「第47回多摩めぐり ユネスコ無形文化遺産シリーズ第二弾『鳳凰の舞』道行きから奉納まで、新しい仏さま鹿野大仏も」を
9月29日(日)に開催します

第46回多摩めぐり 多摩を深める講演会
地芝居に打ち込む思い 秋川歌舞伎復活30年の郷土愛
秋川歌舞伎保存会あきる野座座長 白檮山誠さん

身振り手振りを加える白檮山さんの話を熱心に聞く参加者たち

全国を覆う猛暑。これが影響して各地に発生したゲリラ豪雨で水害に見舞われた。さらに連発する強い地震に加え、「巨大地震」の南海トラフ地震発生に備える注意情報も一時飛んだ令和6年夏。先行きに不安感が膨らんだ。人々の生活を脅かす自然災害を幾度となく被ってきた人々は、連綿と語り、歌い、舞い継がれてきた郷土芸能で祈る気持ちを高め、その苦しさを和らげる祭りも行ってきた。この秋も例祭、大祭が近い。江戸中期に生まれた秋川歌舞伎の流れをくむ農村歌舞伎とも地歌舞伎ともいわれるあきる野座が存続の危機を乗り越えて30年が過ぎた。永続させるための組織作りが生んだわけは、何だったのか。その心を求めて8月4日、多摩めぐりの46回目にあたる「多摩を深める講演会」を武蔵野プレイス(武蔵野市境南町)で開いた。秋川歌舞伎保存会あきる野座座長・白檮山誠(かしやま・まこと)さん(75)を迎えて、白檮山さんらの地歌舞伎に打ち込む思いを参加者27人がたっぷりと聞いた。その講演概要を――。

白檮山誠さん
浄瑠璃を語る白檮山さん
(白檮山誠さん提供)
白檮山誠さんのプロフィール

昭和24年(1949)立川市生まれ。中央大学卒、地元信用金庫に入庫
昭和59年(1984)以来、あきる野市二宮に在住
平成 7年(1995)秋川歌舞伎保存会入会し、義太夫を独学
平成 9年(1997)初舞台に立つ
平成14年(2002)勤務の傍ら竹本弥乃太夫師に入門して義太夫の本格修業を開始
平成17年(2005)竹本弥咲太夫(たけもと・やさかだゆう)として前進座で初舞台
        以後、国立劇場、浅草公会堂を中心に古典芸能者として活躍
平成19年(2007)秋川歌舞伎保存会あきる野座座長に就任、現在に至る


50歳過ぎて浄瑠璃の門叩く

東京都に残っている農村歌舞伎は、あきる野市に菅生一座と、うちのあきる野座の2つがある。昔は米や野菜などを収穫して、秋冬物の玉ねぎの種を蒔いた後の農閑期に役者が集まって芝居を演じ、楽しんだライフサイクルがあった。ところが今は夜まで働いている人が多い。本番まで全員揃ったことが一度もない中でなんとか続けている。きょう、ここに来ていただいた皆さんに希少価値を評価していただけたのかなと思い、その辺をお話しさせていただきます。

あきる野座座長をしていると同時に、義太夫の世界に入り、52歳ぐらいで師匠につかないとダメだなと考えた。それまで自己流だったが、師匠について義太夫を勉強してプロとして国立劇場や浅草公会堂などで義太夫を語らせていただいている。本当に遅咲きですけれど頑張れば何とかなるなという思いがあります。

前面に出過ぎない難しさ

浄瑠璃というのは、義太夫だけでなくいっぱいある。要するに太夫と三味線が対等な立場で競演しながら物語を語るのが浄瑠璃。義太夫の基本は文楽で人形が台詞を言わないから、太夫が全部の台詞を自分のペースで語って、人形遣いがそれに合わせる。ところがそれを取り込んだ歌舞伎は、台詞も見栄も役者がやる。役者の邪魔にならないように義太夫が語らないといけないので、ある意味難しい。

歌舞伎座の役者は達者ですが、地芝居は役者があまり達者でないから義太夫で聞かせる、泣かせどころがある。そうすると、つい義太夫が前面に出てしまうことがある。義太夫の役どころ、そこが難しい。

白檮山さん所有の秋川歌舞伎に関する書籍を閲覧できるように会場に展示した

定式幕の違いに伝統とその訳

(会場のスクリーンを指して)この黒・柿・萌葱の三色の幕を定式幕という。歌舞伎に欠かせないもので、基本は引幕で私たちはどんな幕でも上演するが、萌葱と柿がひっくり返ると「黒萌葱柿」といい、国立劇場にある。

江戸には幕府から許された歌舞伎が森田座、中村座、市村座の3つがある。森田座の流れを汲んでいるのが歌舞伎座の幕。市村座が黒萌葱柿、これを国立劇場が引き継いでいる。

中村座は黒白柿。定式幕ができたのは寛永10年(1633)。江戸幕府が伊豆で安宅丸という船を造り、江戸湾に曳航してくるときに中村勘三郎が踊りを踊って囃し立てる中、安宅丸が曳航された。この踊りを取り入れたのは羽柴秀吉が大坂城の石垣に使う石を運ばせるときに子供たちにやらせた。勘三郎は、それに因んだ。曳航される安宅丸にかかっていた火除けの幕が黒白だった。それを勘三郎に「お前よくやった。その幕をお前が使って良い」と下げ渡した。ところが、黒と白色じゃ色気がないと勘三郎は柿色を加えた。いまも平成中村座が黒白柿を使っている。

江島生島事件で一座取り潰し

先程、江戸三座と話しましたが、元禄年間(1688~1704)には四座があった。中村座、森田座、市村座、そして山村座。聖徳4年(1714)7代将軍徳川家継の生母、6代将軍家宣の妻月光院が僧籍に入った。5代将軍綱吉と家宣の墓参りに月光院の名代として上野寛永寺と芝増上寺へ行ったのが月光院に仕えていた江島。江島は墓参りの帰りに山村座で芝居見物をし、茶屋で花形役者の生島新五郎とどんちゃん騒ぎをして大奥の門限に遅れて大ごとになった。江島生島事件といわれ、江島は信州・高遠藩に幽閉され、生島は三宅島へ流罪になった。この事件で山村座は取り潰されて3座になった。

特徴ある多種多様な地芝居

農村歌舞伎、漁村歌舞伎、山村歌舞伎、村歌舞伎、市民歌舞伎と各地でいろんな名称で言われる歌舞伎を総称して「地芝居」と言っているが、これらは素人がやる演芸のことを地芝居といおうと全日本郷土芸能協会(本部・港区六本木)が定めたのでジャンルは広い。山形県には雪中歌舞伎がある。雪が降るところでやるからいいんだという話もある。大桃の舞台は福島県の山中にある。

雪が降るさなかに演じる山形県酒田市の黒森歌舞伎
(舞台や衣装、道具の写真は白檮山誠さん提供)

歌舞伎座や浅草公会堂などで公演される大芝居と地域でやっている歌舞伎はジャンルが違ってきているが、地芝居は根強く各地域にある。地域の人たちが楽しんで上演している。京都には舟屋台歌舞伎があり、福島県南会津町には屋台歌舞伎がある。似たものが秩父の夜祭でも見られる。各地域で楽しんでいる地芝居は、歌舞伎座の大歌舞伎を目指していない。地域の人たちに喜んでもらう、自分たちの歌舞伎をやっているというこだわりがある。

古風な民家風建物で公演する香川県小豆郡土庄町の肥土農村歌舞伎

平成23年(2011)の全国地芝居分布図には愛知県に22あって、岐阜県も多い。全国に195団体がある。東京はどうなのか。中央区の2つのほか、江東区、文京区にもあり、調布市には子供の教育のために新しくできた歌舞伎がある。昔からやっている農村歌舞伎は、あきる野市にある2つだけ。

娯楽から神事へ形を変えて

歌舞伎は、どこで始まったか。出雲国(現島根県)です。慶長8年(1603)歌舞伎の「き」が女偏の「妓」だった。今では女性はやらないが、阿国(おくに)といわれ、昔は女性のものだった。そして京の四条河原で始めた歌舞伎がヒットして京都に広まった。さらに大坂へ、そして江戸まで広まった。つまり歌舞伎は、都市から始まっている都市歌舞伎が地域に降り来るというのが歌舞伎の流れです。

寛文7年(1667)に今の栃木県那須烏山市の八雲神社で踊り狂言が行われた。日本郷土芸能協会で、これを地芝居が始まりとして良いのではないかという意見もあった。何が違うかというと、出雲と八雲神社での上演には60年余りの違いがある。都市の役者が地方に来て歌舞伎を演じた例がたくさんある。農村歌舞伎というのは地域の人たちが地元で演じるもの。だから中央の役者が地方に来て公演しても地芝居とは言わない。60年後にようやく地方の人たちが自分たちの歌舞伎をやるようになった。

ところが、地域の人たちが米を作らず、歌舞伎ばかりしてはいけないと幕府が芝居・相撲を禁止するお達しを元禄6年(1693)に出した。武州の成願寺の記録にある。ただし、祭礼は例外。しょっちゅう芝居や相撲を楽しんではダメだが、お祭りは良いということでしょう。奉納芝居、奉納相撲。皆さんも聞いたことがありますね。こうしたことから地芝居は、祭礼の奉納として神事信仰、神道と結びついた奉納歌舞伎として、一方では都市歌舞伎の娯楽性がある芸能として発展した。

小芝居にこそ昔の型が残る

もう1つ。幕府は江戸時代に神社で行うのは良いというほかに、実際に市村座、森田座、中村座に興行を許可していた。すると馬の脚など脇役しかできない人たちが俺たちも拍手をもらいたいという人たちが三座以外のところで芝居をするようになった。それが安くて庶民に受けるので禁止できなくなり、神社の中でやって良いということに繋がっていった。年に100日やって良いから「百日歌舞伎」ともいった。

ただ、引き幕は使ってはいけないということで布切れを垂らし、上げ下げしてやった。それが後に緞帳歌舞伎になった。昔、百日歌舞伎や緞帳歌舞伎は蔑まれていた。花道も作ってはいけないなどかなり制約があった。これを小芝居といった。一方の森田座や中村座、市村座とかの大芝居、あるいはいまの松竹大歌舞伎の流れを汲んで大歌舞伎と言っている。市村座と森田座が今はないので全部、松竹が統一した大歌舞伎です。

そこで、小芝居の役者が地域に流れて来た。秋川歌舞伎も関東大震災で東京市街地からあきる野市に疎開してきた市川桃十郎が芝居を教えてくれて、ここに生まれた。その流れもいま背負っている。そうすると松竹は、かなり洗練した方に統一したので昔ほど、くどい芝居がなく、地方にこそ昔ながらのアクが強い方が残っているという希少価値がある。亡くなった第12代市川團十郎さんが岐阜・東濃歌舞伎の地唄舞伎専門であり、歌舞伎の振付師・俳優でもある松本団升(だんしょう)さんに型を教えてもらいに来たという話もあります。まだまだ地域には昔ながらの型を残した地芝居が多い。

「知らざあ言って聞かせやしょう」の名台詞が人気の「白浪五人男」。
格好良さを極めた盗賊たちの勢揃いの場面が見もの

プロ化した役者も道具を手作り

明治時代には役者鑑札の制度ができた。役者を名目に全国を興行しながら悪いことをする人が出てきて、それを監視するために役者に税金を納めさせた。公演期間に多い人で1両、今の8〜10万円。半端な役者は暮らしが立たず、素人が好きにやっていたのがプロ化してくる。そのプロ化した歌舞伎を我々がやっている。

太平洋戦争で若い役者さんたちが亡くなったという背景もあり、テレビや娯楽が多様化して歌舞伎を観たい人が減っていた昭和30年代にはほぼ活動ができなくなった。秋川歌舞伎も昭和36年(1964)か、37年に公演をしたのが最後だった。ところが40年代になると回帰意識が高まったが、少子化、過疎化、そしてお金がないという時代になった。鬘1個30〜40万円するから子供の頭に合わない鬘をつけていると頭が痛いから鬘を大きくしてほしいと言われても『鬘に頭を合わせるの』というしかない。頭が痛いと吐き気がするから可哀想だが、そんな現実でした。松竹の場合は、鬘をバラして役者に合わせる。それぞれの役者に鬘合わせをする。衣装もそうです。糸を解いて縫い直す。うちの一座は、そんなことができない。

規制厳しく常設舞台持てず

何が言いたいかというと、先ほどいったように芝居小屋がいっぱいあった。藁葺き、茅葺きの民家の庭先なども使っていた。その舞台を一時的に解体すれば跡形もない。あきる野に東京都の民俗文化財になっている菅生の組立舞台があるが、全ての丸太を縄で組んでいて、芝居が終わって縄を解けば丸太になってしまう。曳山(ひきやま)も倉庫に仕舞える。

いま私が思うには、組立舞台を作ったということは観客から拍手をいただく役者ながら遠慮があったのでないか。当時、でっかい常設小屋を建てて歌舞伎興行をやることは許されていなかったんだろうな。小芝居にある緞帳歌舞伎や百日歌舞伎も小屋の常設はいけないということで、小屋掛けをして興行しなさいという制約があった。立派な常設小屋は造らなかった。うるさくなくなった大正初期にあきる野市に有楽館という2階建ての立派な小屋ができた。時世を表す小屋だったんだなと感じている。

いまも小芝居の型を守る

(会場のスクリーンを指さして)これは古谷エツさんの写真です。説経節を弾き語っている。古屋一座というのは車人形としての届出もしていた。説経節は、お経に節をつけて語るわけで、義太夫よりも前の古浄瑠璃。昔は言葉だけで唱えていたものを中国から沖縄に三線が伝わり、三線が江戸時代に本州に入って三味線になったといわれる。三味線を伴奏していろんな芸能が発展したのだろう。その中に義太夫がある。

古谷エツ

演目は、すべて無本で弾き語った。
寛永元年(1624)に興された家に生まれ、神楽、人形遣い、地芝居の民俗芸能を継ぐ家柄だった。車人形遣いの古谷紋蔵(初代尾上紋昇)を婿とした(「東京都指定無形民俗文化財 秋川歌舞伎」から)

我々は栗沢一座の3代目座長だった栗沢和夫さんに教えてもらっていた。平成4年(1992)にはご存命でした。教えてもらった演目が3つある。「絵本太功記 二段目」と「十段目」、「義経千本桜 鳥居前の場」。この3つは、昔からの小芝居の型をそのまま受け継いだもの。それ以降、我々が独自に立ち上げてきたものがあるが、師匠がいない中での苦労があった。農村歌舞伎としての独特の型を教えてもらえる人がいない状況が各地域にある。秋川子供歌舞伎発足の時は、栗沢さんに復活のために教えていただいた。

手に汗握る
「絵本太功記 二段目 本能寺の場」
「義経千本桜 二段目 伏見稲荷鳥居前の場」

親子や女型の名優も揃っていた

あきる野には古谷一座と栗沢一座しかないイメージがあるが、それ以外にも役者がいる。「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」の熊谷次郎直実、平敦盛を親子で演じた岡部恒三郎・岡部利一さん、この写真は関三鶴さん。関菊三郎と名乗っていた。関菊三郎の女方は立った姿が綺麗でした。三大女形に挙げられている八重垣姫、勝頼の許嫁ですね。その隣は、唐沢一助さんで「三番叟」を踊っている。この方も最初、秋川歌舞伎で活動されていた。名優がたくさんいらっしゃって秋川歌舞伎が全盛期だった。

川止めの地で花咲いた音曲

なぜ、あきる野市、しかも二宮地区だったのか。菅生一座も二宮が拠点。多摩川にほぼ面しており、すぐ北に平井川と多摩川があり、ちょっと南へ行くと秋川が流れている。いま、あちこちに橋が架かっているが、当時は渡し場があった。だから雨の時は、渡し舟が止まってしまい、水が引くまで待つしかなかった。宿が必要で旅籠ができ、お酒が出れば芸者が必要になってきますかね。音曲や芸が発達する。大きな料亭が多かった。かなりの歓楽街で西多摩地区の中では音曲の中心地だったのではないか。そういう中で古谷一座、栗沢一座があって、神楽が発達し、車人形が栄えた。

今、二宮には車人形がない。奥多摩町に車人形があるのは古谷一座が奥多摩のお祭りで車人形を演じに行き、お祭りで興行したらしい。そこで一座の人が大負けして人形を全部取られたという噂がまことしやかに語られている。

舞台史料、いまも発見される

あきる野市五日市に山田地区がある。ここに昔から丸太で組んだ舞台があった。組むのが大変なので放棄されて最終的に風呂の薪にした。平成24年(2012)には天神社の倉庫から舞台に使われていた背景幕18枚が発見された。襖の下張りになっていた。その下張に明治26年(1893)11月の芝居諸掛が出てきたと記してあった。そこには周辺の村へ舞台の大道具を貸したお礼の金額が書かれていた。きょう、最初に話した秋川歌舞伎の始まりと思われる明治30年説と合致しないことから発祥年代は、いまも定かでないのが実情。こういう資料がいまも出てくるのが面白い。

転入組があきる野座復活の核に

歌舞伎は役者だけがいても上演できないので舞台のお話をしましょう。東京都の有形民俗文化財に指定されている菅生の組立舞台は全部、縄で丸太を組んでいる。今はクレーン車で持ち上げるが、昔は大変だったろうな。横幅8間(14.40m)の舞台だから。

開演を待つ葭簀をかけた「菅生の組立舞台」

二宮の歌舞伎は、平成5年(1993)に多摩東京移管100周年記念イベントを昭和記念公園で行われた。あきる野の歌舞伎を復活させようと募集したのが始まりで、小中学校が土曜日休みになったのを有効活用しようということもあって、歌舞伎を子供に習わせる子供歌舞伎が結成された。紆余曲折あり、平成27年(2015)には全国地芝居サミットinあきる野を開催した。

あきる野市立東阿伎留小学校で行われたワークショップは、
見る方も演じる方も興味津々でドキドキ、ハラハラの連続だった

秋川子供歌舞伎が誕生したのは平成4年10月25日。子供たちは何をやるかわからないで舞台に上がっているんでしょうけど、妻がその会場に長男と次男を連れて行った。この時、私は会社人間で見向きもしなかった。多くの子供たちは歌舞伎をやりたいと手を挙げるわけがないので、おそらくお母さんたちのネットワークで話が出たのではないかと思う。そこに集まった子供たちは、ほとんどがあきる野出身ではなく、よそから入ってきた。私もそうです。意外と地元の芸能を地元の人はあまり評価をしない。外から来た人が何とか残そうと活動している。

演しものに工夫、心情伝える

その後、この子たちは稽古をして晴れ舞台を踏んだ。それが多摩東京移管100周年のイベント。演じたのは「絵本太功記 二段目 本能寺の場」と「十段目 尼ヶ崎閑居の場」。「絵本太功記」は織田信長が本能寺で殺された1日を一段として全十二段にまとめた物語。十段目がすごい人気だが、二段目はあまり人気がない。大歌舞伎では九段まで飛ばして十段目を演じるが、多くの人は内容がわかり辛いと思う。だから歌舞伎の敷居が高くなったのではないか。

なぜこの場があるのか。私たちは「端場物」というのをやって説明しながら上演するように心がけている。二段目は大歌舞伎ではまずやらない。1回だけ見たことがあるが、全然内容が違う。狭い劇場で、しかも小芝居でやった工夫がなされているから秋川歌舞伎しかやらないといえば言い過ぎだと思うが、ほぼそれに近く、我々の看板で希少演目として売りにしている。

地芝居ならではの趣向凝らす

私たちの主な演目の「義経千本桜 伏見稲荷鳥居前の場」では義経が頭巾を被っている。本来、義経役は頭巾を被っていない。上演の時に義経役の子は病気で、薬の副作用で髪の毛がほとんど抜けた状態だった。医者に頭を傷つけたらいけないから鬘をつけさせないでくれと言われた。それで頭巾を被ることにした。先だってこの子に会って元気になった姿を見て嬉しくなった。きっと歌舞伎をやっていたから元気になったんだと勝手に思っている。こうして子供たちからパワーを与えられたら、やっている甲斐がある。

「義経千本桜 二段目 本能寺の場」で迫真の演技を見せる役者たち

義太夫の迫真魅せて歌舞伎好き戻る

私たちは栗沢先生に教えていただいた型を崩さないでやっている。いろいろな作品も立ち上げている。「菅原伝授手習鏡 寺子屋の場」もそうです。

話は変わるが、昔、歌舞伎に義太夫はなかった。人形浄瑠璃が出てきて歌舞伎のお客さんが人形浄瑠璃に行ってしまった。このままではまずいと人形浄瑠璃を取り入れたらヒットした。以来、演目に義太夫を取り入れている。

マメ俳優たちの視線が一点に集まる「菅原伝授手習鑑 寺子屋の場」

義太夫がある演目と、ない演目が歌舞伎にある。それにはわけがある。義太夫狂言という文楽から持ってきたものが歌舞伎にある。三大義太夫狂言というのがあって、1つは「仮名手本忠臣蔵」。赤穂浪士の討ち入りを模した物語で松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に斬られた刃傷事件に内匠頭の家来だった大石内蔵助ら47人が主君の仇討ちに吉良邸に討ち入りして人情を結実させる有名な物語。また「菅原伝授手習鑑」は菅原道真公が太宰府に流された後、彼の子供を守るというお芝居です。

3つ目が「義経千本桜」。その中にある「初音の鼓」で狐のお父さんとお母さんが鼓の革にされて、その鼓をポンポンと鳴らすと子狐が出てくる。狐に親子の情愛があるのに、なぜ義経は親兄弟から冷たくされてしまうのかという悲哀を描いた物語です。

地歌舞伎に奈落や回り舞台も

私たちは各地で公演してきた。長野県東御町(現東御市)の西宮歌舞伎の舞台も踏んだ。諏訪大社の末社、祢津日吉神社で7年に1回、諏訪の御柱が出る年に歌舞伎を上演する。ここには役者がもういないので出演依頼が来た。奈落や回り舞台もある。これが農村歌舞伎らしいところ。

八王子の「伝承の玉手箱」では駅前から横山町公園まで人力車でおねりをして、「三人吉三巴白浪」を上演した。義太夫はありません。舞台掛けするのが結構大変だが、今年も9月28、29日にやります。

「三人吉三巴白浪 大川端の場」もあきる野座の人気作品の一つ

舞台道具手作りして出費抑える

伝承するのに何が大変か、一口で言えば、お金です。どうやって稼ぐか。利益団体ではないので、余興として出演依頼はお断りしている。公共事業の依頼はできるだけお受けしている。私たちは会費で運営しており、1家族年間2千円、子供を多く入れると割安感が出るように。実際1人が入ると兄弟が入ってくれる。従って年会費の収入は年間6万円程度で必要経費を賄うには不足している。

背景幕の松羽目を描く白檮山さん

そういう中で舞台道具は自分たちで作っている。平成4年に復活した時は東京都がお金を出してくれた。鬘も買って、衣装も作ってもらった。だが、子供は大きくなるので、小学4・5年で作った衣装が中学生になると着られなくなる。お母さんたちが針と糸を持って集まって延ばしたり縮めたり。帯は他の布ではいでもわからない。女物の着物のようにおはしょりでは誤魔化せない。歌舞伎は切れ流しで着丈ですから。どうしても帯の中に丸め込むとかして苦労の連続。

手作り衣装の繕いも保存会会員の
大事な作業
役者が乗れる頑丈な駕籠も手作り

ある時、菅生の舞台を借りてやっていたら、舞台が回らないことがあった。裏で回す人が寝てしまっていて急遽、お父さんたちがノコギリを持って集まってくれたことがあった。子供歌舞伎で始まったからお父さん、お母さんが集まってくれる。子供歌舞伎は中学生までなので、常に子供を補充していかないと続けられない。役者をつなげることも大変です。

回り舞台用に道具作り替える

大歌舞伎の大道具さんが作るものに比べたらチャチな絵かもしれません。頼んだら何十万円もかかる。私たちは一生懸命作った結果、下手でもしょうがないねと。「仮名手本忠臣蔵」の祇園一力茶屋をやる時に、この舞台は「絵本太功記」で始まっていますから壁が全部灰色で、祇園の茶屋の場面は京壁に直している。この広い面積を塗るのが大変だから、同じ色の布を買ってきて描き込んでいる。階段を黒だったのを綺麗にしなくちゃと被せて作っている。

一力茶屋の華やかな茶屋場のほか、松羽目も描いている。こんな現実も知って欲しい。なぜ、こんなことをしているかというと、この秋11月3日に川崎市立日本民家園に船越の舞台という三重県から移築した漁村歌舞伎の舞台での公演を頼まれている。この舞台は回り舞台から、落としっていう施設やすっぽん、雪を降らせる葡萄棚の仕様も全部揃っている、立派な舞台です。川崎市制100年を記念するイベントとして回り舞台の器具をできるだけ使ってほしいという依頼も受けているから、舞台が回る寸法に手持ちの道具が乗らないとダメ。普段使っているキララホールの舞台は10m以上あるが、船越の舞台はそれよりも小さい円盤だからはみ出してしまう。舞台や装置に合わせて幕も折り込もうかなと思案中。

松が奥にあって、前が簀の子塀。物語には門前で進物の場があり、吉良上野介に桃井若狭助の家来が進物をする。ところが進物をしないから塩谷判官がいじめられる。門前の設えがぐるっと回って松が背景に広がる場面に転換する、その絵も描いている。布と絵の具代含めて3万円くらいかな(笑)。

筋道分かり、ご当地色も盛る

有名なスポンサーが付いている子供歌舞伎だと、大道具や鬘、衣装、化粧に至るまで全部松竹に頼んでいる。鬘合わせもする。地芝居、農村歌舞伎と何が違うかというと、例えば、夕顔棚の場、絵本太功記、尼ヶ崎閑居の場の前に演じる端場物は、文楽ではやるが、歌舞伎座ではあまりやらない。明智光秀の母皐月が身を隠す尼ヶ崎の閑居を訪ねて妙見講を祀る。この場面で私たちは皐月がなぜ尼ヶ崎に来てしまったのかと説明している。尼ヶ崎の場で羽柴秀吉が坊さんの格好をしていきなり出てくるの一般的だが、意味が分からない。私たちは、羽柴秀吉が坊さん姿で訪ねてくるところから演じるのでわかりやすくする工夫をしている。

進物の場では、進物をしたから助かったよと、わかっていただけるようにおもしろおかしくやっている。ここにご当地色を入れるのが良いところで、殿様を恨んで斬りに来るやつを中間にバッサリとやれと指示も出す。バッサリとやるのも良いが、うまくできたらご褒美として「秋川名物ダンベイ汁はどうか? ダンベイ汁もいいが、できれば秋川牛のすき焼きが食いたい」と一生懸命ご当地を宣伝するのも地芝居の良さ。伝承してくれた型をそのままやるのは良いが、我々がやろうとしていることに手本がないから、地芝居らしさを出すこと、お金でない部分の苦労もある。

小芝居だからこそ見栄え良く

本能寺の最後の場面で、見得の切り方にも工夫しており、小芝居でしかやらないような狭いところで見栄え良くパッと捲ると絵が出るようにしている。こちらは僧儀坊というのを子供がやる。本能寺から信長の孫の三法師丸を背負って逃げる設定だが、どの歴史を見てもこの役柄は立派な大人がやるはずだが、役者がいないから栗沢さんは子供を出したんだと思う。

子供は飛び跳ねるトンボが切れないから、でんぐり返しをしたら受けて、それが伝統になった。栗沢さんから伝承された他にも独自演目がある。

100人総がかりで一座盛り立てる

私たちの一座には今、子供(中学生以下)23人、女性26人、男性39人。年代別にはそれなりにつながっている。歌舞伎は大道具を作る人が必要ですし、化粧と着付と役者がいればできるわけではない。床山も必要。義太夫も必要。御簾(みす)で三味線を弾く人、絵を描く人、大道具が高齢者5〜6人しかいないので舞台が作れないという状況が目の前にきている。

もう1つ強調したいのは、地域を作っているという実感が最近ある。先日、復活30周年記念パーティーを開いた。成人した歴代の子供歌舞伎の人たちがステージに並んだ時に「俺って、結構すごいことをやってきた」と思った。その子たちが今は、歌舞伎をしていないが、それぞれの地域で未だに歌舞伎に気持ちを注いでくれているから集まってくれたんだと思った。

サッカーや野球も大事だけど、横並びの年齢の仲間だけでなく、年上の監督やコーチがいるように歌舞伎を含めた郷土芸能にはお年寄りにすごく居場所がある。次の世代にモノを教えていく。年代別に繋がっている縦の糸と、在籍する学校に違いがあっても同じ世代の子供たちの横糸が折り合って、そこでできた交流が地域を作っていると思う。

農村歌舞伎で地域再構築できる実感

あきる野にしか農村歌舞伎が残っていないということは、特有の風土・人情もあったと思う。そういうものが次の世代に引き継がれていく。年代を超えて子供たちと縦横につながっていく。そういう連携が今後も取れていったら、地域のコミュニケーションはもう1回作り直せる。お祭りの芸能を客席から見たという思い出も大事だが、舞台に立ったという思い出もその子の一生の宝物として心に残る。大人になったらどこへ行くか、海外へ行くかもわからない。でも、いつでも地元のお祭りの風景が瞼の裏に思い浮かぶなら、あきる野市をいつまでも心の拠り所として大切にして強く生きてくれることを期待している。私は歌舞伎が好きで、義太夫が好きで構わず生きてきたが、そのことがもしかしたら、自分を地域の良い方向に役立てていかれたとしたら、やってきて良かったとつくづく思っている。


◆ この秋のあきる野座の公演予定

催  し      演  目
秋季例大祭
9月9日19時
二宮神社境内(JR五日市線東秋留駅北口徒歩5分)
無料
「白浪五人男稲瀬川勢揃いの場」(東秋留小学校歌舞伎クラブ)、
「絵本太功記 十段目 尼ヶ崎閑居の場」(あきる野座子供歌舞伎)
あきる野市民文化祭&東京都文化財ウィーク2024参加公演
10月6日13時半
秋川キララホール(JR五日市線秋川駅北口徒歩5分)
無料
「仮名手本忠臣蔵 三段目 足利館門前進物の場」
「同 松の間刃傷の場」(あきる野座大人歌舞伎)
「絵本太功記 十段目 尼ヶ崎閑居の場」(あきる野座子供歌舞伎)
川崎市制100周年記念
11月3日時間未定
川崎市立日本民家園 船越の舞台(小田急線向ヶ丘遊園駅南口徒歩15分)
有料
口上
「雛鶴三番叟」
「仮名手本忠臣蔵 三段目 足利館門前進物の場」
「同 松の間刃傷の場」(あきる野座大人歌舞伎)