多摩川右岸  川崎の古墳群を尋ねる       古墳集中の都多摩川左岸とどう違うか?

相変わらずの古墳ブームが華やかに継続している。

奈良、京都には世界遺産古墳があるとはいえ、「我らがふるさと」東京都(23区と30市町村)については、古墳がどれだけ確認されているかと言えば、700余の古墳が確認されており、下図の通りに分布している。見てわかるように、まさに、多摩川の中下流域に集中的に分布しているのがわかる。

古墳マップHPより    「東京の古墳マップ」

多摩川は、山梨県・東京都・神奈川県を流れる一級河川。下流は東京都と神奈川県の都県境となっている。全長 138km、流域面積 1,240㎢。多摩川下流沿岸の大田区田園調布、世田谷区尾山台・等々力・野毛といった、かつて武蔵国荏原郡と呼ばれた地域には、古墳が数多く分布している。これらをまとめて「荏原(台)古墳群」と呼び、田園調布を中心とする古墳群を「田園調布古墳群」、尾山台から野毛にかけての古墳群を「野毛古墳群」と呼ぶ。この一帯には、多摩川という水資源で肥沃な平地を利用した、弥生時代以来の生産性の高い農耕社会を背景とする、強力な首長の治める政治的集団が存在していたと考えられる。そして、古墳時代を通じて、この地域が、その首長一族の墓地として利用されていたのである。

この多摩めぐりの会でも、第5回の古墳巡り「古墳!!? 多摩川中下流域に集積・築造された、その謎と歴史を探る」(2018年9月開催)があり、そのほかでも、巡りルートの中で、いろいろと古墳が紹介された。先般の第39回「武蔵国国府は1300年前なぜ府中に? 府中の国府跡・大國魂神社と砂利電・競馬場を巡る」では国史指定の府中熊野神社古墳が紹介された。狛江市には「狛江百塚」があり、調布・府中の先にも古墳が築造されている。

古墳好きの筆者にとって、多摩川左岸の古墳群(多くは東京都在)を巡っていて思うのは、左岸中下流域に集中して古墳があるということは…、となると、多摩川の右岸には、古墳がたくさん並んでいたのだろうか?、川崎市あたりでは、古墳はあったのか、あったとしたらどんな風であったのか、がこれまで未探索の探るべき分野として、いつも頭の中で宿題になっていた。

東京都の多摩めぐりという枠を少々逸脱するが「多摩」めぐりのうちの、「多摩川めぐり」の付録として、探ってみたい。

川崎の古墳群

川崎市は、神奈川県の北東部に位置し、多摩川に沿って東京湾から細く伸びる市域を形成している。多摩川は古くから「暴れ川」として知られており、河口部から上流にかけては、氾濫原が広がっていたという。南東部の川崎区・幸区は多摩川と鶴見川が形作った沖積平野上に位置している。縄文時代中期には、中期には中流から下流にかけて平坦な丘陵上に涌泉周囲集落が出来て、後期には、弥生時代には稲作農耕を中心にした社会が構成され、集落とともに方形周溝墓等の墓域が作られるようになった。幸区に所在する通称「加瀬山」と呼ばれる丘陵斜面部に作られた南加瀬貝塚は、全国的にも珍しく、縄文時代の貝塚の上に弥生時代の貝塚が形成されていたことが発掘調査で判明し、縄文時代と弥生時代の前後関係を明確にした、学史上きわめて重要な遺跡として知られている。弥生時代から古墳時代にかけては、階級の差が現れ、政治経済の発展とともに古墳に象徴される豪族を中心とした社会が形成され、幸区南加瀬の白山古墳のように全長87mを超える大型の前方後円墳も築かれた。さらに、古墳時代後期から終末期になると、多摩川や矢上川に面した丘陵部や台地上には、古墳群も多く築かれた。

多摩川北岸を占める東京都の古墳については、前述の通り、時代が進むにつれ、下流から、上流にかけて農耕経済が進展し、地域支配体制も小規模ながら組成されて、村長・族長から小豪族までが古墳を作り続けて、それら古墳/多くは円墳が、北上していく。

多摩川南岸の川崎市の古墳については、筆者も東京都多摩川の古墳巡りを歩いて、多摩川の南向う側については、資料を見れば、東京都側と川崎市側では古墳の数が違っているのが見える。川崎市からは、住宅地の造成開発で、文化財は消滅していっており、全てを保 存できないまでも、しっかりと調査し記録だけでも残すことが必要だと感じられる。

川崎市内には、これまで61の古墳が確認され、うち43基が現存するとの資料があり、中世や近世の経塚や供養塚などの可能性のあるものを含めると高塚古墳70基ともいわれる。

筆者は、この多摩川沿いの古墳群には、全くの素人であり、まずは中南部の古墳から、資料を手繰りながら、初見参していきたい。

 塚越古墳                                                                    

 上図の一番南にある、「塚越古墳」を尋ねる。南武線鹿島台駅下車で、徒歩で東南方に向かって歩けば、川崎市幸区塚越二丁目にある古墳時代後期の円墳がある。前方後円墳だった可能性もある由。埼玉県鴻巣市の関東最大の埴輪生産地である生出塚埴輪窯で焼かれた埴輪が建てられていたといわれる。多摩川と鶴見川の流れが東京湾に到達する手前の低地地帯に造られたといわれて、墳丘は円形で直径69m、高さ3.5mで、標高値では7.5mほどの由。2014年の調査では、見つかった周溝が墳丘を一周する円墳と仮定した場合は、本来直径30mほどの円丘であったと判明している。一連の調査から、塚越古墳は多摩川の低地部に築造されて、現在まで残る唯一の古墳であり、神奈川県内では数少ない生出塚産の埴輪を供給された貴重な古墳であることがわかった。また当地は、西暦534年(安閑天皇元年)に起こった武蔵国造の乱の後に橘花屯倉(たちばなのみやけ)が設置された地域であり、そのような時期にこの地に現れた塚越古墳については、築造に至る歴史的背景などの 調査が必要と指摘されているとのこと。

地名「塚越」については、『新編武蔵風土記稿』によると「塚越村は其の名の起る處をおさえるに、村内に古塚ありて其邊を塚の越といへり、此塚あるより起こりし地名なること知らる」とあり、この古墳の存在が地名の由来になったことがわかる。

鹿島田駅から、バスルートを徒歩で10分ほど歩いて、細い道に入ったが、スマホの地図指示場所に、塚越古墳との指示標識も見当たらない。地域をぐるっと回っても、「塚越古墳あり」との看板もなければ、はてさて?と探して見つけたのが、一般住宅の背後の小山である。住宅の裏地に写真の通り小木が生え草の茂った小丘である。塚越という地名の由来地であり、「多摩川の低地部に現在まで残る唯一の古墳」と言われる割には、保存も忘れられているようである。

 鹿瀬台古墳群 ‥ 白山古墳他

 鹿島田駅に戻って、新川崎を経て、バス乗車10分で「夢見ヶ崎動物公園前」に着く。夢見ヶ崎動物公園に向かって登り階段を上っていくと、展望台のある広場が広がっている。穏やかな広場が古墳群の跡地。

白山古墳(はくさんこふん)、または加瀬白山古墳(かせはくさんこふん)は、神奈川県川崎市幸区南加瀬に存在した、川崎市内最大級の前方後円墳。加瀬台古墳群に含まれる。白山古墳は多摩川と鶴見川に挟まれた「加瀬山」と呼ばれる標高33mの台地の東端に造られ、全長87m、後円部径42m、同高10m、前方部37m、同高5m。1937年慶応大学三田史学会によって発掘調査された。埴輪は出土なし。築造時期は4世紀後半と言われる。その後、開発による土砂採掘のため削平されて墳丘は消滅している。江戸城創始者の太田道灌が城を築こうとしたが、鷲に兜をとられる縁起の悪い夢を見たため築城をあきらめたという伝説にちなんで、夢見ヶ崎という地名が付けられたと言われる。この公園内には、白山古墳に続いて、約750m西側の台地に、白山古墳を凌ぐ古墳と言われた観音塚古墳(推定全長100m)が造られたが、開発のため削平されて現存しない。夢見ヶ崎の台地上には、現在わかっているだけでも11基もの古墳や古墳と考えられる塚が築かれていて、これらの古墳は総称して加瀬台(夢見ヶ崎)古墳群と呼ばれており、4世紀後半から7世紀後半にかけて築造されたと考えられている。

夢見が埼動物公園は、加瀬山と呼ばれた周辺に、鶴見川と矢上川あたりの海に浮かぶ小島の様であったといわれる。現在では、小丘の上にそれぞれに動物柵が設けられて、レーサーパンダ、きじ、ラーマ、猿類、マーコール、シマウマ等々が、家族に連れられた子供たちと楽しい会話をしている。公園内には、一寺三社が祀られており、入口の南側上部には、加瀬貝塚があり、その北東部周囲には、丘を囲むように本来11基の古墳が並んでいたといわれ、現在7基が確認されている。白山古墳は、古墳跡が示されているだけだが、後円部からは三角縁神獣鏡が副葬品として出土しており、後円部下方からは、現在国宝に指定されている火葬人骨の詰まった「秋草文壺」が発見されている。現在では、古墳があったとの看板表示だけの、この川崎市最大級の立派な前方後円墳の存在は、近隣の住宅開発の進展でないがしろにされてきたわけだ。

   平間銚子塚古墳

    塚越古墳を尋ねる拠点とした南武線鹿島田駅から、一駅立川府中本町方面に戻って、平間駅から、駅北方の踏切を西に渡ってすぐの左側に入る小路のそこに、平間銚子塚古墳がある。小振りの集合住宅の前に、少々土塁らしいものがあり、木が茂って、この小丘の入口にしつらえた鳥居を潜れば、そこが古墳丘の上部の様で、残存規模は東西約2m、南北約10m、高さ3mの前方後円墳だったといわれる。

この塚は、銚子塚と呼ばれ、一説によると、江戸中期の赤穂浪士討ち入りの際、大石内蔵助の一行が平間に滞在し浪人の一人富森助右衛門が大工の喜右衛門に別離の宴で送った銚子が、この塚の祠に祀られているという。この踏切を渡るガス橋通りは、近世から神奈川道、神奈川荏原街道と呼ばれた道で、かつて二か所ほど不思議と曲がった場所があり、この銚子塚もその一つで、「平間の七曲がり」と呼ばれていた。

   蟹ヶ谷古墳群

   平間から南武線を北上して武蔵小杉で乗換え、西に一駅の元住吉駅で川崎市バス「井田病院」行で「中原老人福祉センター入口」バス停で下車して、住宅地を北上すれば、神奈川県川崎市高津区蟹ヶ谷(かにがたに)にある、古墳時代後期(6世紀~7世紀)の古墳群で、市内で唯一前方後円墳が現存する古墳群とされる古墳にたどり着く。元住吉駅からは、西に1.5キロメートルほど離れた神奈川県立中原養護学校北側の「神庭特別緑地保全地区」と呼ばれる高台の高所の縁に所在する。

高台上部に3基の古墳が並んでいるが、矢上川に下る斜面にも古墳と見られる高まりが複数あり、5基以上存在すると考えられている。また斜面には横穴墓(蟹ヶ谷横穴墓群)も存在する。既知の3基は円墳と考えられていてその後の調査の結果、中央の1号墳は全長30メートル以上の前方後円墳で、周溝と見られる溝や埴輪片が出土し、6世紀後半~末の築造と判明した。埋葬遺構は破壊されていたが、石棺の石材破片が発見された。2号墳・3号墳では埴輪が発見されず、1号墳に後続する6世紀末~7世紀初頭の円墳と判断された由。

神庭緑地に赴いたものの、高台の端で、1号墳、2~3古墳の位置説明らしい物があるものの、個別に指定してあるわけでもなく、古墳地であるとの表示あるも、これが古墳だ!という説明表示板もなく、大方の地域図があるだけ。もう少し、来訪者宛に説明板の用意も、指示標識付けも必要ではあるまいか。

不確かながら、下の写真が2号墳のようである(Wikipedia掲載の写真と比較して…)

古墳大好き筆者が、東京都の古墳多摩めぐりで、多摩川右岸の、はてさて川崎市はとのかねてからの疑問を、初見参でイライラしながら現地を探った。

古墳があっちこっちにあったことは判明したが、古墳好きで古墳探索者向けの親切な解説、指示看板があまりなく、川崎市内では古墳への関心はそれほどでもなく、古代への川崎の歴史を探る気負いはさほどではないのか? と疑問を抱いている。

また次に、川崎の古墳を尋ねる時が巡ってくるのかわからないが……はてさて。

資料提供

Wikipedia

川崎市作成の現地看板、パンフレット

古墳マップ