畠山重忠~源平の争乱~

まるで『ゴットファザー』

NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を観て、わたしは小学生の時に観た映画『ゴットファザー』を思い出しました。だってみんな死んじゃうだもの(笑い)。もちろん京都から呼び寄せた役人などの文民は死ぬことはないのですが、武士に限っていうと北条家以外の人はみんな死んじゃう。頼朝だって殺されたのかもと疑ってしまうほどです。

惜しまれつつも亡くなった俳優たち

ここでドラマの中で惜しまれつつも殺されていく話題になった武将が話題をあげてみますね。

・佐藤浩市さんの上総広常(かずさひろつね)・・・通称上総介(かずさのすけ)…
・市川染五郎さんの源義高(みなもとのよしたか)・・・通称冠者殿(かじゃどの)…義仲の息子
・菅田将暉さんの源義経(みなもとのよしつね)・・・通称九郎義経(くろうよしつね)…頼朝の弟

これからも、どんどん武士は亡くなっていきます。ドラマを見ている女性陣は推しメンが死んでしまいロス状態の連続の様子です。まあドラマといえども史実を変えるわけにはいかないですしね。

それでは治承・寿永の乱といわれる源平の興亡での畠山重忠の活躍を見ていきましょう。

頼朝の東国固め

源頼朝は治承4年(1180)10月の富士川の戦いの後、東国の地盤固めに力を注ぎました。
一方、頼朝とほぼ同じ頃に信濃国(しなののくに・長野県)で挙兵した源義仲(みなもとのよしなか)は、次第に勢力を拡大していきました。あわせて各地の源氏勢力も立ちあがったため、争乱は九州にまで広がっていきました。寿永2年(1183)に義仲は京から平家を追い出し、都入りを果たしました。京から追われた平家は安徳天皇とともに備前国(びぜんのくに・岡山県)へ落ちていきます。一方、頼朝は、朝廷から東国沙汰権(とうごくさたけん・支配権)を公認され、名実ともに東国の主になりました。この年が平氏と源氏の運命を分けた年となったのです。

宇治川の戦い

入京した源義仲と対立した後白河法皇は、源頼朝に対し、義仲追討の命をだします。これを受けて頼朝は、弟の源範頼(みなもとののりより)と源義経に大軍を与えて上洛させ、元暦元年(1184)正月に義仲を近江国(おうみのくに)粟津で討ちました。
『平家物語』によれば、この戦さにあたり畠山重忠は、義経軍の一員として500騎の軍勢を率いて参戦していました。夜明けに到着した宇治川は、雪解け水で水位が上昇し、皆が渡河を躊躇する状態でしたが、重忠は「瀬踏みしましょう」といって、馬で川に入ります。渡る途中で敵方に馬を射られ、仕方なく河床を歩いていると、馬を流された烏帽子子(えぼしご・元服の加冠の儀式にあたり、冠を授けた子)の大串重親(おおぐししげちか)がしがみついてきたので、怪力の重忠は重親を敵陣のある対岸に投げてやりました。すると重親が「徒行(かち)だちの一番乗りである」と叫んだので、皆の笑いを誘ったという話が記されています。
このあと重忠は、他の馬に乗り換えて義仲の家臣である長瀬重綱(ながせしげつな)を討ち取り、味方の指揮を鼓舞したと伝えられています。

一の谷の戦い

源範頼・源義経が、源義仲追討に追われている間に、平氏は西国から旧都福原(兵庫県神戸市)へに戻った後、摂津国(せっつのくに)一の谷(神戸市)に陣を築いて、京都回復を目指しました。このため、範頼・義経軍は義仲を討ち取ると、頼朝の命を受け、元暦元年(1184)2月、一の谷に陣を構えた平氏への攻撃にかかります。

鵯越の愛馬を背負った逸話

一の谷の戦いといえば「鵯越(ひよどりごえ)を重忠が愛馬三日月を背負って下りた」という逸話が大変有名です。鵯越は一の谷の裏山で、平氏の陣を真下に見下ろす断崖絶壁でした。義経以下、急な斜面を馬とともに下りることになかなか決心がつかなかったといわれるこの難所を、重忠は本当に馬を背負って下りたのでしょうか?

ほんとうに重忠は愛馬を背負った?信憑性

実は、この鵯越に向かったのは搦手(からめて)の軍である義経軍2万騎のうち、たった70騎からなる別動隊でした。義経は鵯越に向かうにあたり、この別動隊を自ら率い、残りの本隊は甲斐源氏の安田義定(やすだよしさだ)らに預けたのです。つまり、重忠の先の逸話が成り立つためには、重忠がこの別動隊の一員でなければなりません。
では、各書物にはどのように書かれているのでしょうか。まず、『吾妻鏡』によれば、「重忠は大手の軍の大将源範頼に従った」としていることから、鵯越はもちろん、義経軍にもいなかったことになります。『平家物語』には、搦手の大将源義経に従ったとありますが、鵯越の場面に重忠の名前はなく、馬を背負った話も記していません。実はこの話が登場するのは、『延慶本平家物語』や『源平盛衰記』だけで、重忠の所属についても「範頼を大将の器ではないと見限った重忠が、義経の軍に乗り換えた」と記されており、記述の信憑性が疑われます。

重忠の怪力ぶりと心根の優しさ

一方、『吾妻鏡』や『平家物語』などの諸本の多くには、「重忠の家臣・本多近常(ほんだしかつね)が平脆盛(たいらのもろもり・清盛の孫)を討ち取り、それが安田義定の手柄となった」という記事があります。このことから、重忠主従が属していたのは、鵯越に向かった別動隊ではなく、安田義定らが率いる搦手の本隊の可能性が高いといえます。
このことから、今日では、重忠が鵯越で愛馬を背負って下りたという話は、重忠の怪力ぶりと心根の優しさを物語るために、後世に創作されたものと考えられるようになっています。

まだまだ重忠の活躍は続きます。次回は平家滅亡の壇ノ浦のお話です。

鵯越の逸話の重忠像・畠山館跡(深谷市)