次回の多摩めぐりは、2019年3月中旬に開催の予定です。お楽しみに!

第1回多摩めぐり~日原とつながる路が映す歴史、営み そして日原鍾乳洞と倉沢のヒノキ

石柱や石筍が見られる鍾乳洞

ガイド:相山誉夫さん、須永俊夫さん、丹野雅之さん、味藤圭司さん

 3月31日、東京都西北端に位置する奥多摩町日原にようやく桜前線のはしりが見られた。梢には玉のれん状のアセビ、斜面にミツバツツジ、足元にタチツボスミレなどの花が点在していた。訪れたのは多摩めぐりの会主催の初めての「多摩めぐり」。テーマは『日原とつながる路が映す歴史、営み、そして日原鍾乳洞と倉沢のヒノキ』。参加者22人の目は、深い谷間の日原川、天を仰ぐ位置にある2000m級の稜線にと目まぐるしく動いた。

1. 倉沢のヒノキ

木に抱えられる“小人たち”

 JR奥多摩駅からバスで倉沢へ向かう。目指したのは樹齢1000年といわれる「倉沢のヒノキ」(東京都指定天然記念物)。奥多摩町は巨樹の里といわれる。全国に6万4000本余りある巨樹のうち奥多摩町に891本ある。ガイドである相山誉夫さん(武蔵野市)を先頭に斜面を登ること約20分。樹間越しに幹回り6.3mの別名「千年ヒノキ」が山の主のごとく威風堂々と立っていた。参加者の中には優しく手でなぜたり、木を抱え込む姿が逆に木に抱えられているように映ったり。ヒノキを取り巻く人々の姿は、まるで小人だった。
 このヒノキは、山の斜面にありながら馬の背で生長している。

ガイド:丹野さん

日本在来の樹木の中でヒノキは、1300年前に建てられた法隆寺の主材に使われているように、木材としてもっとも優れた木と言われています。東京都天然記念物「倉沢のヒノキ」、やや湿潤地を好むヒノキがあの過酷な尾根で数百年を生き延びて来たことは驚異的なことだと思います。

 丹野さんによると、世界最古の木材といわれるのもヒノキだそうだ。300年ぐらいの間、成長しながら強度を高めるのもヒノキの特徴だ。ヒノキのもう一つの特徴は、芳香だ。丹野さんが持ち出した端材で香りを嗅ぐ体験をした。若いヒノキほど香りが高いことを知った。

倉沢のヒノキ

斜面に広がる日原集落

石灰採掘現場を望む

 元のバス停に戻ると、西正面に山肌をあらわにした奥多摩工業日原鉱区の採掘場が立ちはだかっていた。奥多摩町の採掘量は、年間約39万t(2016年度)。斜面中腹には採掘した石灰を運ぶトロッコや日原川を渡る鉄橋も望めた。この地から奥多摩駅近くの同社工場まで運ぶルートだ。一時は日原住民の大半が同社に勤めていたが、近年は少なくなっているという。
 石灰は、鉄の製錬やセメントに欠かせないほか、乾燥剤や水の環境浄化に使われたりしている。水を加えると発熱作用が働き、近年、用途が広まっている。

ガイド:味藤さん

日原の石灰石は、約1億5千万年前、地上では恐竜が全盛だったジュラ紀に、南方の海底に海洋動物の死骸が大量に堆積して、そのカルシウム分がプレート移動で現在の場所まで運ばれてきて岩盤となったものです。すぐ隣の秩父地域の石灰石と形成過程は同じで、地質的にはそこと繋がっています。

2. 日原街道

冨士浅間詣での主要道

 日原の中心地、中日原から日原鍾乳洞まで日原街道を歩いた。川底が深い日原川は清流が勢いよく流れている。街道は川に沿ってカーブを繰り返す。街道沿いの斜面にへばりつく住宅にも目が留まる。
この街道は、戦国時代に「秩父道」といった。奥多摩駅付近の氷川地域につながる前だ。日原から北側のミツドッケ(天目山)など埼玉県境を越えて秩父と交易していた。江戸時代に盛んになった冨士浅間詣での御旅所が仙元峠だった。氷川に通じる日原道が拓かれたのは、この地が江戸幕府の直轄地になってからだ。白箸や木炭、下駄甲良、ワサビなどを背負って氷川まで運んだものだ。特に白箸の生産は、大正時代まで行われたという。

3. 万寿の水

天空に流れる住民の命水

 集落の中心地に水の飲み場があった。「万寿の水」という。目前の日原川を滔々と流れる水があっても住民は、この水を生活用水に使えない不便さを際立だせる光景でもあった。「万寿の水」の水源は、川の対岸にある鷹の巣山系のふもとから空中ケーブルにパイプをつないで送水しているのだ。
 空中ケーブルを渡す難事業と資金をつぎ込んだ歴史がある。

ガイド:相山さん

昔から日原地区は水利の不便な地でした。水不足が深刻になったため、村人の有志が失敗を繰り返しながらも対岸の山や沢の上流からトタンや竹の節を抜いた樋を利用して水道を完成させました。これが「万寿の水」、明治41年の出来事です。逆境に立ち向かう村人の努力と熱意に感動しますね。

 1953年、石灰採掘の社員寮を建設することから奥多摩工業が現在の本格的な水道送水管を建設した。その一部の水を街道わきの「万寿の水」として住民や観光客に提供している。水飲み場の上空にそのパイプが渡されているのが望める。

4. 稲村岩

山をあがめ、祭りを受け継ぐ

 この近くから日原川対岸に三角のおにぎり型の山が天を突くようにそびえているのが見える。稲村岩だ。全山が日原特有の地層である石灰岩から成っている。山頂付近に農耕の神をまつる稲村山神社があるという。山の名前の由来は「稲わら」を表すとか、「飯盛り」を示すとか、諸説ある。
 日原鍾乳洞前にある一石山(いっせきさん)神社に立ち寄った。元は台東区上野の東叡山寛永寺に属していたが、明治維新後、現在の社名になった。

ガイド:須永さん

一石山神社は、奈良の大神神社で三輪山がご神体であるように、鍾乳洞そのものがご神体なんですね。日本のヤオヨロズの神々の祀られ方と、神仏習合と神仏分離を経た、現在の日本人のココロのいろいろな置き所を見てみると、より日本人が理解できるかも。江戸時代に寛永寺に所属していたことも、歴史の勉強になります。

 9月の例祭で奉納される獅子舞は、奥多摩町の他の多くの獅子舞が男獅子なのに対して、日原の獅子舞は、女獅子が主役だという。祭りの日、日原各所の神社で舞った後、旧日原小学校校庭で夕刻まで舞い踊るのが習わしだ。しかし、地元には若手が少なく、参加する人の年齢が上がり続けているという。

おにぎり型の稲村岩

鍾乳洞の十二薬師

5. 日原鍾乳洞

大コーフンの鍾乳洞

 参加者の注目の的だったのが日原鍾乳洞だ。開口の標高は約630m。洞の総延長は約1270m。公開されているのは約300m。竪穴は約40mだが、洞全体で洞口と最奥部の高低差は、約100mにわたる。年間平均気温は約11度というから冷気が漂う。岩から染み出る水滴が頭髪を濡らす。「50年ぶりの探検だ」と声を弾ませる女性。「鍾乳洞、初体験よ」という人もいて足元に目をやる一方、頭上に出っ張る岩にも気を付けながら進む。そこに現れたのが高さ30mもあろうかというドーム空間。「十三仏の掛けじく」や「さいの河原」。「縁結び観音」もある。ひそめる声も響きがちだ。しばらく進むと、急階段が何本も続いた。「金剛杖」「白衣観音」と神と仏にまつわる名前の鍾乳石や石筍、石柱が見られ、感嘆の声が洞内をこだました。
 この洞から860年以上前の保元・平治時代に輸入された北宋銭や明銭が見つかっており、寛永通宝や文久永宝といった国内の古銭も出ている。旧洞は、信仰する人々が松明(たいまつ)やろうそくを持って入ったことで鍾乳石や岩がススで黒ずんでいたが、1962年、東海大学奥多摩調査隊日原鍾乳洞探検隊が発見した新道では石筍や石柱の原型が保存されていた。

6. 奥多摩町森林館

なつかしい上映会

 最後に訪ねた奥多摩町森林館は、全国の巨樹や日原の自然を紹介している施設。ここに日原自治会長の黒沢正直さんを迎え、普段の暮らしぶりを聞いた。黒沢さんは「この地は、昔から林業が中心で、人口は昭和30~40年ごろに800人ほどいた。その頃、奥多摩工業の倉沢社員住宅で映画会があり、よく見に行った。現在、56世帯94人が日原に住んでいる。小学生(2人)がいるのは1世帯のみ。日原小学校が閉校した1994年は、児童が8人だった。121年の歴史に幕を下ろした。いま奥多摩町にある小学校が2校、中学校が1校で、まさに限界集落です。ただ、この5月には日原で第1号の移住者を迎えるのが明るいニュースだね」と話していた。

 森林館解説員の高橋弘さんは、日原地域の動物や巨樹をはじめ、四季折々の自然の豊かさについて紹介した。また、「日原と東照宮について」のテーマでは「ミズナラの巨樹がある金袋山に東照宮建設途中の石垣や整地個所があることから徳川家康にまつわるポイントであったことをうかがわせる」と分析を披露した。

森林館にて集合写真

【集合:9:00・解散:16:30分 奥多摩駅前】