堀之内の保井寺(ほうせいじ)を通りかかった時に「新選組 斎藤一諾斎の墓所」なる案内板が目に付きました。そこで「斎藤一諾斎とは、どんな隊士か?」「多摩に墓所があるとは?多摩の出身なのか?」気になって調べてみると、近くの大塚の観音堂に顕彰碑があるようなので、訪ねてみることにしました。
斎藤一諾斎とは、どんな人物であったのか
一諾斎というのは号で、名は秀全といい文化10年(1813)江戸で幕臣の子として生まれ、6歳の時に浅草今川潮江院で僧となりました。天保5年(1835)~12(1842)年まで諸国をめぐり仏法を修行し、その後江戸諸寺の住職を勤めました。
安政4年(1858)甲州都留郡全福寺の住職となります。慶応4年(1868)に戊辰戦争が起きると還俗し、甲陽鎮撫隊として甲府に侵攻した新選組に入隊、その後上野彰義隊に参加し、上野での敗戦後は再び新選組として土方歳三の配下で転戦したが、函館には行かず仙台で降伏したというのが通説ですが、松前城攻撃の折に捕らえられた奥方を土方の命により江戸に送り届けたというドラマチックな説もありました。
その後多摩郡中野村(現、八王子市東中野)において寺子屋を開き、明治5年(1872)の学校令が発せられると生蘭学校の創設に尽力しました。翌6年(1873)に学校は落成しましたが、一諾斎は翌7年に病のために死去しました。里人はこれを悲しみ、門弟や佐藤俊信、土方隼人、近藤勇五郎といった新選組幹部の遺族らと計り、大塚の観音堂に顕彰碑を建立し、その徳をたたえたということです。
観音堂の顕彰碑
塩釜山清鏡寺、曹洞宗。清鏡寺はもとは観音堂の別当寺でした。観音堂は、御手の観音(おてのかんのん)と呼ばれています。
ご本尊は千手観音ですが、他に東京都指定有形文化財(彫刻)の木造十一面観世音菩薩立像があります。この仏像は明治の廃仏毀釈の折に近くのお寺(八王子市松木の教福寺)から移した客仏です。
顕彰碑は観音堂のすぐ脇にありました。裏面に有志者の名前が刻まれていますが、日野 佐藤俊信(佐藤彦五郎の子息)、石田 土方隼人(土方歳三の甥)、上石原 近藤祐五郎(勇五郎、近藤勇の娘婿)ら新選組幹部遺族の他、野津田の石坂公歴、関戸の相澤祐之などの名が刻まれていました。
隣に櫓が見えたので何かと思ったら、温泉スタンドということで温泉を汲み上げているようです。「塩釜温泉観音湯」で温泉水の販売をしている店でした。
保井寺の一諾斎墓所へ
そのまま徒歩で堀之内の保井寺へ向かいました。
案内板の「五色八重散り椿」も大いに気になるところです。
龍澤山保井寺、曹洞宗のお寺です。山門をくぐると左手に「五色八重散り椿」がありました。花の季節に来てみたいと思います。
一諾斎のお墓は、一番目立つところにありました。丁寧な解説もあり、大切にされているのが感じられます。
年譜からすると新選組加入時は、すでに50代半ばです。最高齢の隊士ではないでしょうか。その後、多摩で教育に力を注いだ一諾斎は、62年の生涯を閉じました。
帰りに近くの芝原公園によって一休みしました。ここはちょっと小高くて眺めもいいのです。車止めが埴輪で公園も古墳状です。周辺からは、多摩ニュータウン遺跡として、縄文時代から古代にかけての遺跡が多く発見されていることをから古墳をイメージした園内や古墳・埴輪のオブジェを配しているようです。
<参考>
- 新選組辞典 新人物往来社編
- 解説板