「第50回多摩めぐり 作家吉村昭の書斎を訪ね、あわせて多摩地域の東端エリアを散策する」を12月21日(日)に開催します

第22回多摩めぐり 在原業平伝説~平安貴公子を武蔵野に追い、落合川、野火止用水を歩いて平林寺へ

趣ある史跡公園内の平林寺堀を歩く(新座市本多で)

ガイド:味藤 圭司さん

なコース

西武池袋線ひばりヶ丘駅 → 自由学園 → たての緑地 → 笠懸の松 → 南沢緑地 → 南沢氷川神社 → 多門寺 笠懸の松切り株・笠懸の松2代目 → 落合川 → 浄牧院 =(バス)= 東久留米団地 =(バス)= 野火止用水 → 史跡公園・平林寺堀 → 平林寺 松平伊豆守信綱墓所・野火止塚・業平塚

小野小町らとともに古今和歌集に名を連ねる六歌仙の一人で平安時代の色男として知られる在原業平が野火止台地に暮らし、草むらに京の都から呼び寄せた姫と逃げ込んだり、一服休憩で松の枝に笠を懸けたりしたとされる伝説がある東久留米市や江戸時代に入って、玉川上水開削の総奉行だった松平伊豆守信綱の功績で引水された野火止用水と信綱の菩提寺・平林寺(埼玉県新座市)を訪ねた。秋の色濃い11月20日だった。テーマは「在原業平伝説~平安貴公子を武蔵野に追い、落合川、野火止用水を歩いて平林寺へ」。味藤圭司さんの案内で18人が歩いた。

この日のコースは、いまの多摩地域の原型となった武蔵国の歴史の一端を目にし、それぞれを大枠で時代を繋ぐことになった。律令制度が確立した後、武蔵国は草や雑木が生い茂る野っ原だった8世紀に朝鮮半島から渡来した新羅(しらぎ)人を集めて焼き畑農法などで生産技術を広めつつあったが、水に困窮する地を蘇らせたのが野火止用水であり、流域の開墾・開発を速めた。さらに時代は下り、国威を示す軍需の先端地だったことも今に示す地であり、まさに日本の歴史を凝縮した地を歩いた。

地域のシンボル 自由学園

西東京市の西武池袋線ひばりヶ丘駅から学園通りを西方の東久留米市学園町の住宅街を歩いていて目についたのは松の木。松は多摩各地に点在するが、行く先々で大木が枝をくねらせているのに目を奪われた。

松に目を移しながら歩いていると、一行の足が止まった。自由学園だ。思想家の羽仁もと子と吉一夫妻が大正10年(1921)に豊島区で設立した学園で、東久留米市に移転(昭和9年)して87年になる。東京ドーム1個分の敷地があり、机上の学習だけでは得られない自然や社会の全てを学習の機会とした独自の実践教育を展開している。

奥に広がって校舎がある自由学園。東久留米市学園町のシンボルになっている

校舎は、帝国ホテル(千代田区内幸町)を設計・建築し終えたフランク・ロイド・ライトに依頼したかったが、アメリカに帰国していたため、その考えを継承したライトの愛弟子・遠藤新によるものだ。昭和9年に建設された。中でも木造平屋建て(一部2階建て)の女子部食堂は東京都選定歴史的建造物に指定されており、自由学園を中心とした学園町のシンボルになっている。

戦時の鉄路、いま遊歩道

平坦部の住宅地から緩い下り坂に差し掛かる地点で学園通りと緑道が交差していた。一行の間から「川を埋め立てたか?」「昔の農道か?」と口々に出た。引込線跡を「たての緑地」と名付けて東久留米市が管理している人に優しい道だった。

航空機エンジンの関連資材を運んだ引込線跡の「たての緑道」(東久留米市南沢で)

引込線は、第二次世界大戦中に武蔵野鉄道(現西武池袋線)東久留米駅から中島航空金属田無製造所までの2.45㎞区間を航空機エンジンの関連資材などを運んでいた。戦争の色が濃い場所だが、いま緑道という健やかな空間に変わったことに時代の違いを思い知る。

松に笠懸けて休む業平

庚申塔の松にも業平伝説がある(東久留米市南沢で)

笠松坂通りと南沢通りが分かれる三角地帯の笠松坂交差点にあったのは庚申塔だった。元禄7年(1694)の造立で青面金剛像を主尊に日月、三猿と蓮が彫ってあった。庚申信仰が盛んだった江戸時代には60日ごとの庚申の日の夜に、眠っている人から三尸(さんし)の虫が出てその人の罪を天帝に報告させないために、住民たちはここで寄り集い、寝ずに儀式や宴会をしていたかと思いをめぐらす。

この狭い敷地に立つ一本の松が、この日の本題の在原業平にまつわる木だ。いまある松は樹高5mほどか。何代にもわたって植え継がれてきたものだ。昔も今のように短い坂の上のこの地にあった松の下で旅の途中だった業平が休んで松に笠を懸けたと伝わる。

当時、一帯は、きっと草とカヤと雑木の原っぱだったのだろう。笠を懸けたのは平安時代きってのモテモテの美男だったと伝わる在原業平だという説がある。この松は、いつとはなしに「笠懸の松」と呼ばれるようになった。

野の若草に隠れる業平と姫

業平は、平安時代初期の貴族であり歌人だった。「伊勢物語」の主人公は業平に重なるところがあるとされ、和歌に長けた、平安時代を代表する文化人だった。衆目を集めたのはその美男ぶりだったことも時代を超えて今に伝わる要因だろう。

業平と東久留米のかかわりは、「伊勢物語」で京の都から武蔵国へ東下りした折に業平は京から招いた藤原氏の姫・花鳥と東久留米、野火止に暮らし、『武蔵野は 今日はなき焼きそ 若草の つまもこもれり われもこもれり』と歌われたように、追っ手を避けて逃げ隠れしたと「伊勢物語」の十二段に記す。史実か、物語か、定かではない。

味藤さん
味藤さん

2年前の第15回多摩めぐりのコースづくりで東久留米市の資料をあれこれ調べている際に「在原業平伝説と東久留米」という東久留米市史の一章に遭遇しました。その時はテーマが「東久留米市の水とみどり」でしたので、業平伝説を活かすことはなかったのですが、「いずれ、この伝説をテーマとする多摩めぐりを企画してみたい」との思いをひそかに持ち続けていました。そのプランを実現できたのが今回です。

タイトル通りに、草深い武蔵野の地に現れた平安時代の名だたる歌人・在原業平が織りなす平安朝ロマン漂う伝説をたどって水澄む落合川を下り、伝説の大きな舞台になった野火止では江戸時代に開削された野火止用水をたどり、最後は紅葉に彩られる名刹平林寺へ至り、業平塚で締めくくるコース設定でした。

当日は天気が良く、木々の色づき加減も良く、絶好の条件の下で、文学の話、自然の話、歴史の話など、いろいろなことを確認しながら約9kmを歩いて楽しみました。

同じ「武蔵野」ではあるのですが、コースの後半は「多摩郡」から飛び出して「新座(にいくら・にいざ)郡」に入ったのですが、参加者の多くの皆さんは五感で感じるものに「多摩とはどこか違う」との思いを持たれたようです。これも「多摩を知る」ことになったのかな、と思っているところです。

枯葉踏んで名水に癒される

南沢緑地は、多摩地域の特性のクヌギやコナラ、シラカシなどの樹木に覆われた森で、林内は足下からサクサク、カラカラという音が舞い立つ枯葉の絨毯だった。東久留米市名木百選に選定されたイロハモミジは本格的な紅葉を秒読みしていた。雑木たちは、われら一行の心身を解き放してくれた。

木々が色づく南沢緑地。足元は枯葉のジュータンだった

この緑地は昭和48年(1973)、東久留米市が最初に緑地保護区に指定した後、昭和60年(1985)に東京都が南沢緑地保全地域に指定した。

南沢緑地から湧き出る清流に映えて水底の小石も美しい

緑地の面積は約2万2千㎡。地内4か所から1日約1万tの水が湧き、落合川に注ぐ。ナガエミクリなど水生植物が豊富でオイカワやアブラハヤといった魚類も見られる。東京都選定の「東京の名水57選」の一つであり、環境省が選んだ「平成の名水百選」にも挙げられている。流れる水は、まさに清流だった。

湧水が集まった落合川(南沢の毘沙門橋で)

清流と氷川神社知っていた業平

南沢緑地に接した南氷川神社に立ち寄った。業平は、庚申塔の松に笠を懸けて休んだ時、近くに南氷川神社や湧水地があることを知っていた。江戸時代に残された文書に「……而して氷川大明神之社頭之前、清流は自然に湧き出でて東に流るる也」と記していることから、このあたりの遊水地でのどを潤したのだろうか。

樹勢ある2代目「笠懸の松」

毘沙門橋を渡った先の多門寺の庫裏入口には直径1mほどの太い枯れた松の幹を切った衝立てがあった。新編武蔵風土記稿に記載されている「古松一株」を切ったものであり、初代「笠懸の松」らしい。

伝説の「笠懸の松」を衝立てにして展示していた多門寺

古松一株は元々、多門寺の東方400m地点(多門寺観音堂)にあった。高さ30.6m、目通り4.6m、主幹下部7~8mあり、東側に約20度傾いて、上部で2本の枝が張っていたが、落雷の影響で枯れてしまった。観音堂前には「第二代笠懸の松」と命名されたクロマツが樹勢良く立ち、その根元に枯れた株が残っていた。

2代目の「笠懸の松」と名付けられたクロマツ(多門寺観音堂前で)

業平は、旅の途中で姫の花鳥とこの地で落ち合い、松の根元で一休みしたときに笠を松の枝に懸けたことから「笠懸の松」と呼ぶようになったともいう。笠懸の松は笠松坂の上にもあり、東久留米には業平伝説の地が多い。

水辺散歩が楽しめた落合川。湧き出る水の様子も見られた

湧水が集まった落合川は親水エリアで、一行は川沿いを下った。水の透明度を際立たせていたのが水生植物のナガエミクリで、水の流れに長い葉を預けて揺らぎ、コサギがエサの魚を狙い、カモのファミリーが泳いでいた。

落合川でエサを求めるシラサギ
(落合川で)
流水を泳ぐように揺れていたナガエミクリ
(落合川で)
カモも仲間で固まっていた
(落合川で)
キラキラ輝いていた浄牧院のイチョウ
(東久留米市大門町で)

玉川上水最初の分水 伊豆殿堀

午後に入って、いよいよ野火止用水の姿を見て、川越藩主松平伊豆守信綱に迫る行程になった。移動のバスを降りたところが「史跡公園」(新座市本多)。野火止用水と平林寺堀の分岐点だ。本流の野火止用水(幅約60㎝)より狭い平林寺堀は流水量も少なめで雑木林の中を流れる“小川”だった。

野火止用水の本流(左)から分かれる平林寺堀(新座市本多で)

野火止用水は、小平市小川で玉川上水から取水し、埼玉県志木市本町の「いろは樋」までの約24㎞に渡って流れる。玉川上水への給水から1年後の承応4年(1655)に通水された。その後、100年ほどの間で玉川上水の分水が20本以上開削された中で最初に分水されたのが野火止用水だった。

玉川上水開削の総奉行だった川越藩主老中松平伊豆守信綱が家臣・安松金右衛門らに補佐役を命じて行った工事の行賞として、野火止用水の開削が許可された。野火止用水を別名「伊豆殿堀」と言われる由縁だ。平林寺堀が作られたのは享保13年(1728)というからすでに300年近くになる。流域一帯の新田や開墾につながったことは言うまでもない。

のどかな畑の脇も平林寺堀が続く(新座市本多で)

排水の汚濁乗り越え、再送水へ

野火止用水も玉川上水と同じで戦後になって生活排水が流れ込み、東京都は昭和48年(1973)玉川上水と各分水への通水を取りやめた。その後、玉川上水などの歴史的価値を見直す機運が高まり、野火止用水にも昭和59年(1984)下水処理水を高度処理した水を流すようになった。

東京都は野火止用水とその周辺を昭和49年(1974)に歴史環境保全地域に指定、国も平成15年(2003)に本流を史跡指定した。東京都より30年も前に埼玉県は野火止用水を中心に史跡公園を指定史跡にした。

道路よりも高い平林寺堀

雑木林から出た平林寺堀は、畑のわきを通り、住宅地、工場や倉庫地帯をほぼ直線で通っていた。堀の底が深い地点があれば、並行する車道の高さよりも堀の底の方が高い地点もある。

玉川上水の野火止用水分水口の標高は97m、野火止用水と平林寺堀の分水地点の標高は48m。平林寺境内の末端は42m。開削前の計画段階で末端の送水地点が決まっていただろうが、入水地をどのように編み出したものか。200年近く前の測量技術の高さに目を見張る。土木作業には地元民はじめ、遠方からも加勢に来ただろう。金右衛門らは進展ぶりをどう見ていたか。

住宅や工場街では遊歩道を整備して用水を守っていた(新座市本多で)

堀は、土地の低い所に土を盛って突き固める版築法を取り入れながら、堀の側面を丸太で隙間なく杭を打った「丸太杭土留」して漏水を防いだ。その工法は、いまも見られる。道路をまたぐ部分は水路を切り落として凹型にした「伏せ越し」で造っていることにも感心した。昭和の後期に開通した関越自動車道をまたぐ平林寺堀は、さすがにコンクリート製の水路だった。平林寺堀の全線で変わらないのは堀の脇はほとんどが遊歩道になり、ゴミや落ち葉が少なかったことだ。

信綱、不可分の地とした野火止

行楽シーズン真っただ中だったこの日、平林寺には紅葉を楽しむ人出でにぎわっていた。寺域は約40ha、周辺の雑木林域は約3haある。アカマツの多さに目が行く。どれも自然林でコナラ、クヌギ林、エゴノキ、クマシデ、クリが林立する。埼玉県平野部屈指の鳥類生息地でアカハラ、アオゲラ、ルリビタキなど40種に及ぶ野鳥が繁殖地にしているという。これぞ武蔵の面影かと思わせる景観だ。平林寺堀を寺内にくまなく通し、供養水としている。

境内を通る平林寺堀の「平林寺橋」を渡る
平林寺境内奥へ向かう参加者たち(新座市野火止で)

平林寺は元々、さいたま市岩槻区で永和元年(1375)に創建されたが、寛文2年(1662)67歳で老中在職中に亡くなった信綱の遺命で、翌年、平林寺は、この地に移設された。信綱は、野火止用水開削によって開発した野火止を不可分の地として菩提寺にすることを願っていたのだろう。信綱の祖父・秀綱、実父・久綱、養父・正綱らも祀っている。信綱の死後、子孫が老中に就くことがなかったことから「老中の城」だった川越城に入ることがなく、信綱の孫・輝貞の高崎藩が野火止を領有することを認められて幕末まで野火止は高崎藩が管理していた。

その墓地は広大の一言に尽きる。信綱の家臣で玉川上水や野火止用水開削の補佐役だった安松金右衛門の墓も昭和10年(1935)新宿太宗寺から主君信綱の膝元に移っている。

松平信綱墓所の前で説明を聞く参加者たち

野火で野火止開墾した新羅人

信綱の墓の奥は国の天然記念物に指定されている雑木林で、その一角に野火止塚がある。古くから武蔵野の古歌などに詠まれた野火止塚だ。文明18年(1486)関東に下向した聖護院門跡道興准后(どうこうじゅごう)が紀行文「廻国雑記」で著わしたのは、ここを記したものか。

『……わか草の 妻もこもらぬ 冬されに 聴てもかかるゝ のびとめの塚……』

平林寺内の野火止塚前で集合

塚は、1200年前に渡来した新羅人が農耕の焼き畑の状況を見た丘と言われる。武蔵国多摩郡最後の郡だった地だ。塚は高さ約6mの円形で、別名「平林寺の丘」とか、「九十九塚」とも呼ばれる孤立丘。この地点の標高は約50mで、さらにその上に立って畑地の火勢を見張ったのだろう。当時は、管理できる水もなく天を仰ぐ日々だったか。野火止用水が引かれることを新羅人は夢にも思わなかっただろう。

業平塚も焼き畑の火勢を注視した丘だった(平林寺内で)

いま、境域全体を修行地としている林内の一番奥まった地点に「業平塚」があった。ここも野火止塚と同じ、野火を遮るために築かれたものと「伊勢物語」に記されていると「江戸名所図会」にあると案内板にあった。

野火止台地の一滴の水は、遠い時代の人々が汗水たらした労苦の賜物であることを語り継ごう。

【集合:11月20日(土)午前9時 西武池袋線ひばりヶ丘駅/解散:バス停平林寺 午後3時30分ごろ】