小金井市中町4丁目にある西念寺(さいねんじ)の墓所に小金井小次郎の墓が祀られている。その墓の一角に、見上げるような高さの碑が建っている。3m以上はあろうか? 碑には「小金井小次郎君追悼碑」という文字が刻まれている。碑は、明治35年(1902)、当時の関係者や小次郎を慕う支持者によって建てられたもので、小金井市の歴史的な場所として知られている。

出生と時代背景
小金井小次郎は、文化15年(1818)武蔵国多摩郡下小金井村(現在の小金井市中心部から三鷹市の一部に及ぶ)で新田開発に携わり、代々名主を勤めた関家の六代目、関勘右衛門の次男として誕生した。
小次郎は幼少のころから任侠の道にあこがれ、12歳で博徒の仲間につらなって勘当され、16歳になって父の病が重くなり帰郷が許されたと伝わる。
世が幕末に入り、幕府の力が衰退し、貧困と圧政から不満が高まって無頼遊民が激増、社会秩序の手段として侠客(きょうかく)、博徒が生まれ、器量のある者が親分としてのし上がっていった。
侠客とは
江戸時代を中心に活躍した、義理人情を重んじ「弱気を助け、強気をくじく」を信条とした無頼の徒の美称。任侠道に生き、自らの美学を持つため単なる犯罪者や「やくざ者」とは異なり、庶民からはヒーローとして崇拝、愛された。
侠客への道
当時、武蔵府中(現在の府中市周辺)を本拠としていた侠客に藤屋の万吉という親分がいた。小次郎はこの親分に仕えて厳しく仕込まれ売り出していった。
大柄で度胸と垢抜けした男ぶりで売り出した小次郎であるが、27歳の時に喧嘩凶状に巻き込まれて佃島送りとなり、この地で3年を過ごす。
佃島へ拘禁されて3年目、江戸町火消しで上野浅草一帯を取り締まる侠客、新門辰五郎が火消し同士の闘争で咎めを受けて佃島へ送られ、小次郎と出会う。小次郎29歳、辰五郎47歳。二人の交流は佃島を放免となった後も長く続く。
多摩の大親分になる
赦されて故郷に戻った小次郎は、一時、堅気になった。しかし子分達から何かと相談を持ち掛けられ、持ち前の義侠心から断ることができず、つぶれた賭場を再興したり、大喧嘩の仲裁などを行い、以前にも増して活動範囲を広げていった。

天保14年(1843)、師事した藤屋の万吉親分の入牢によって跡目を継ぐ形となり、勢力をより拡大させ、縄張りは多摩のみならず、東は新宿、南は川崎から横浜方面まで広がった。関東一円に抱える子分の数は数千人に及んだとされる。
三宅島へ遠島
しかし江戸時代、賭博は幕府公認の寺社主催以外は厳しく禁止されていた。大親分となり、賭場を拡大させて行く小次郎を幕府は、最早、見逃すわけにはいかなかった。安政2年(1855)、小次郎は八王子の宿で風邪気味で寝込んでいたところを捕えられ、翌年三宅島へ送られた。小次郎37歳。
三宅島へ流された小次郎は、相変わらず博打もやれば用心棒もやるということで、島における親分の顔を保っていたとか。
小次郎井戸の掘削
しかし島で暮らすうちに、小次郎は島民が水の確保に苦労していることに気付き、井戸の掘削に乗り出す。井戸の大きさは縦13m、横6m、深さ2.5mで、築造には多くの流人が携わったという。資金の大半は実家や妻お関からの仕送りと、村の廻船を利用して商売のまね事を行って得たとされる。
井戸は「小金井小次郎井戸」と呼ばれて島民に感謝され、現在は史跡として保存されている。小金井市と三宅村は、小次郎との縁がもとで昭和53年(1978)に友好都市の盟約を結んでいる。

変わらぬ義侠心
慶応4年(1868)5月、小次郎は赦免されて故郷小金井へ戻った。在島12年。時代は急変し、徳川幕府が倒れ、9月には明治新政府が樹立した。混乱した世相の中で、流人ぼけした頭から覚醒した小次郎は、まず甲州街道布田五宿(国領・下布田・上布田・下石原・上石原)の発展と治安に協力し、島帰りの貫録を見せて奔走した。さらに明治7年(1875)には三宅島に渡って炭焼きを始め、製炭の技術を明治の混乱に迷う若者を正業に付けるために伝授した。
仁義を貫いた一生涯
還暦を過ぎてから小次郎は「この道は俺一代で打ち切る」と宣言。神社の社殿の再建、小金井神社の狛犬の献納、江戸の大相撲を呼んで法楽興行を行うなど、地域の人々に親しまれる事業を実施し交流を深めていった。
明治14年(1881)、小次郎は63歳で死去した。三宅島で現地妻となったノエとの間に生まれた一人娘のお花をはじめ数百人の子分に囲まれての臨終だった。
「俺はもういくぞ。永いこと世話になった。礼をいうぞ」というのが最後の言葉になったという。
幕末の混沌とした時代を義理人情を重んじて仁義に生き、身内の者に慕われた小金井小次郎は、あの追悼碑のように見上げる大きさの親分だったようだ。
参考資料
・小金井小次郎伝 皆木繁宏著 小金井新聞社
多摩めぐりブログ