荒くれた傷残す多摩川に胸塞がり、人情あふれる玉堂作品に癒される~御嶽駅前の顔

神社の雰囲気醸し出す駅舎

御嶽駅の駅頭に立って、この日もいつものように駅舎の屋根を見上げたり、振り返ったりしてしまった。御岳山上にある武蔵御嶽神社の玄関口であることから駅舎は、入母屋造りの屋根に神社を模した唐破風の造りを併せており、泰然さがにじんでいて気に入っている。

神社の雰囲気を醸し出している御嶽駅の駅舎

青梅線は、石灰を運ぶために延伸に次ぐ延伸で氷川駅(現奥多摩駅)まで鉄路を延ばしたが、御嶽駅の設置(昭和4年=1929=9月1日開業)理由は違う。神社への参拝客や御岳渓谷の観光客を当て込んだものだった。青梅線随一の観光地であることは今も変わらないが、変わったのは青梅-奥多摩駅間13駅あるうち無人駅が11駅で駅の顔でもある駅員の姿がない寂しさは否めない。駅職員がいるのは青梅駅と奥多摩駅だけだ。

無人駅総選挙でトップ獲得

御嶽駅は、うら寂しい無人駅のイメージだが、裏を返せば、もう一つの魅力が潜んでいる舞台でもある。JRは昨年10月16日から39日間にわたって、沿線の活性化につなげるために「東京アドベンチャーライン(青梅-奥多摩駅間)無人駅総選挙2021」を展開した。有効投票814票(投票総数1146票)。その結果、106票を獲得して1位になったのは御嶽駅、2位(94票)に渓谷の玄関口である鳩ノ巣駅が推され、3位(91票)が梅の郷梅郷の玄関口、日向和田駅だった。

速い流れに乗ってラフティングのスリルを楽しむ人たち。歓声が渓谷に響く

御嶽駅構内の階段踊り場や休憩所で無人駅総選挙1位企画として8月末まで写真展を開いている。昭和4年に二俣尾-御嶽駅間が延伸開業した当時の青梅電気鉄道の機関車や開業当時は御嶽駅前の御岳大橋が工事中で、駅前には氷川行きの乗り合いバスが止まっている写真、多摩川を下る筏の写真などが展示され、風光明媚な御岳渓谷は賑わっていた。

一役買って渓谷に観光客呼ぶ

目に留まったのは宮崎廷さん(青梅市)が昭和43年(1968)8月に多摩川の御岳苑地で撮った「玉堂祭」の写真だ。多摩川の波模様を染め抜いた揃いの浴衣を着た女性たちは手に手にうちわを持って苑地を輪になって踊り、多摩川に架かる御岳小橋、杣の小橋、川沿いの桟道を「御岳杣歌」などを歌いながら流し踊りを楽しんでいる。「御岳杣歌」は日本画の巨匠・川合玉堂さんが作詞した。

美術館に展示してある生前の川合玉堂さんの写真

「玉堂祭」は玉堂美術館を運営する玉堂会と御岳観光協会が昭和39年(1964)から行った御岳渓谷の夏祭りだった。地元をはじめ、青梅市中からも多くの踊り好きがやって来て、夜には花火も打ち上げた。

清流と深まる緑の中に浮き立つ無残な御岳小橋

流失の残骸さらす御岳小橋

急坂を下って御岳苑地へ下りた。この苑地は昭和12年、河原にあった民家を駅前に移転させて造ったという。その苑地にある御岳小橋は無残な姿をさらしたままだった。令和元年(2019)10月の台風19号で奥多摩が降水量600mmを超える豪雨に見舞われて御岳渓谷では見る見るうちに増水して、御岳小橋に架けていたワイヤが切れて本流付近の右岸側が橋もろとも流された。その後、ワイヤなどは河原から撤去されたものの、2年半も手つかずだ。澄んだ水が巨岩を噛む渓谷美とは裏腹に増水当時の濁流と、その轟音を想像してこの場からしばらく動けなかった。改修計画をまだ聞いていないと近所の人は言っていた。

初夏の光が射す玉堂美術館入口。数寄屋建築の名手と言われる吉田五十八さんが設計した

「自然が表現方法教えてくれる」

対岸にある玉堂美術館へ向かった。玉堂さんは、多摩川流域の御岳をはじめ、一帯の山々とその景観が大好きだった。明治6年(1873)愛知県に生まれ、岐阜県で育った玉堂さんは、明治・大正・昭和に渡って多くの名作を残した日本画の巨匠だ。14歳から京都で日本画を学び、3年後に画壇デビュー。23歳のときに上京して麹町に住んで橋本雅邦(天保6年=1835~明治41年=1908)門下に入って本格的に日本画に向かった。

15歳のころから84歳までの作品や資料を展示する玉堂美術館

このころから玉堂さんは奥多摩に入り始めた。自然志向の強さは、少年時代に父親と山へ行ってお菓子や弁当を食べて楽しんだことがきっかけだった。風景画に取り組み、奥多摩通いに拍車がかかった。山や渓谷に“震い付くほどいい”といい「自然が私に表現方法を教えてくれるような気になる」と言っていたという。架空なものを作り出す勇気もないとも語っていた。その後、博覧会の審査委員や美術学校教授を務め、55歳の時に昭和天皇即位御大典用の屏風を制作するなどフランスやイタリアから勲章も贈られた。

疎開きっかけで御岳に住む

日本の戦時色が強まった昭和19(1944)年7月、玉堂さんは西多摩郡三田村御岳(現青梅市御岳)に疎開した。その年の暮れには古里村白丸(現奥多摩町白丸)へ移転。麹町から牛込若宮町(現新宿区若宮町)に移していた自宅を空襲で焼失したのを機に翌年5月、再び御岳に移った。自宅を「偶庵」と名付けて、亡くなる昭和32年(1957)6月30日まで住んだ。84歳だった。勲一等旭日大綬章、名誉都民、青梅市名誉市民。玉堂美術館ができたのは玉堂さんが亡くなって4年後だ。

生前の玉堂さんの日課は、白丸でも御岳でも朝の散歩だった。スケッチブックを欠かさず携えていた。昭和24年(1949)には奥多摩の風景を描いた「古駅の秋」、昭和25年には御岳山の日の出を描いた「黎明」、昭和28年にも奥多摩の桟道で見た「渓山紅葉」を温かく描いた。「河畔梅家」「小春」も御岳の早春と晩秋に農家を趣き深く描いた作品だ。これらは、いずれも見る人の郷愁を誘う。

作品「茶摘」。昭和27年作、79歳。手と口をよく動かし、茶を摘む女性の傍らに立って、玉堂さんは苦笑しながら写しとった

聳え立つ「奥多摩槍」の命名者

急斜面に家々が建つ白丸では南の鋸山(1109m)をピークとする鋸尾根よりも抜きん出て見える天地山(981m)を好んだ。白丸のどの地点からも天を仰ぐように聳え立って見える山だ。白丸から見る天地山の形状は急角度の二等辺に近い三角形。山容は急登で岩場の連続。玉堂さんは天地山を「奥多摩槍」と命名したほど親しんでいた。白丸から天地山を望む好立地に玉堂さんが詠んだ歌が掲げられている。「名に負へる天地嶽は人知らず 奥多摩槍といはば知らまく」。

白丸地域から見た天地山(三角形の山)。玉堂さんは「奥多摩槍」と名付けた

「日本の自然、山河が消える」

玉堂さんの訃報に接した日本画家の鏑木清方さん(明治11年=1878~昭和47年=1972)は「日本の自然が、日本の山河がなくなってしまったように思う」と悲しんだ。自然や風物を叙情豊かに描き、「渡し舟」も玉堂さんが好んだモチーフだった。多摩川にゆかりが深い筏流しの光景も川岸の桜と組み合わせて柔らかいタッチで描いた。牧歌的であり、そこに生きる人々を生き生きと描いた。動物や鳥にも玉堂さんの優しいまなざしが感じられる。日本の原風景を描き続けた作品は、いまも見る者を癒す。

温かさにじむ山、川、木、人

晩年の作品「栃若葉」も、ここ御岳で生まれた。筧の繊細な水の描線と太陽の光を透かして輝く栃若葉に瑞々しさがあり、シラサギの羽毛の温かさと柔らかさに初夏の清新さをにじませる。時には暴れる多摩川とはいえ、玉堂さんが描いた水がある絵から伝わるのは、穏やかな暮らしぶりだ。「絵は人柄を著わす」という言葉を思い浮かべながら美術館で玉堂さんの肖像写真を改めて見た。

作品「栃若葉」。昭和31年作、83歳。絵の修練と自身の鋭い感覚で技量を上げた秀作と言われる

玉堂さんは、地元との縁を大切にした。御岳山(929m)を訪ねた折、かつて強力(ごうりき)が水を担ぎ上げていたなど山上で生活する人々が水を得るのに苦労していることを知って水道を引くことを提案し、ロックガーデンの上にある河鹿沢に水源を置き、山上に暮らす人々の暮らしを支えることになった。この水道を玉堂さんは「綾廣水道」と名付けた。この経緯を自筆でしたためて水源地に碑を建立した。

多摩川上流の数馬峡橋のたもとには自身が明治36年(1903)に奥多摩・中山郷で詠んだ句がある。「山の上のはなれ小むらの名を聞かむ やがてわが世をここにへぬべく」。ここの平安の地で過ごしたいと胸を膨らませていた。

玉堂さんの自然観に通じており、無限の奥行と広がりを見せる玉堂美術館の庭。国内外の庭園を数多く手掛けた中島健さんが作庭した

五色の水音感じられる庭に

あふれる人情の機微と自然への深い敬いを伺い知るのは美術館前の枯山水の庭園だ。奥多摩の雑木林や渓流に吹き流れる風と音を描き込んでいた玉堂さんにとって、庭園は絵の世界であり、自然を学ぶ道場なのだろう。ご本人は庭園から水の音が五色くらい感じられれば、最高だと言っていたことがあったという。この庭園を見ずに逝ってしまったが、きっと天から見下ろしてご満悦だろう。

この庭に魅かれるのは日本人だけではない。アメリカの日本庭園専門誌は2021年に発表した日本庭園ランキングに玉堂美術館の庭園を11位に選んだ。旅館や旧別荘など900件以上の中から世界各国の専門家が選出した。

刻々変わる日の光に浮き立つ庭石や四方の山々の雑木と繋がっているような庭園は、光と影も功を奏して立体的であり、多摩川からの流水音も加わり、ここに身を静める者に意欲さえも与えてくれるような面持ちになった。