上杉は、相模国から武蔵国の領国拡大を図り、さらに扇谷上杉は、宗家の山内上杉と対立しているさなか、伊勢宗瑞(北条早雲)が武蔵へ進出。さらに大永4年(1524)、北条氏綱は江戸城を攻め、扇谷上杉朝興を江戸城から川越城へ退けて江戸城に入った。朝興は、江戸奪還のため、川越から幾度も深大寺方面に軍を送り込んだが、多摩川の対岸にあった小沢城(稲城市)に陣を張る後北条3代目氏康に敗れた。
 深大寺街道を軍の道として一層色合いを濃くしたのは、朝興亡き後を継いだ上杉朝定が川越城の出城として天文6年(1537)深大寺城を築いてからだ。
 朝定は、多摩川南岸を制圧した北条方の小沢城の動きを警戒しつつ、江戸の氏綱を視野に置いた。いわば後北条氏の小田原城と江戸城ラインを分断する拠点とした。

だが、氏綱は、一枚上だった。蜂起した氏綱は、朝定に深大寺城を攻めると思わせながらも素通りして本拠、川越城を直接攻め込んだ。朝定は川越から松山城(埼玉県東松山市)へ敗走した。
 深大寺城は、いわば“無血の城”でありながらも敗残の城となったのだった。

深大寺城跡で集合写真

ガイド:味藤さん

「深大寺(街)道」または「大師道」は、その由来が興味深く、また今に至る各時代において沿道で起こった多くの出来事に魅かれてコースを企画しました。
さすがに中世・戦国時代のものは深大寺城跡ぐらいしか残っていませんが、江戸時代に立てられた石造物は沿道に多く残っていて、普段ならば見過ごしてしまいそうな庚申塔などについて、そこに刻んである文字や梵字を一つ一つ読み解きながら歩くのは楽しいのではないだろうかと思い、路傍の石造物をすべて見て歩くプランにしました。
新たな発見はありましたでしょうか。これから多摩の各地で見かける何気ない石造物にも関心を持っていただいて、それをじっくりと観察して、愉しんでもらえればと思います。
昔の人々の思いに一歩近づくことができるように思います。

【集合:西武新宿線西武柳沢駅 午前9時30分/解散:深大寺バス停 午後4時】