畠山重忠~鎌倉幕府での活躍と苦悩~

重忠、ついに死す

ドラマ『鎌倉殿の13人』でわれらが中川大志くんの畠山重忠が死んでしまいました。悲しいです。

重忠の鎌倉幕府での活躍
本日は重忠の鎌倉幕府での活躍や苦悩などを探っていきましょう。

重忠の活躍

治承4年(1180)、源頼朝(みなもとのよりとも)に従って鎌倉入りした重忠は、その後幕府の公式行事への列席や頼朝の寺社参詣への随行などのほか、建久4年(1193)には武蔵武士の丹党(たんとう)と児玉党(こだまとう)のいさかいの調停をしたり、頼朝に嫡男頼家(よりいえ)が誕生したときには護刀(まもりがたな)を献上するなど、幕府御家人としての実績を積み重ねていきました。
源平の合戦にあたっての活躍は、前述のとおりですが、平氏滅亡後も、鎌倉の勝長寿院(しょうちょうじゅいん)落成供養の儀式にあたり、重忠は頼朝随兵の先頭をつとめており、頼朝が重忠に大きな信頼を寄せていたことがうかがわれます。

畠山重忠邸

重忠は国元の菅谷館(すがややかた)のほか、鎌倉にも邸宅を設け、幕府の公務をおこなう際などにはここを拠点としていました。
邸宅のあった場所については諸説ありますが、現在「畠山重忠邸址」の石碑が建てられている場所は「新編相模風土記稿(しんぺんさがみふどきこう)」の説をとっています。

畠山重忠邸址の石碑(鎌倉市)

音曲の才・銅拍子

数々の活躍の中には、重忠の音楽の才能を垣間見るものもあります。
当時、京でも有名な白拍子(しらびょうし)であった静御前(しずかごぜん)は、頼朝の弟義経(よしつね)の恋人となっていましたが、義経が頼朝と不仲になり、頼朝から追われるようになると、静御前も捕らえられて鎌倉に連れてこられます。静御前は頼朝から命じられて、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で舞を披露しましたが、舞の伴奏は、幕府の御家人のなかでも楽器を演奏することができる者がつとめました。重忠は、伴奏者のひとりとして、銅拍子(どうびょうし)という楽器を演奏しました。銅拍子は、本来仏教の儀式につかう楽器で、小さなシンバルのような形をしており、両手にもって打ち鳴らします。なお、鼓(つづみ)は京での生活が長かった工藤祐経(くどうすけつね)が打ったといわれています。ちなみに、この工藤祐経はのちに曽我兄弟の仇討ちと知られる事件で、敵として討たれてしまった人物です。

銅拍子の復元品(埼玉県立嵐山史跡の博物館)

音曲の才・今様

また、当時は今様(いまよう)という歌謡曲が流行していましたが、重忠はこれもまた見事に歌うことができたようです。元暦元年(1184)11月6日、鶴岡八幡宮で神楽(かぐら)が催されたとき、頼朝は八幡宮の別当主催の宴会に招かれました。宴席には、今様を得意とする稚児が京から呼び寄せられていました。そしてこの席で、重忠も今様を披露しているのです。重忠は今様に相当の自信をもっていたのでしょう。

どこで技を身につけたか

こうした風流な技を、重忠はどこで身につけたのでしょうか?重忠たち御家人には、京都御所の警備をする京都大番役(きょうとおおばんやく)という役目が、当番制で義務付けられていました。当番のときは、約半年から3ヶ月ほど京に滞在することになり、京の一流の文化に触れることが可能であったと思われます。おそらく、重忠はそうした機会を活用して、修行を積んだのでしょう。頼朝は、武芸だけでなく、そうした才能をもった人物を重く用いました。こうした才能も、重忠が頼朝に大切にされた理由のひとつだったと思われるのです。

源氏の守護神として崇拝された鶴岡八幡宮(鎌倉市)

つぎは、重忠の苦悩です。だんだん嫌な雰囲気になってきました。

沼田御厨をめぐる騒動

文治3年(1187)9月27日、重忠は囚人として千葉胤正(ちばたねまさ)に預かりの身となりました。これは、重忠が地頭をつめていた伊勢国(三重県)の沼田御厨(ぬかたみくりや)という領地のことで裁判が起こり、その責任を問われたためでした。鎌倉時代には、伊勢神宮の神領である御厨(みくりや)という土地があり、その中のひとつである沼田御厨は、重忠が管理を任されていました。しかし実際には、代官(代わりの人物)をして管理させていました。すると、その代官が強引にある人物の財産を没収した疑いが発覚したのです。責任者として幕府に呼び出された重忠は「代官がしたことで、自分は知らなかった。申し訳ない」と謝りましたが、囚人扱いとなりました。

頼朝はすぐ許したが‥

重忠は預けられた千葉胤正の屋敷で、食事も食べず、眠らず、口もきかず謹慎し、反省の意思を示すとともに、絶食して死ぬつもりのようでした。この様子を聞いた頼朝はその態度に感心し、すぐに許したいわれています。

梶原景時の讒言

このあと、梶原景時(かじわらかげとき)が頼朝に「囚人扱いされたことを恨んだ重忠が謀反を企てている」と讒言(ざんげん)したため文治3年11月15日に頼朝は、小山朝光(こやまあさみつ)・和田義盛(わだよしもり)らを招集して重忠の処置を問いました。合議の結果、下河辺行平(しもこうべゆきひら)を使者として謀反の企てが事実であるか確認させることになります。

梶原景時「本朝百将伝」

うそをつかない重忠

行平は17日に菅谷館に赴き、鎌倉の様子を伝えると、重忠は大いに憤慨しました。「多年の御恩があるのになぜ反逆しなければならないのか。讒言するものの口車に乗せられてだまし討ちにあうよりも、身の潔白を示すために自害する」というのです。しかし、行平の説得により、同月21日、重忠は釈明のため行平とともに鎌倉へ向かい景時に申し開きをしました。この時、景時は、謀反の意思がないのであれば、それを誓うために起請文を提出するよう求めました。これに対して重忠は「自分は考えていることと発言内容とを違える者ではない。偽りをいわないことは頼朝公がよくご存じである。このことを頼朝公に披露していただきたい」と述べ、起請文を出すことを拒みました。

頼朝の信頼

景時が頼朝に取り次ぐと、頼朝は何もいわず、重忠と行平を呼び出しましたが、謀反のことについて問いただすことはありませんでした。このように重忠は窮地に追い込まれましたが、正々堂々と無実を訴え、事なきを得たのでした。

重忠が奉納したといわれる国宝・赤糸威大鎧(青梅市・武蔵御嶽神社)

御家人同士の権力争い

この一件は、単なる景時の重忠にたいする誹謗中傷としてとらえることが出来ます。しかし鎌倉時代の創設前後の時期には、このような家臣内における権力争いが活発でした。
源義経に娘を嫁がせていた河越重頼(かわごえしげより)は、文治元年(1185)、義経に連座するかたちで所領を没収のうえ誅殺(ちゅうさつ)されましたし、北条時政と対立した比企氏は、建仁3年(1203)、一族が討伐されるなど多くの武将がこの時期に殺されています。

比企一族の墓(妙本寺・鎌倉市)

けっしてウソをつかなかった武将の鑑・畠山重忠公の人となりが分かってきた気がしますね。彼が政治の13人に入らなかった理由や、恋ヶ窪の悲恋が彼でなければならなかった理由もみなさん、もうお気づきでしょう。明治維新後に彼が評価されるのはこういった理由からなのです。
さて大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では亡くなってしまった畠山重忠公ですが、このブログでは次回が二俣川の戦いになります。楽しみにお待ちください。