65歳の男性参加者は言った。「玉川上水は、坂が連続している多摩丘陵と違って、見た目にまっ平だから歩くのに何の苦もないね」。玉川上水は、開削されて365年。当時は電気など動力がなく自然流下方式で水を流す以外に手がなかった。それだけに武蔵野台地の地形と地質を読み取って、台地の高地を開削することで可能にした。それは人力で開削し、最大限の技術に裏打ちされたものだった。玉川上水は、いまも上流域では東京都民の19%を供給している現役だ。下流には下水の高度処理水が流されている。用水沿いは東京都最大級のグリーンベルトであり、市民の憩いの場になっている。8回目の多摩めぐりでは、その土木・測量の技術を推し量ろうと多摩川から水を取り入れている羽村堰から立川市砂川町まで28人が歩いた(一部、電車利用)。福生市内で深掘りだった上水路は、立川市内では水面が広く感じるほど用水の底が浅かった。
目次
人口急増で慢性的な水不足解消
玉川上水が開削されたのは承応2年(1653)。徳川家康が江戸に開幕して市中が拡大、人口も急増した。それまでの飲料水の水源だった赤坂溜池や小石川上水、井の頭池を水源にしていた神田上水では賄えなくなっていた。さらに「参勤交代」による旗本御家人や諸大名、その家族らが江戸住まいしたことによって町人階級も住むようになり、市中は慢性的な水不足だった。
玉川上水計画に着手したのは、4代将軍家綱だった。その命を受けた江戸町奉行神尾豊前守元勝は、庄右衛門と清右衛門、いわゆる玉川兄弟を実地調査にあたらせるなどした結果、多摩川の羽村から四谷大木戸までの約43㎞を素掘りで開削することにした。その工期は、諸説あるが、約8ヶ月の急ピッチだった。四谷大木戸から先の城内や市中へは木樋や石樋を埋め込んで送水した。
以来、いまも羽村堰から小平監視所までは、原水が流され、その下流には下水の高度処理水が流されている。杉並区上高井戸の浅間橋から下流は昭和48年(1973)以降、導水管が埋められたり、緑道になったりしてほとんど暗渠になった。いま、流水が見えるのは約30㎞。その用地は約60万㎡で、都立最大の公園である小金井公園に匹敵する。
1.中里介山墓
長編大作「大菩薩峠」編んだ59歳の生涯
JR青梅線羽村駅をスタートした多摩めぐりの参加者一行は、多摩川の羽村堰に向かう途中にある中里介山(本名弥之助)の墓に立ち寄った。立川段丘上の墓地に生える木々と大きな五輪塔が厳かだった。毎年、4月29日に墓地に隣接する禅林寺で介山忌が営まれている。
介山は、明治18年(1885)玉川上水取水堰に近い多摩川畔の水車小屋で生まれた。西多摩尋常高等小学校を卒業後に上京し、日本橋浪花電話交換局で電話交換手や母校の代用教員に就いて一家を支えた。大正2年(1913)9月に都新聞で小説「大菩薩峠」を執筆し、9年余り連載した。一旦「大菩薩峠」の連載を終えた後は、高尾山麓や奥多摩で私塾を開き、児童の教育に努めた。
2.羽村堰・庄右衛門と清右衛門兄弟
本流曲げて水誘い込む「投渡堰」
禅林寺から歩くこと数分。そこには玉川上水の水が滔々と流れていた。東京都水道局のいくつもの施設が立ち並んでいる多摩川の羽村堰に立つ。玉川上水の水の取り入れ口だ。目に飛び込んでくるのは、多摩川の流水面が堰に近づくと一気に東に蛇行している光景だ。 「投渡堰」という堰で止められた水は、いやおうなしに玉川上水の第1水門に入る。堰全体の仕組みは、全長約40mの堰の上部が鋼製の作業橋になっており、これを支えるコンクリート製の4本の橋脚は角石張りで、3門に堰が分かれている。3門それぞれに鋼鉄枠を施し、手前に丸太杭を打ち、さらに差し込み丸太、ソダ、ムシロを重層的に張る格好で、最後に砂利を覆っている。増水で堰を払う時は、桁を吊り上げて杭を外し、造作物を水とともに流すことで玉川上水に必要以上に水が流れ込まないように調整する。
小作へ戻し、村山・山口へも送水
玉川上水の第1水門に注いだ水の全量が玉川上水を流れるわけではない。一部は、第1水門隣の小吐(こはき)水門から出て再び多摩川本流に戻している。水門の石垣は水を一滴も漏らさない意気込みと姿勢が感じられるほどの鉄壁な造りだ。ここを通過した水は、取り入れ施設で枝分かれする。羽村導水ポンプ所で汲み上げられた水は、さらに高さ約25mの調圧水槽に上げられて多摩川上流約3㎞の小作浄水場(羽村市小作台)に送られている。もう一方は、第3水門から標高が約10m低い狭山丘陵の村山・山口貯水池を経由して東村山浄水場へ送水している。下流の小平監視所まで流れた水は、東村山浄水場へ導水して都内各所の給水所へと送り込まれている。
提灯や線香の明かりが頼り
開削に陣頭指揮したといわれる高輪芝口の商人だった(羽村出身とも、福生の庄屋だったとも)庄右衛門・清右衛門は、多摩川から水を引く場所を羽村に納まる前に国立の青柳、次いで福生・熊川で失敗していたという。羽村に落ち着くまでに川越藩主松平伊豆守信綱の家臣、安松金右衛門の助力があったともいわれる。金右衛門は、後の野火止用水の開削に当たった。
兄弟2人は、承応2年4月4日、羽村から四谷大木戸までの約43㎞の開削に取り掛かった。その年の11月15日に工事を完成させたといわれる。短期の工期を強いられたのは、江戸の水事情が急を要したのだろう。工事に延べ何万人を動員したのだろう。昼夜を問わず、ツルハシや鍬を打ち続けたか。羽村堰と四谷大木戸との高低差は約92m。単純に計算すると、100m進むごとに21㎝低くなる。その傾斜を測るのに提灯や、線香を束にした明かりに頼ったのだろう。傾斜角度を測る木竹製の水盛器、いまでいう水準器も使った。6000両で請け負った工費は、瞬く間に使い果たし、私財も投入したという。
耐久性低く、修繕の連続
兄弟は、開削の功労によって永代玉川上水役を命じられ、200石扶持を与えられたほか、「玉川」姓を名乗り、帯刀も許された。しかし、年200石扶持では上水管理、修繕などが賄えなかったことから嘆願の結果、万治2年(1659)から上水を利用する武家や町方から上水修復料(水道使用料)を取る方式に切り替えられて年間金330両を得ることになった。
堰や上水路の建設には技術の粋を結集した。当時としては世界に誇る規模だったが、耐久性が乏しかった。修繕には羽村をはじめ、周辺11ヶ村が割り当てられていた。その賃金は平時が1人150文、火急の時が銀2匁だったという。こうした制度は、流域全村に渡っていた。
新設しても筏流し最大の難所
羽村堰のもう一つの見どころは、筏通し場だ。投渡堰の西側に今も石敷きの跡がある。「きのう山下げ、きょう青梅下げ、あすは羽村の堰落とし」と筏乗り唄に歌われたように多摩川上流で伐り出した青梅材を筏に組んで江戸へ流した。拡大する市中に建材などを送り込んだのだ。
筏を流すには羽村堰が最大の難所だった。それによる堰の破損が目に余ったのだろう。それを理由に江戸幕府は享保3年(1718)に通過を禁止した。筏師頭領だった青梅・沢井の福島家をはじめ、羽村以西の42ヶ村の筏師たちは再開を嘆願。3年後に水門から西へ約36m(12間)離れた場所に作り直した幅約7.2m(4間)の筏通し場を使うことが許された。堰を下る筏の壮観な光景は大正末ごろまで見られたという。
3.新流路と旧堀跡
村挙げて人海戦術で決壊防ぐ
一行は羽村堰を後にして上水沿いを下った。直線だった玉川上水は、羽村と福生市境あたりで東に蛇行している個所があった。加美上水橋のたもとの多摩川寄りに玉川上水の旧堀跡がある。福生市加美上水公園の一角だ。享保5年(1720)8月18日昼頃、上水土手が崩れ、村人総出で対処したが、その夜の大雨で再び決壊の恐れが出た。
見回り役人迎える村の負担
江戸時代は管理見回りが徹底していた。上水役人が玉川上水の全区間をしばしば通行した。元文4年(1739)当時は、町奉行が総元締めとなり、配下に組与力や町年寄、組同心、請負人といった役が置かれていた。中でも町年寄は事務全般を取り扱い、現場での修理工事などは請負人が采配していた。
上水役人の主な務めは「御水廻り」「御見分」と称した視察をすることだった。上水管理が行き届いているか、堰に不具合がないか。さらに豪雨などの時の「出水急破」に現地で指揮を執り、決定することだった。
彼らは、江戸を立ち、泊まりながら羽村水元陣屋にやってくるとき、通行する村々に御触書を回し、定めた日時、場所に人馬継立の用意を命じた。元文4年当時の人馬継立は、組与力に村人10人と馬2頭、町年寄に7人と馬2頭、組同心に2人または2人と馬1頭と決められていた。
天明7年(1787)6月から1年余りの間に行われた視察で福生・熊川村の場合、尾張藩御高場御用を含めた「上水御見廻御用伝馬」が12回あり、人足を93人出した。3年後では2年半ほどの間に21回あった見廻りに人足66人と馬26頭を提供している。人馬勤めには賃銭が支払われるが、無賃の場合は、村が負担していた。
幻になった悟堂の「野鳥村」建設構想
この旧堀跡の近くに昭和19年(1944)に歌人であり、詩人だった中西悟堂が住んでいた。すでに設立していた日本野鳥の会の日本初の研究所を兼ねた「野鳥村」建設構想の舞台が上水加美公園だ。第2次世界大戦の戦局悪化によって、この構想は具体化しなかったが、いまも年間を通して野鳥の声が樹間に響いている。
4.日光橋
千人同心が渡った橋に日野煉瓦
福生市の旧堀跡からJR青梅線福生駅へ向かった一行は、拝島駅まで電車に乗った。拝島駅東口に近い「日光橋」に参加者の目が注がれた。
江戸の玄関口であった八王子の警護に長く就いていた八王子千人同心は、徳川家康が亡くなった後、日光東照宮の火の番と警護に当たっていた当時、この日光橋を往還した。
石橋に架け替える計画が持ち上がった明治23年(1890)石川酒造当主の石川彌八郎らが中心となり、上水を管理する東京府に工事の補助を願い出た。これに対して府の回答は、レンガを使うことを勧めた。前年に開業した甲武鉄道(現中央線)向けに開発した「日野煉瓦」が地元にあったことからレンガアーチ橋とすることにして明治24年に完成した。
5.水喰土堀跡
雑木林に潜む”消えた水”跡
日光橋から上水開削工事跡の「水喰土(みずくらいど)堀」まで上水の右岸遊歩道を歩いた。カモが群れで泳いでいた。歩いていると、頭をぶつけそうになるほど低いJR八高線鉄橋下をくぐる。「みずくらいど公園」入口はすぐだった。
ここは北の八高線、南の青梅線に挟まれた地点だが、不快な電車の通過音に勝ったのが、この日の、樹間に差し込んだ冬陽だ。木の根元に身を預けながら周りを見渡した。開削当時、武蔵野台地のどこまでも続いた雑木林は、こんな風景の連続だったのかと想像した。
6.拝島村分水
宿場潤した上水開設4年後の分水
拝島駅東口に戻った。駅前ロータリーに面した玉川上水の平和橋下流側に拝島分水の取り入れ口があった。古い消火栓のような恰好のものが目印だ。明暦3年(1657)ごろに開設された。同じころに引かれた分水に小川分水、砂川分水がある。いずれも上水ができた初期に設けられた分水だ。拝島分水は、ここから南へ下る拝島宿の真ん中(現在の奥多摩街道)を流れており、周辺の人々の生活用水や農業用水だったという。いまも街道沿いを流れている。
分水が最初に開設されたのは、玉川上水に通水された2年後の承応4年(1655)、野火止用水だった。玉川上水の小平監視所から埼玉県新座市を通り、志木市の新河岸川に注ぐ用水だ。幕府老中で、水道工事を仕切っていた川越藩主松平信綱の領地に引いた。別名「伊豆殿堀」といわれる。玉川上水開削の中心人物でもある。
その後、安永4年(1775)に下高井戸村分水ができるまで、玉川上水の左岸に12本、右岸に20本、全部で33本あったという。いわば多摩川や仙川、野川程度しかなかった‟水なし台地”の武蔵野台地に網の目のように分水を引いたことで新田開発につながった。
7.暗渠の玉川上水
滑走路延長計画で蓋かぶされた上水
拝島駅から再び電車に乗った。降り立ったのは西武立川駅。数年前までこの一帯に広がっていた畑は、高層マンションや戸建て住宅で埋まっていた。この間を縫って歩くこと数分、上水縁に着いた。ところが、用水がない。水が見えない。コンクリート敷きの公園のようだ。約350m区間が暗渠になっていた。
上水の右岸にある昭和飛行機は、戦前戦中にかけて軍用機を製造していたことから、昭和14年(1939)ごろ、敷地内にあった長さ1200m、幅170mに及ぶ滑走路の延長計画で玉川上水に覆蓋したのだった。終戦で延長なされなかったが、暗渠を戻さないままになり、今日では公園になっている。素掘りのままの羽村-上高井戸間の玉川上水の中で唯一の暗渠部分だ。
8.柴崎村分水、砂川村分水
多摩の広範囲に張り巡らした分水網
エゴノキ、コナラ、クヌギ、エノキが目につく用水沿いの遊歩道。どれも古木で太い。点在するアカマツの根を避けて歩いた先が松中橋だった。遊歩道と水面が近い。水は変わらず澄んでいる。橋の上流側に2本の分水口があった。柴崎村分水と砂川村分水だ。
柴崎村用水は、元文2年(1737)に開設されて、現在も昭和記念公園内を経て、青梅線と中央線をまたいで多摩川に近い柴崎町へと流れ、根川に注いでいる。甲武鉄道や、その後の国鉄中央線を走っていた蒸気機関車に欠かせない水だった。10月に催した6回目の多摩めぐりで訪ねた普済寺の庭に柴崎村分水が流れていた。
砂川村分水は、玉川上水に通水された4年後に開設された古い分水で、当初は全長約4㎞と比較的短く、砂川村専用用水だった。1860年代の江戸末期には榎戸、平兵衛、中藤、鈴木、下小金井といった新田分水につなげ、さらに境村分水までの右岸の分水も統一したと伝わる。深大寺村を流れていた深大寺用水も砂川分水から流れ込んでいたという。北は武蔵村山、南は調布、東は武蔵野あたりまでの広範囲にわたる水の取り入れ口だった。いまは、周辺の景観が変わり、見落としてしまいそうな小さな取り入れ口だ。
9.残堀川・玉川上水の交差点
交わる川にくぐらせるまで300年
玉川上水に架かる一番橋をやり過ごして、五日市街道を主要路とする五差路の天王橋を越えて間もなくして左折した。畑でサトイモを収穫している姿があった。このイモ畑の下の室では立川特産のウドを栽培している。下流の武蔵野市域の上水には「うど橋」や「うど碑」が立っており、ウドが東方から伝わった産物であることが分かる。
一行は残堀川に出た。開削当時、頭を悩ませたのが残堀川だ。玉川上水を遮断するように縦断する残堀川をどのように越えさせるか。しかも玉川上水は、残堀川よりも高い地点にある。考えられたのは、残堀川を玉川上水の北側でいったん迂回させて、その水を天王橋付近で玉川上水に差し込むことだった。
しかし、織物産業が興隆した明治時代に入って残堀川の上流にあたる箱根ヶ崎や武蔵村山の染色工場の汚染水が流入して玉川上水が汚れたことから、明治半ばに玉川上水と残堀川を分離することになった。交差地点で、上に玉川上水を通して、下に残堀川を潜り込ませ、さらに下流で別の川の根川に付け替えた。ところが、これがもとで残堀川は長雨や豪雨で度々氾濫した。その影響で根川にも被害が及んだ。
このため玉川上水と残堀川の交差地点を再び改修した。昭和38年(1963)、残堀川を上に、玉川上水を下に入れ替えて、なおかつ残堀川の川底部分にあたる玉川上水をサイフォン式に流水変更した。さらに昭和47年(1972)に残堀川と根川を切り離す工事をしたことによってようやく水害を免れるようになった。300年引きずった大きな課題が解決したのだった。
10.源五右衛門分水
新田通いの橋、名主の橋
残堀川と玉川上水が交差する地点に架かる上水橋から下流へと足を向けた。傾きかけた日差しは、水路脇の木々の影を水面に伸ばす。水面に光の粒を散りばめたようで色とりどりに光っていた。
新家橋に説明板があった。砂川村の農家で、屋号を「しんや」といった家の裏に架けられた橋という習わしで付いた名前だ。天王橋から3つ目の橋だから「三の橋」とも呼ばれ、「上水記」(寛政3年=1791年に幕府普請奉行上水方の石野遠江守広道がまとめた)には「作場橋」の名で記されているという。耕作地へ向かう橋を意味したものだ。
この一帯は、20年ほど前まで春先には赤土が舞い上がり、砂ぼこりで空がよどんだものだ。家々の敷地は、江戸時代の区割りそのままに、間口が狭く、家の裏手の畑は細長かった。どの家も屋敷林を構え、防風対策していた。今は農地よりも住宅がひしめいている。
源五右衛門分水の取り入れ口は、江戸時代から架かる見影橋の上流側にあった。「四の橋」とも、名主を意味する「旦那橋」とも呼ばれた。大正時代に「御影橋」となり、今は「見影橋」になっている。
11.巴河岸跡
81艘、月6回、江戸へ生活物資運ぶ
源五右衛門らの通船運動が実って明治3年(1870)4月15日に羽村-内藤新宿間に舟が通った。その船着場である「巴河岸(ともえがし)跡」が見影橋下流にある。伊勢の巴屋某が船頭をしていたことからそう呼ばれた。
通船計画は、江戸時代の元文3年(1738)以降、度々持ち上がっていた。馬で荷を運ぶのと比べて、一度に大量に早く輸送できることから源五右衛門や羽村の島田源兵衛、福生の田村半十郎の3人の名主が政府に願い出ていた。
許可された運行は、81艘、月6回(5と9の日)。舟の大きさは幅5尺、長さ6間。帰路は2人の船頭が両側の堤から綱で引いて歩いた。羽村から巴河岸までの間に7ヶ所の船着場が設けられた。運んだ荷は野菜、薪炭、酒、織物、絹糸など多種だった。東京見物の人も乗せたようだ。
多摩川の水を玉川上水入口へ直角に流れ込ませるように作られた羽村堰、多摩川が洪水時に玉川上水に過分な水が流れ込まないように仕組まれた「投渡堰」。武蔵野台地の峰の部分を流れ、両岸に分水できる玉川上水の本流。一方、流れの先にある立川断層を乗り越えるために工夫された流路のカーブなど、見どころが沢山ありました。
また、江戸の初期1650年代に羽村村から江戸四谷大木戸までの43㎞、高低差92mをわずか8カ月ほどで開削したといわれていて、今でも都民に水道水の19%を供給している玉川上水は、国史跡であり、土木遺産に登録されている通り、これからも大事に残して行きたいと思います。
ガイド:菊池さん
「四谷大木戸まで歩きたい」の声
今回の多摩めぐりは、巴河岸跡が終着だったが、参加者の多くは「四谷大木戸まで歩きたいね」と今後、複数回の上水歩きを期待した。この声にこたえる形で、多摩めぐりの会事務局は、ひとまず2019年4月中旬に「名勝小金井桜」をテーマに多摩めぐりを行う準備に入った。
【集合:JR青梅線羽村駅 午前9時30分/解散:西武拝島線武蔵砂川駅 午後4時】