遡上する魚にやさしいハーフコーン型魚道を初めて採用した多摩川の堰~大丸用水堰

先のブログで、多摩川に設置されている主要な8基の堰のうち、河口側から上流に向かって、順に3つの堰(調布取水堰、ニヶ領宿河原堰、ニヶ領上河原堰)の特色等について触れてみました。

今回は、河口側から数えて4番目となる大丸(おおまる)用水堰について述べてみたいと思います。

大丸用水堰の誕生と大丸用水

大丸用水堰の誕生は、大丸用水の開削と深く関わっています。大丸用水の開削時期は明らかになっていないとのことですが、江戸時代初期、江戸幕府の治水、利水政策の一環として開削されたニヶ領用水(慶長16年(1611)完成)とほぼ同じ時期と考えられています。

大丸用水は、大丸村、長沼村、押立村、矢野口村、(現在の東京都稲城市)の4か村と、菅村、上管生村、五反田村、中野島村、登戸村(現在の川崎市多摩区)の5か村の農地開拓を目的として多摩川の水を取水するために作られました。大丸用水は、支流を合わせると総延長70㎞に及ぶ大きな農業用水でした。

大丸用水の水路概念図 稲城市史上巻より

大丸用水の取水口は、大丸村の多摩川右岸(現在のJR南武線多摩川鉄橋のやや上流)に設けられ、その取水口へ多摩川の水を導くために造られた取水堰が大丸用水堰です。

創設時の大丸用水堰は、ニヶ領宿河原堰やニヶ領上河原堰と同様に、蛇籠(竹で編んだ長い籠に石材を詰めたもの)を積み上げて造ったもので、その時々の多摩川の流れや水量にすばやく対応できたということです。蛇籠の大丸用水堰は、江戸時代から昭和の中頃に至るまで300年以上の長きに渡って活躍しました。

昭和30年代の大丸用水堰 木材で修理補強している

その蛇籠による大丸用水堰も、たび重なる水害や時代の要請に応えずらくなったため、昭和34年(1959)に近代的な堰に造り変えられました。それが今日の大丸用水堰です。

今日の大丸用水堰

今日の大丸用水堰は、JR南武線南多摩駅と西武多摩川線是政駅から歩いて10分ほどの場所にあります。蛇籠時代よりやや上流に移動しており、堰の長さは地図上で約340m。多摩川河口から約36㎞上流にあって、堰の右岸が稲城市大丸、左岸は府中市是政に位置しています。

多摩川を挟んで稲城市大丸と府中市是政を結ぶ大丸用水堰

堰の構造は、固定堰、可動堰(起伏式)7門、魚道2か所からなり、魚道はハーフコーン(半楕円錐柱隔壁)型魚道が設置されています。

今日の大丸用水堰 右岸(向かって左側)から左岸へ可動堰5門と固定堰が見えている

ハーフコーン型魚道は、大丸用水堰で初めて採用されたもので、多摩川式と呼ばれており、魚が川を上りやすくするために自然河川に近い流れを作り出しています。同じ向きのハーフコーンを2本ずつ交互に組み合わせることにより、流れが横断しにくいコーンの太い部分には流れのゆるやかなプールが現れ、それが遡上する魚にとって休憩プールとして機能するとか。ハーフコーン型魚道は、今日では日本の多くの河川で利用されています。

大丸用水堰のハーフコーン型魚道
ハーフコーン型魚道の構造と特徴

貴重な水辺として生き続ける大丸用水

江戸時代から農業用水として利用されてきた大丸用水は、今日でも水田や梨園で活用されていますが、昭和30年代以降、急激な宅地化が進んだため水田は減少、不用になった用水路は埋め立てられました。しかし荒廃しつつあった水路と水辺は、大丸用水土地改良区や地元の人々の協力、保存活動により、1,120mに及ぶ細長い水辺の緑地「大丸親水公園」として整備されました。親水公園を流れる用水は貴重な清流として保たれ、市民の大切な憩いの場となっています。

大丸親水公園を流れる大丸用水

参考資料
  *国土交通省 京浜河川事務所資料
  *写真で見る稲城今昔
  *ハーフコーン型魚道の設計マニュアル
  *地理院地図