見事な桜が気になって
多摩丘陵から芝溝街道の図師の交差点を横切り、さらに南へ車を走らせる。かなりの上り坂を「かたかごの森」に差し掛かった頃、はるか前方にこんもりと桜の花が見えた。
何回も通った道だが、それまで桜の存在には気づかなかった。近づいてみると、ちょっとした塚のようなものがあり、そこに数本の桜があった。
どうやら冬の間は枯れ木で、気づかなかったらしい。
何の塚なのか
さて、これは何の塚なのか。同じ様に桜の写真を撮っていた方に訪ねてみたが、やはり桜が見事だからということで手がかりはなかった。
東京都遺跡地図で調べてみると、確かに遺跡として塚の印がある。
時代は不明だが、遺跡名は「富士塚(提灯塚)」(ふじづか(ちょうちんづか))ということがわかった。
土地神・道しるべとして
塚の階段を上ると、石の祠と2つの石碑があった。塚の上も手入れされていることがうかがえる。
「堅牢地神塔」(けんろうじしん)の石碑は、文化四丁卯年、地主吉祥山住善寺とある。大地を司る神である「堅牢地神」を祀ったものらしい。
「郷土安泰」と記されているのは、昭和廿八年建立で由来を記したもののようだ。私のわかる範囲なので、かなり大雑把だが、木曽三家(さんや)に富士塚があり、大きさは高さ一丈五尺広さ三畝で、旅人は登って富士山を見て方角を確かめた。この塚上には一本の松があったが、文化4年に失火で祠ともども全焼してしまった。それで松の若木を植えたということのようだ。
三家とはかつてのこのあたりの地名で、現在も町田街道沿いのバス停にその名が見られる。旧道沿いのバス停の名前は、趣があっていい。「独楽吟」の一首にも読んだが、そんなバス停の名前を見つけると嬉しくなる。
この塚は、富士塚といっても富士講に由来するものではなくて、郷土の安泰の祈願と旅人が方角を確認するための塚であったらしい。ここは高台であるから、物見にはちょうど良かったと思われる。
「一本松」の伝承
『町田の民話と伝承』によると、この塚は、木曽観音堂(吉祥山住善寺)に縁のもので、ここは観音堂の鬼門にあたり、堂を造る際の地鎮祭に安全祈願のためにつくられたということだ。
この塚には樹齢600年ともいわれた名物の一本松があったという。枝振りも見事な松の大空にそびえ立つ姿は、道行く人々の心をとらえ、昔が偲ばれた。その松は老齢のためか、根元が大きな「うろ」となっており、このうろもまた子供たちの恰好の遊び場となっていた。ある時、原因は定かでないが、この松は火事で立木のまま燃え尽きた。昭和27年(1952)頃のことであった。
そこで「今昔マップ」で、調べてみると、1896-1909、1917-1924、1927-1939の地図では、確かに「一本松」と記されていた。1944-1954の地図には、「一本松」は記載されていない。やはり戦後数年の内に、一本松は失われたのだろう。
文化4年(1807)に一本松は火事で失われ、その時に植えられた若木が、この戦後に焼失した一本松なのであろうか。現在の桜は、その後に植樹されたということになのかもしれない。
木曽の観音様、覺圓坊(かくえんぼう)
塚に縁があるとされる吉祥山住善寺は、覺圓坊(かくえんぼう)と呼ばれ、木曽の観音様として古くから親しまれてきたという。天台寺門宗で本山は、滋賀県大津市 総本山園城寺(三井寺)であり、本尊は、聖観世音菩薩である。
寺の沿革によれば、もと近江国園城寺621坊中の一寺で康平6年(1063)園城寺第31代長吏覺圓僧正が同寺中の金堂(現在国宝)裏に開基された。その後再三の兵火に見舞われた後、武州多摩郡木曽が木曽義仲の縁地であることから、正平6年/観応2年(1351)木曽の傳燈阿闍梨法印源性により当地に移されたということである。
4万6000日参詣したのと同じ功徳があるとされる「四万六千日」にあたる7月9日には、「ほおずき市」が立つ。
<参考文献>
- 「町田の民話と伝承」 第二集 町田市文化財保護審議会編 町田市教育委員会(1998)
- 東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス 東京都教育委員会
- 時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)
- 覺圓坊HP