畠山重忠
畠山重忠は、約800年以上前の鎌倉時代に秩父地方を治めていた鎌倉幕府の有力御家人。
源頼朝が挙兵した当初は平家方として敵対していたが、頼朝が安房国で再挙兵した時に臣従して治承・寿永の乱で活躍し知勇兼備の武将として常に先陣を勤め、鎌倉幕府創建の功臣として重きをなした。しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いを掛けられて子供と共に討たれた。
青梅市武蔵御嶽神社にある国宝の「赤糸威鎧」は、畠山重忠が奉納したとつたわり、神社前には馬に乗った像がある。
伝説の切石
重忠の鎌倉と秩父の往来は、青梅市西部に残る秩父・鎌倉街道を通ったと伝えられている。ある時、重忠が鎌倉へ向かう際、いつものように秩父から山伏峠を越え名栗を通り、小沢峠を過ぎ、松の木峠に向かう途中、突然一寸先も見えない霧にまかれ成木の山中に迷い込んでしまった。
重忠は「これが噂の妖怪の仕業か」と腰の太刀を抜き渦巻く霧めがけて、気合鋭く切り下すと大きな悲鳴とともに霧が立ち消え、足元に真二つに切られた石が落ちていたという。おかげで重忠一行は無事に松ノ木峠を越え鎌倉へ向かうことができた。
現在、その石は「畠山重忠の切石」といわれ、石の中央には刀で切ったような割れ目が有り、重忠の力強さを感じさせる伝説地である。
切石の場所
青梅街道の東青梅から成木街道に入り、吹上トンネルを抜け、信号を左折して成木八丁目を名栗に向かって行くとT字路(佐藤塚の看板)成木方面を右折、少し走って松ノ木トンネルを抜けて走ると、直進・秩父、名栗、左折行き止まりの看板あり、行き止まりの方に左折し、集落(成木七丁目)の中の細い道を約1.4キロ走ると二股の分かれ道がある。左側に公衆電話BOX・簡易トイレの所に車を止めて、左側の細い道を約700m上がった右側に「切石」がある。
※参考資料
◎青梅市の文化遺産70号 青梅市郷土博物館
◎地図 奥多摩詳細図(東編)吉備人出版
◎赤糸威鎧の写真 青梅資料館より