江戸時代に行われた玉川上水と多摩川の川浚(さら)い

江戸幕府は、幕府の体制が整うに連れ、江戸の町の人口は急速に膨れ上がり、慢性的な水不足に陥った。そのため幕府は、承応2年(1653)多摩川の水を羽村から江戸まで通す玉川上水を開削することを決定した。

承応2年4月4日から着工し、苦心惨憺(さんたん)の末、11月15日には江戸四谷大木戸までの10里30町余り(約43㎞)に及ぶ玉川上水路の開削工事を七ヶ月という早さで完成させた。

玉川上水羽村堰と取水口

上水は、目的が飲用であるところから、水が絶えず円滑に流れ、かつ清浄であることが要求された。しかし、上水に限らず川は時が経つにしたがい、土砂が堆積し、あるいは、水草の類が繁茂して水流の妨げとなる。そのために定期的な川浚いが必要だった。上水浚いは、一帯の村々に課せられた夫役(ぶえき)であった。

小平市内の現在の玉川上水

またこれらの上水縁の村々には、それぞれ持場範囲が定められ、上水浚いの責任分担が明らかにされていた。この「持場」の分け方は、ほぼ上水に接する互いの村境までとか、例えば、熊川村(現福生市)では、牛浜橋より殿ヶ谷新田分水口まで北側約2,750mというように、橋や分水などで分けている。最も長い小川村(現小平市)の場合を見てみると、南側約2,730m、北側約5,460mもあった。このため夫役の軽減を訴え出たこともあったという。上水浚いに要する人足の費用は、自村で賄う決まりになっていた。浚う時期は、数年に一度だが、日限を定められており、持場の村々の負担は重かった。そのような決め事に依り、玉川上水浚いは、持場範囲の村々で定期的に行われることにより、水が絶えず円滑に流れていたと思われる。

多摩川の本流は、どうだったのでしょうか?

多摩川は、日本でも有数な急流河川であり、川浚いなどという決め事はされていなかった。

そんななか、寛保2年(1742)8月1日発生した大水害(*下流部右岸の川崎では、堤防決壊、下流部左岸六郷用水で取り入れ口が決壊。他各所で堤防決壊、川通20里の間で、緊急改修を要する場所が110ヵ所あった。)は関東甲信越地方に大きな被害をもたらし、死者も数万人に及んだという。

惣岳渓谷のシダクラ沢から大量の土砂や岩石が多摩川に流れ出た。沢の上流の多摩川には岩石は無いが、下流には大量の岩石が残っている。

シダクラ沢上流部

 

 

シダクラ沢下流部

多摩川も多くの箇所で氾濫した。奥多摩惣岳渓谷では少なくとも7箇所で大きな土砂崩れが起き、そのために洪水が収まった後でも多摩川の水は何か月も濁ったままであった。その影響で、多摩川の水を羽村の堰で取水している玉川上水も濁ったままとなり、これでは江戸城の本丸で使う水には適さないということで、大岡越前守忠相を含む幕府中枢部ではその対策の議論が行われたということが、大岡越前の日記に記されているという。

第1案は、多摩川の奥多摩渓谷に溜まった泥を浚うという提案。

第2案は、青梅の北側のある荒川の支流から水路を掘って清流を玉川上水に導き水の濁りを取ろうという提案があった。しかし現地調査をしたところ途中に丘陵があることが判明して採用にならなかった。

第3案は、井之頭池を水源とする神田上水から玉川上水に水路を掘って清水を注ぐという提案であった。確かに現在の吉祥寺駅の南西辺りでは、二つの上水が数百メートルの近さで並行して流れている所もある。しかし、この案も神田上水の水量では補えないだろうということで採用にならなかった。

もっとも興味深い案は、第4案の意見である。それは玉川上水沿いに「溜め井」を沢山作って濁り水を入れておけば水が澄むのではないかという提案であった。これは近現代の水道で用いている「沈殿池」と同じ発想であった。しかし、この意見も田畑を沢山潰さなければならないという問題が指摘されて実現しなかった。

以上の案から、第1案の奥多摩渓谷の泥を浚うという提案が残り、実際に行われた。

大水害の翌年の寛保3年には、「試し浚い」が羽村の堰の上流約2㎞の範囲で行われた。その結果、玉川上水の水が澄んできたので、その水を徳利に入れ、わざわざ江戸まで運び、若年寄が点検したという。大岡日記には、江戸城本丸で使う水は、「清潔」でなければならないと明記されており、そのこだわりが表れている。

その翌年には、奥多摩渓谷上流の原村(現在は奥多摩湖底)から羽村の堰まで約64㎞にわたって川浚いの本工事が行われた。その方法は「浚い流し」と表現されている。専門の人足が胸まで水に浸かって作業したというから、川底の泥を浚って、岸に上げるのでは無く、川に流したと思われる。この工事には約3か月を要している。これによって多摩川と玉川上水は清流を取り戻すことができた。

 

玉川上水の濁りを解消するための四つの提案があったとされるが、当時の幕府中枢の人々は、自然を改造することに何の躊躇(ちゅうちょ)も思っていないという事が伺えるが、残念ながら当時の技術では実現できない提案が多かった。

沈殿池を用いるということは東京では明治31年(1897)に竣工した淀橋浄水場以降のことになる。大岡越前の時代に実現しなかったことが、後の時代に、はるかに規模を大きくして実現されている。自然改造の思想は近現代だけのものではないらしいことがわかる。

 

その後、安政6年(1859)7月25日台風〔*鳩ノ巣渓谷の魚留滝(なるたき)高さ4.5m、幅5.5mが崩壊。羽村取水堰破壊。玉川上水止まる。中流左岸の村々で家が流失、下流部左岸では、和泉村(現狛江市)堤500間切断され、緒方(現狛江市)大堤決壊。〕による暴風雨で多摩川上流部(現・奥多摩町)や青梅では崖崩れや多摩川支流の沢が大氾濫を起こし、土石流による家屋の倒壊、橋の流失など相次ぐ被害が発生し、多摩川は濁流となって流れ下った。

一年が過ぎても多摩川の水は濁ったままだったため、幕府の役人が調査した結果、幕府は「川を洗え」という命令を下した。各村々で割付し、人足一人に白米一升五合が付与され、御嶽村は、現在の奥多摩町海沢付近から御岳トンネルまでの多摩川28丁(約3㎞)に渡り担当したことが残されている。

 

 

鳩ノ巣渓谷の魚留滝崩壊跡

 

 

※引用資料

1、「国文研 千年の旅」読売新聞多摩版 連載より(令和2年(2020)3月30日.4月14日)

2、青梅市文化財ニュース(令和2年10月15日発行 第396号)

3、玉川上水論・羽村町史資料集第八集 羽村教育委員会

4、東京都水道局資料