縄文人の痕跡の地で粟を産み、農村舞台を繋ぐ巨樹の里~古里駅前の顔

歩くには平坦地の街並みもいいが、それとは一味違う緩い坂がある“山村の風情”にも癒しがあり気持ちが穏やかになる。ましてや多摩地域西端の奥多摩町であれば、なおさらだ。青梅駅以西のJR青梅線の愛称「東京アドベンチャーライン」は、多摩川に沿ったV字谷の斜面の中腹を縫って走り、山々が覆い被さる中で、古里駅周辺は、天上がぽっかりと空いて広い。
8月7日、多摩めぐりの会が開いた講演会で奥多摩町観光産業課と同観光協会の計らいで参加者に資料の一つとして提供した「奥多摩 山里歩き絵図」(全22集)を早速持ち出して、その中の「No.5小丹波」を手に取って古里駅に降り立った。

古里駅北側を歩いたコース(「奥多摩 山里歩き絵図 No.5小丹波」の一部。加工あり)

“一卵入魂”に人気沸騰
ちっちゃい駅舎の左手へ進むと、一軒の店の前で20人ほどの男女が並んでいた。令和3年(2021)6月にオープンしただしまき玉子専門店「卵道(ランウエイ)」の人気の「だしまき定食」を食べたい人たちだろうか。『一卵入魂』で料理しているとか。口に含む卵は『ぷるっ、ふわっ、じゅわっ』とした、こだわりの一品だそうだ。持ち帰りができる「自家製プリン」に食指が動いたが、食レポが苦手な私。買うまでに時間もかかりそうだ。今度来た時にしよう。

六地蔵が出迎えてくれたような趣がある坂道

穏やかに六地蔵が待つ坂道
青梅線の小丹波第二踏切を越えて線路沿いに西へ進み、T字路を北側へ向かった。緩い坂道が山裾まで続いている。沿道にコスモスやフヨウが咲く。人影がない。静けさが集落の穏やかさを誘う。民家がいったん途切れた地点の両側に3体ずつのお地蔵さんがいた。古い時代に人は、六道に転生しようとする亡者を救済するために地蔵菩薩を奉ったのだと言い伝えられる。お地蔵さんに気持ちを寄せて歩いた。
奥多摩町内最大人口の集落
ここ古里駅周辺には古くから人々が暮らして来た。いまも住みよい地域なのだ。駅周辺の小丹波(こたば)地域の人口は、奥多摩町内(令和4年9月1日現在、人口4797人、2587世帯)最大で、全体の17%(828人、365世帯)が住んでいる。だが密集感はない。多摩めぐりの会が主催した講演会で聞いた話では奥多摩の峰々を繋いだ登山道を拓いたのは縄文人で、この人らは時代とともに平坦地の山裾に下りたという。この一帯もそうか。
畑の道でヒスイの垂玉拾う
古里駅付近の畑道で昭和41年(1966)、当時少年だった吉村一夫君が新潟県糸魚川市姫川から産出したヒスイ(硬玉製垂玉)を発見した。長さ3.4㎝、径1.7㎝のヒスイは、縄文人が運んできたものとして奥多摩湖畔の「水と緑のふるさと館」に常設展示されている。ヒスイは緑のグラデーションが広がる中に白い部分が混じりあっている。奥深い色合いだ。「一つの垂玉を二つにしようとした摺り切り工法の痕跡」があると奥多摩町教育委員会発行の「奥多摩町の文化財」にある。
また、この付近からヒスイとは別に縄文後期の、磨かれた石剣や石棒も出土している。1万年以上も前に縄文人が住んでいたこの地を改めて踏み直した。

整然と佇む西光山丹叟院

西多摩最古の阿弥陀堂
坂道のてっぺんに西光山丹叟院の石段が見える。「奥多摩 山歩き絵図 小丹波」によると、この地区にあった無量山西光寺と万松山丹叟院が昭和23年(1948)に合寺して西光山丹叟院になった。万松山丹叟院は慶安2年(1649)舜作泰養和尚が海禅寺7世の天江東岳和尚を勧請開山して創建したとある。
本堂の扉が閉まり、中の様子はわからない。本尊は聖観世音菩薩で、脇侍に提元菩薩、達磨大師の小像が控えているという。境内から小丹波集落が見晴らせた。

500年ほど前に建てられた阿弥陀堂。こじんまりした中に趣があった

本堂東側の道路向かいにある阿弥陀堂は、観音堂ともいわれ、元は西光寺にあったのを移築した。室町時代の大栄年間(1521-28)の建立と伝わる。四面は4.7mの宝形(ほうぎょう)造りで、西多摩地域最古の遺構だ。
三間に区切られた内陣は、正面に本尊の阿弥陀如来(像高51㎝の木造立像。総高112㎝)、脇侍に至勢菩薩と観音菩薩(ともに像高29cm、総高57㎝)を従えている。その左右には三十四観音が17体ずつ安置されている。秩父34観音の第14番今宮観音堂(秩父市中町)から還されたといわれる。さらに堂内には二邪鬼を圧さえた焔魔像が立つ。広くない前庭には20基ほどの石仏や石碑が立ち、歴史感があふれる。

丹叟院の石垣から垂れるヌスビトハギ

山並み借景にした農村舞台
西へ道なりに進むと、入母屋造りの茅葺き楼門風の建物がで~んと現れた。小丹波熊野神社の神楽殿だ。間口12.7m、奥行き5.4m。この舞台の床下を参道とする特殊な造りの農村舞台だ。昭和50年(1975)東京都有形民俗文化財に指定された。

城山(中央奥)など奥多摩の山々を借景にして立つ小丹波熊野神社の神楽殿。手前の段差がある石囲いが座席になる

神楽殿に相対してある神社社殿の境内は階段状になって、例年4月29日の例祭に奉納されるお囃子や獅子舞を見る観覧席でもある。お囃子の音色を想像した。枝打ちがきれいですっくと立つ杉の木が凛として神域感が強い。ここに響く音色……。神楽殿の後背に横たわる山並み。西方には裾を広げる城山(じょうやま=759m)。それぞれが一体となり、舞台効果が高い。

城山には平将門の伝説があり、山中に城を構えたとか。また、西多摩の豪族である三田氏の領地だったことから、この山を狼煙場にしたなどと伝わる。

農村舞台の神楽殿で奉納される獅子舞(奥多摩町役場ホームページから)

林立する杉の奥に小丹波熊野神社本殿が鎮座する

そんな伝説とともに大杉に囲まれた神域に座り込んでお囃子を聞き、陶酔するかのように狂う獅子舞を見るなんて、心が澄む空間だろう。落ち着かない今生を一時、忘れさせてくれそうだ。

お囃子は、地元の人々が傷心を乗り越えて繋いできたものだ。江戸時代後期初めの安永7年(1778)正月、神社は焼失したが、翌年の社殿再建を祈願して獅子舞を奉納。120年近く続いた「ささら獅子舞」だったが、再び困難に見舞われた。明治時代中頃に祭りについて争いごとが発生した後、獅子舞を奉納することは叶わなかった。

しかし、青年たちは、それまでの獅子舞に代わるものを求めて青梅黒澤の若林仙十郎を師匠に「神田流」を習い、明治31年(1898)8月、お囃子「こ組」を創始した。いま境内にある「こ組」稽古場は、そんな歴史を経ていた。

例年4月28日に境内で行われる「熊野神社祭典の集い」の宵宮に青梅・黒澤囃子保存会と「こ組」がお囃子の合戦をし、翌祭典当日、小丹波地区を屋台で巡行する。集いの締めに神楽殿でお囃子が奉納される。

熊野神社本殿には伊邪那美命、速玉之男命、事解男命(ことさかのおのみこと)の三柱を祀っている。

小丹波熊野神社に日枝神社や山祇神社などとともに祀られている自然石の塩竃神社(右)。安産の神としている

粒が大きく粘りある粟
境内にあった標示板に目を見張った。稗(ひえ)、黍(きび)とともに古くから寒冷地の穀物に挙げられる粟(あわ)。JA東京が江戸東京野菜57種に上げている一品の「粟の古里1号」は、元はこの地で栽培されていたものだった。
粟は作りやすいうえに、栽培期間が短く、秋が早い山村の畑でも収穫量が望めることから古い時代から主要な食糧だった。粟には糯(もち)種と粳(うるち)種があり、糯種は粟餅にして、粳種は米や大麦と混ぜてご飯に炊きこんで食べた。
多摩川流域で持ち回り栽培
粟は戦後の一時期、都内各地で20種以上が作られていた。東京都農業試験場では、これらを集めて品種や収穫量を調べたところ、当時の古里村、現在の奥多摩町小丹波で作っていた品種は大粒で、粘りがあり、最も優れていることが分かった。これを「粟の古里1号」と名付けて普及したという。現在、東京都では粟の栽培農家は絶えたが、「粟の古里1号」はJA東京が主導して多摩川流域の14地域で持ち回り栽培されている。
毎年11月23日に行われる宮中新嘗祭の献穀用として昭和34年(1959)から「粟の古里1号」は、日野市の東光寺大根、府中市の米、青梅市のシイタケ、武蔵野市のウドなどとともに東京の特産品「庭積机代物(にわづみのつくえしろもの)」として献上されている。
「粟の古里1号」は、地元では旧聞だろうが、私にはホットニュースだった。このワクワク感を抱いて熊野神社からさらに山際の道を西へと進んだ。

力がみなぎり、がけ下の祠を守るように立つ「十日の森の稲荷神社」のイヌグス

キツネの新居守るイヌグス
イヌグスの大木があるという。坂道を登り切った所で、その雄姿を見た。根元にある祠が名の元となる「十日の森の稲荷神社」で枝ぶりを誇っていた。「稲荷」を音読した「とうか」を充てて「十日」としたか。
イヌグスの目通りの幹回りは、人が両手を広げて3周りぐらいの3尋(ひろ)はあるだろう。根は斜面にへばりついて振り落とされないように土を抱え込んでいる。根から2mぐらい上には無骨を絵に描いたようにコブがいくつも重なり合って力強さを湧き立たせている。
その昔、杜氏に取り憑いたキツネが払い落とされて行き場を失くして棲んだのが、この祠だといわれている。祠にイヌグスが覆い被さっている光景は、まるでキツネを雨露から守っているように見えた。

「十日の森の稲荷神社」に咲いていたヤブラン

元名主で造り酒屋の土蔵
十日の森の稲荷神社のイヌグスよりもさらに大きいイヌグスがあると聞いて稲荷神社から道なりに細い坂道を下った。途中で青梅線に突き当たった角に土蔵があるのに気持ちが動き、再び足を止めた。

元名主だった原島家の土蔵

この土蔵は、小丹波村時代の名主・原島家の土蔵だった。杉板に記された説明によると、原島家は江戸時代に奥多摩16ヶ村の寄場名主として帯刀が許されていた。西光寺の開基や小丹波熊野神社の本殿、神楽殿などの建設・整備に関わったほか、天保の飢饉(天保4~10年=1833~39)、江戸城西の丸焼失(寛永11年=1634)の際などに多額を納め、明治維新後も戸長や村長を務めた。明治初めまで造り酒屋だったとも記しており、当時の繁栄を表す土蔵だった。
空を隠す「小丹波のイヌグス」
目指していた「小丹波のイヌグス」の大木があるのは原島家の屋敷林で、土蔵から線路沿いに数十メートル西へ向かい、「奥多摩巨樹の里」の標示を頼りに右折して路地へ入った。奥まったところに枝を張り、色濃い葉を茂らせた大木があった。「小丹波のイヌグス」だ。

野太く樹勢の良さを感じる「小丹波のイヌグス」

目通りの幹回り4.5m、樹高22.7m、樹齢360年。奥多摩町天然記念物に指定されている。根元から何本も、ゾウの足より太い幹が立ち上がり、それぞれが樹幹を取り囲むように伸びている。野太い樹幹から伸びた枝の広がりは15m以上か。空を隠している。わが身の小ささを感じて、もっと近づいてみたいと思ったが、根元から2~3m外周にロープが張ってあり近寄れない。
イヌグスは正式名をタブノキといい、暖地に自生する常緑喬木。秋に咲くという花は、もう過ぎたのか。この果実は翌年の7月ごろに熟すという。樹皮は黄八丈などの樺色を出す染料に使い、材を装飾器具に生かす重宝な樹種だ。イヌグスの近くにあった彼岸花が秋の陽光を程よく受けて深紅の色合いをさらに深くしていた。

「小丹波のイヌグス」のそばの竹林に咲いていた彼岸花