「第43回多摩めぐり 戦争遺跡の浅川地下壕と緑の聖域武蔵野陵墓地をめぐる」を4月21日(日)に開催します

第23回多摩めぐり 山口貯水池(狭山湖)を育んだ 狭山丘陵の恵みと自然保護

狭山丘陵の谷に面した武蔵野の雑木林を代表する林相のトトロの森1号地入口

ガイド:相山誉夫さん、前田けい子さん

主なコース

西武池袋線小手指駅 →(バス)→ クロスケの家 → 三ヶ島八幡神社 → トトロの森50・29号地 → 山口貯水池(狭山湖) → トトロの木 → トトロの森28号地 → 堀口天満天神社 → 緑のトラスト保全第2号地 → トトロの森1号地 → トトロの森3・15・48号地 → 西武球場前駅

多摩めぐりの令和3年、3回目の舞台は、多摩地域の北側に横たわる狭山丘陵。古多摩川に削られることがなかった「緑の孤島」だ。東京都と埼玉県の都県境でもある。訪れた12月18日のテーマは「山口貯水池(狭山湖)を育んだ狭山丘陵の恵みと自然保護」。参加者22人を案内したのは相山誉夫さんと前田けい子さん。冬枯れの本番を待つ緑の孤島の一角である「トトロの森」は、すでに落ち葉に覆われ清々しく、貯水池の湖面は、晴天を映して青かった。白富士と奥多摩連山が奥座敷に見え、都民の飲み水になる原水を守っているように映った。

武蔵野台地の「緑の孤島」

小手指駅前から10分ほど乗ったバス路線は、狭山丘陵の形状を示す前触れだった。幾重にも重なる小さななだらかな丘を登ったり下ったり。丘陵南側の東村山市や東大和市で平坦地が多いのと違う地形だ。

関東山地から流れ出た古多摩川は13万年も前から青梅付近を起点に扇状の武蔵野台地を作った。だが、狭山丘陵は削り取られずに残った。東西約11㎞、南北約4㎞に広がる丘陵は、武蔵野台地よりも40~50m高く、最高地でも標高194m。平地林の趣がある丘陵の北側寄りの柳瀬川、南寄りの宅部川(やけべがわ)がそれぞれ西から東へ流れ、ともに丘陵に浸食谷を作った。旧石器時代も縄文時代も人が暮らすには好立地だった。江戸時代に入り、人々は狭山茶を栽培し、養蚕、紬(村山紬)を興した。

開発の歯止めになった貯水池

ここに開発の眼が注がれたのは大正初期。東京の人口増加に伴う水事情を解消しようと大正5年(1916)に着工して昭和2年(1927)村山貯水池(多摩湖)は完成した。しかし、東京都の人口増加の勢いは止まらなかった。再び開発の眼は狭山丘陵に向けられた。村山貯水池の北に隣接する、三方を尾根に囲まれた柳瀬川の谷筋を新しい貯水池とする計画が進められた。それが山口貯水池だ。工事は昭和2年(1927)~9年にかけて行われた。

戦後になって民間開発のメスが入った。狭山丘陵南の東京都側は、貯水池があることから周辺開発の歯止めになったが、埼玉県側の開発は急ピッチで行われた。遊園地に始まり、ゴルフ場、住宅団地、球場、大学と。

東京都側では昭和43年に野山北公園(武蔵村山市)、八国山緑地指定(東村山市、昭和52年)、東大和公園(東大和市、昭和54年)といった形で地元保護団体の運動もあって行政主導で公園計画や緑地指定に取り組んだ。

市民が先行した保護活動

埼玉県側では昭和59年(1984)に公益財団法人さいたま緑のトラスト協会で「さいたま緑のトラスト基金」を設置して県民による緑を守る運動の推進役となって、県内14ヶ所、723ha(令和2年現在)をボランティアで維持管理に取り組むようになった。平成3年(1991)には「いきものふれあいの里センター」を設け、「ふるさと所沢のみどりを守り育てる条例」も制定した。

埼玉県庁より一歩先んじて狭山丘陵の自然を守ろうと立ち上がったのは狭山丘陵の自然と文化財を考える連絡会議と狭山丘陵を市民の森にする会だ。昭和56年(1981)に「雑木林博物館構想」を取りまとめて活動を開始した。平成2年(1990)に埼玉県野鳥の会(現・埼玉県生態系保護協会)とともにナショナル・トラスト運動「トトロのふるさと基金委員会」(現・公益財団法人トトロのふるさと基金)を設立した。活動拠点は「クロスケの家」(所沢市三ヶ島)だ。

「クロスケの家」の近所に広がるお茶畑の脇を歩く参加者たち

古民家拠点にした活動

「クロスケの家」は、築120年を超える古民家(旧和田家)だ。母屋の庭は農家のイメージを色濃く映すほどに広く、周囲には木々がこんもりと茂っていた。明治10年末から20年代初頭に建築された白壁の土蔵には新作した「トトロの家」の家紋を掲げてシンボルにしている。母屋ではトトロの森のジオラマや木のおもちゃなどを展示しているというが、この日は関係者の会議が行われており、見学できなかった。

木々に囲まれた庭を前にした登録文化財の「クロスケの家」母屋

和田家は長年、入間郡越生で製茶業を営み、昭和30年(1955)にこの地に移築したものだ。母屋とは別棟の平屋を明治後期に蚕室として使っていたが、昭和20年代に茶工場に転用した。3棟は平成25年(2004)国の有形登録文化財になった。

トトロの森は、平成3年(1991)8月に1号地を取得して以来、令和2年(2020)12月までに55号地、総面積9haをボランティアで管理している。そのエリアは、地元所沢市をはじめ、入間市(30号地)、東大和市(40号地、47号地)、東村山市(17号地)にまたがっている。多摩めぐり開催直前には狭山丘陵東端に当たる東村山市多摩湖町の山林所有者から約1238㎡を取得して56号地が誕生した。

400年の境内に村人結ぶ

多摩めぐり参加者は、狭山丘陵の北面に近づいた。ツバキの花がこぼれ落ちた高台の三ヶ島八幡神社は村の鎮守だった。400年前の元和9年(1623)に鶴岡八幡宮(鎌倉市)の分霊を祀って創建した。三ヶ島村内に祀られていた湯殿神社と八雲神社の祠もある。

きれいに掃き清められていた鎮守の三ヶ島八幡神社

その境内にあった「力石」3個を参加者が囲んだ。一番大きい石は44貫匁(約165Kg)。ウエイトリフティングの男子69Kg級スナッチ世界記録(166Kg)に迫る重さだ。次いで36貫匁(約135Kg)、27貫200匁(約102Kg)の石が並ぶ。江戸時代から大正時代ごろまで祭りやお日待ち、道普請を終えた後に村の力自慢たちが競って持ち上げようとしたものだろう。境内に気合を入れる声援と笑いが渦を巻いただろう。村人たちの結びつきを生む石だった。

村人の結束につながっただろう力石(三ヶ島八幡神社で)

緩やかな斜面にトトロの森

神社境内の鳥居前に立つと西側に畑が連なる。南になだらかに下る光景は、のどかな里山を絵に描いた、そのものだった。これも狭山丘陵に暮らす人々が作り出した光景だ。足下で霜柱が光っていた。

狭山丘陵のすそ野に広がる三ヶ島の畑

この坂を下り終えて、狭山湖の北斜面を登り始めた地点が「トトロの森50号地」(三ヶ島1丁目)だった。コナラやアカシデなどの雑木が目に付く。山林面積は1734㎡。取得した平成31年(2019)4月ごろは、ササが一面を覆っていたというが、その様子は、今はなく、管理の苦労が忍ばれる。

ここは車が入れない「どんぐりの小道」入口であり、散策の道として人気があることに加え、緩い斜面に畑が広がる絶景地であることから保全の価値十分だろう。

狭山湖取り囲むトラスト地

「どんぐりの小道」を登り切ったところにある「トトロの森29号地」(三ヶ島1丁目)ではクヌギ、エノキ、ミズキなどの木が多かった。869㎡。平成31年4月に取得した。この奥地の「トトロの森22号地」とともに狭山湖を取り囲む豊かな森が始まる位置に当たり、自然保護の重要なところだとトトロのふるさと基金は捉えている。

山口貯水池を取り囲む位置にあるトトロの森29号地

富士や奥多摩連山映す湖面

「トトロの森29号地」を下ると、そこは狭山湖(所沢市勝楽寺)の東側だった。西に大岳山、三頭山など奥多摩の山々が連なり、南には白富士が青い空の下でスマートに裾を広げていた。そこに一行の目が注がれ、歓声が上がった。湖面のさざ波はあちこちに飛び、風が向きを変えたことを教えてくれる。まるで風と小波が追いかけっこをしているようだ。

富士山が控えていて貯水池の広がりを感じる

狭山湖へ送水しているのは約8.5km西にある多摩川の羽村取水堰(羽村市羽東)と小作取水堰(羽村市羽西)だ。羽村取水堰は昭和2年、多摩湖建設時に築造され、その時に敷設された導水管を狭山湖建設時に分岐して狭山湖へも送水している。昭和52年(1977)に新設された小作取水堰と狭山湖との標高差は約20mあり、2つの取水堰から地下水路で自然流下させている。

狭山湖の満水貯水量は約2065万㎥。隣の多摩湖の130%ほど、奥多摩湖の11%ほどだ。狭山湖の水だけを都民に供給すると、4日しか持たないという。それだけに利根川、荒川、多摩川といった水系にダム14、貯水池5、浄水場11で賄っている東京都の水道事業の規模の大きさを噛みしめる。

湖面に浮かぶ2つの取水塔。右の第1取水塔は東村山浄水場へ、左の第2取水塔は村山下貯水池へ送水している。取水塔と堰堤を結ぶ吊り橋の管理橋は全国唯一

相互送水の網張って機能高める

狭山湖の水は東村山浄水場へ直送される分と、いったん多摩湖に送り込まれて、さらに東村山浄水場へ送られる分がある。これらは主に多摩地域に給水されているが、ほかに荒川水系、利根川水系の施設と各浄水場とも相互互換している。

水をせき止めている堰堤も歩いた。堰堤は心壁式アーチダムといわれ、粘土を突き固めてコンクリートで補強している。堰堤の長さは約690m、堰堤底の幅は280m。

歩ける堰頂の幅は10mと広い。目の前にメットライフドーム(西武球場)、東に目を転じれば、足下に住宅が建ち並び、その先に東村山駅前の高層マンション。東京スカイツリーは爪楊枝のようだった。南には富士山が相変わらず雄大な姿を見せている。

堰堤で解説板に沿って説明を受ける参加者たち。奥に取水塔が見える

空襲に備えて堰堤かさ上げ

冬日に光り輝いて穏やかな湖面だが、戦々恐々とした時代があった。昭和19年(1944)8月、第2次世界大戦の空襲に備えて堰堤に玉石(河原石)を張り詰めてかさ上げして耐弾層を設けた。石の白さが目立つことからコールタールで黒く塗った。堰堤決壊のリスクを下げるために貯水量を落とし柳瀬川へ流した。

いよいよその日が来た。昭和20年4月。6月までに5回、米軍の空爆にさらされた。爆弾は給水塔を狙ってきた。恐れていた堰堤の破壊はなく、乗り切った。

戦時に備えて設けられた耐断層から見つかった堰堤の親柱を囲む参加者たち

7ヶ村水没、282戸移転余儀なく

もう一つ、忘れてはならいことがある。湖面に沈んだ村があったことだ。貯水池や関連施設建造のために282戸1720人余りが移転を余儀なくされた。そのエリアは埼玉県の山口、宮寺、元狭山、吾妻村、東京市側では石畑(瑞穂町)、村山(武蔵村山市)、東村山村(東村山市)。対象地域は7ヶ村で750haに及ぶ。山林や畑が多かった。190戸が農業(主に水田)で、織物業(紬)がそれに続く。時は折しも昭和恐慌の真っただ中で、地主会を結成して買収価格の引き上げを訴えた中、脱落者も出たという。いち早く買収に応じて貯水池工事に携わり収入を得たいとう向きもあった。

移転先も居住地周辺や大和村(東大和市)、立川村(立川市)、殿ヶ谷村・箱根ヶ崎村(瑞穂町)、小平村(小平市)、小宮村(八王子市)など21ヶ所と多い。中には八街町(千葉県八街市)や川崎市など遠方へ移った。

相山さん
相山さん

明治から大正期にかけて膨張する首都東京の水がめを確保するために狭山丘陵の地形を活用して多摩川から水を引き、村山貯水池(多摩湖)(昭和2年竣工)に続いて山口貯水池(狭山湖)(昭和9年竣工)が建設されました。
しかし、狭山丘陵では山口貯水池完成後、貯水池を観光目的としたレジャー施設に加えてゴルフ場、住宅団地などが造成され、丘陵の環境汚染が進みます。そこで、立ち上がったのが2つの公益財団法人「トトロのふるさと基金」と「さいたま緑のトラスト協会」です。2つの団体はともにナショナル・トラスト(寄付を募り森を買い取る)の手法を用いて自然環境の保護や整備を行っています。活動は多数のボランティアによって支えられています。
「トトロのふるさと基金」が保護する森については、今回、トトロの森1号地をはじめ数か所の森を訪問しました。「さいたま緑のトラスト協会」は狭山丘陵に加えて埼玉県内に十数か所の保全地を有していますが、今回、唯一狭山丘陵に所在する緑のトラスト保全第2号地を訪れました。広い森の中の遊歩道、散策を楽しんでいただけたでしょうか。
東京の水がめ確保に始まり、丘陵の自然保護活動へとつながる変遷とドラマを狭山丘陵にみることができるような気がします。

剪定した木のトトロにほっこり

一行の気持ちを和ませたのは民家の庭先でニカッと笑っている「トトロの木」(所沢市上山口)だ。背丈3mほどもあるキンモクセイをトトロの姿に剪定して、クリクリの円い眼をつけ、口を大きく開けてにこやかにほほ笑んでいるように手入れしている。

参加者の男性が言うには「キンモクセイは成長が早いからしょっちゅう手を入れないと姿が変わりやすい。作り手の気合いの入れ方が伝わる」。庭を掃除していた家の主は「皆さんが楽しんでもらえれば、私はうれしいよ」とほほ笑んでいた。やっぱり、トトロは人と人を結ぶ名人だ。

キンモクセイを生かしたトトロの木

堆肥作った落葉広葉樹林

トトロの木の目の前に池があった。狭山丘陵から湧き出た清水が溜まったものだろう。地形が見せる小さな光景にも狭山丘陵の特徴の一つを見た気がした。路地脇の民家の庭では咲き始めたロウバイが太陽を透かしていた。

所沢市上山口長久保の集落を抜けて急坂を登った先は「トトロの森28号地」(上山口長久保)だった。狭山湖の東側に当たる。平成26年(2014)12月に取得した1058㎡の雑木林は、管理が行き届いて林床がすっきりしていた。

アオハダ、コナラを主体にリョウブなどの落葉広葉樹を中心にした明るい森づくりを進めている。ヒノキを間伐しながらヒノキ林の形態を維持し、狭山丘陵では珍しいブナや希少植物も育成しているそうだ。

古くから落ち葉掃きされていたトトロの森28号地で記念の一枚

この森は尾根筋にあり、元は堆肥を作るために長く落ち葉掃きをしていた。だから今も昔ながらの雑木林の姿が見られるのか。生きものの生息環境も整っているのだろう。保全の価値が高い山林だという。日差しを浴びた枯葉の下深くに手を差し入れてみたら、腐葉土がやわらかで温もりを感じた。

トラスト地に囲まれる神社

28号地の向かいが堀口天満天神社(上山口長久保)だ。狭山湖造成によって西側半分が湖底に沈んだ。残った土地に人家などが建つことから同神社は現在地に遷座した。同時に、明治時代に廃仏毀釈令で清照寺境内にあった火消稲荷社と八坂神社もここに移した。

貯水池建設で移ってきた堀口天満天神社
左の狛犬
優しい顔の狛犬。拝殿に向かって右の狛犬

茶畑あり、多い生き物たち

同神社と並んでいるのが「緑のトラスト保全第2号地」(上山口雑魚入)だ。「さいたま緑のトラスト協会」が平成6年(1994)に取得した6.4haの雑木林で、コナラやクヌギが主体だ。神社前の斜面に延びる茶畑や遊水地も同協会が管理して多様な森の要素を見せていた。

遊水地では例年、アズマヒキガエルやヤマガエルが産卵し、湿地ではヨシやイグサ、ガマといった湿生植物が自生している。

見通しが効く「緑のトラスト保全第2号地」の林を歩く参加者の列

武蔵野の代表的な雑木林

緑のトラスト第2号地に隣接してトトロの森が8ヶ所連続している。そのうちの1号地(上山口雑魚入)まで、足に優しい林間路を歩いた。トトロのふるさと基金が平成3年(1991)8月、初めて取得した森だ。1183㎡。その後の大規模な保全実現のきっかけとなって「はじまりの森」と言われる。

樹間から太陽が差して森が浮き立つトトロの森1号地

コナラ、クヌギ、ゴンズリ、リョウブ、アオハダ、ヤマツツジ、シラカシ、エゴノキなど豊富な樹種がある森だ。武蔵野の雑木林を代表する樹木がほぼ揃っている。急な斜面には太いスギなどが生育しており、しかも樹間が空いて落ち着いた雰囲気を醸し出していた。林床にはカントウアオイが濃い緑の葉を広げていた。葉には白い斑紋があり、花は終わったばかりのようだ。

階段を登ると、尾根上の林に日が差し込んでいた。その日差しは、すっくと立つ幹の影を下草に写して、森の温もりと林の立体感を演出していた。取得当時は背丈2mもあるアズマネザサに覆われていたそうだが、いまはボランティアの活躍で当時を想像すらできない。

竹林も保全して混交林へ

1号地を離れ、なだらかな斜面を下り始めると、再び緑のトラスト保全第2号地の湿地特有のエリアに入った。池があり、アシがある。木道も据えられてちょっと気分転換した。

緑のトラスト保全第2号地の木道を歩く参加者。雨季に生き物たちを見たい

湿地のはす向かいが「トトロの森3号地」(上山口チカタ)。きょうの最終エリアだ。平成10年(1998)5月に取得した1252㎡の森はコナラやヒノキが主体になった林だ。枯れたアカマツなどを伐採した効果か、明るさを取り戻したという。

15号地が隣接している。1248㎡の土地は平成23年(2011)6月、所有者から無償提供を受けた。トトロのふるさと基金が財団法人に移行した後の最初のトラスト地だ。それ以前は、チカタの景観を考える会が管理していたことから豊かな里山の景観が保たれていたそうだ。

3号地、15号地、48号地が隣接しているトトロの森の縁は無風に加え、
温かい日差しがいっぱいだった

さらに48号地が続いている。ここも地権者から平成30年(2018)3月に無償提供された森で面積は583㎡。針葉樹を可能な限り残し、一部の竹林を保全して混交林を形成するようにしているという。

前田さん
前田さん

今年最後の多摩めぐり、心配していた寒さもさほどでなく、元気に歩くことができて幸いでした。
三ヶ島八幡神社の力石のところで村の行事だったお日待ち講に触れましたが、故郷の行事にあきわ講(記憶の中で、あきわ講ですが、秋葉講かと思われます)があり、子どもの頃、昼ご飯に近所の家に呼ばれて行き、楽しく過ごしたことを懐かしく思い出しました。
「トトロの木」では庭にいらしたご主人にお話しを聞くことができ、出会いに感謝しました。
堀口天満天神社では何といっても、住み慣れた故郷が湖底に沈むことになった人たちの気持ちはいかばかりであったか、感慨深いものがありました。
最後のトトロの森3・15・48号地では雑木林を管理し、かつては人々の暮らしと共にあった里山の景観が長く保たれることを願いました。
冬の湖と富士山、落ち葉を踏みしめての雑木林、この季節ながらの楽しい多摩めぐりでした。

森を永続させることは、東京近郊にあっては相当難しい。相続で転売される中で、「トトロのふるさと基金」や「さいたま緑のトラスト協会」に提供される森の価値のなんと高いことか。豊かな自然を守る裏には資金とボランティアの活躍なくして成り立たないことを森は改めて教えてくれた。

【集合:12月18日(土)午前9時30分 西武池袋線小手指駅/解散:西武球場前駅 午後2時30分ごろ】