松本捨助(まつもとすてすけ)は、武州多摩郡本宿村(現・東京都府中市)の名主の長男として弘化2年(1845)に生まれた。少年の頃から天然理心流を学ぶが、この地方で勢力を持つ侠客(きょうかく)小金井小次郎一家の者とも関係をもち次第に身を持ち崩していった。酒好きでもあったらしい。写真は、中年期のものであろうが、ちょいワルな感じではある。
文久3年(1863)の浪士隊募集の際には、家族の反対に合い応募を断念したが、同年秋には単身上洛して、壬生の新選組屯所を訪ね、入隊を願い出ている。しかし、縁戚でもある土方歳三に諭され帰郷している。この際に小野路の名主、小島鹿之助宛の書簡を持たせ、以後の対応を頼んでいる。小島鹿之助の日記にもこの一件についてふれられている。捨助は、やんちゃであるが恩義に厚く筋を通す性格で憎めない人であったようだ。そのせいか、周囲に疎まれることもなく交流をもち続けている。
そんな捨助にも入隊の機会がやってくる。慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦い後に江戸に帰還した新選組が、甲陽鎮撫隊を編成した際に入隊を果たした。以後、会津まで隊士として転戦した。
会津での戦いに敗れ仙台まで逃れたところで、多くの隊士が降伏、隊を離れた。斎藤一諾斎(さいとういちだくさい)と松本捨助もその中に含まれていた。
齋藤が土方の義兄でもある日野の佐藤彦五郎に伝えた話によれば、土方は彼らに直々に帰郷を命じたという。その際、松本に金十枚、斎藤に三十枚を渡した。斎藤がその差に戸惑うと「松本は帰る場所があり家族もいるが、斎藤には身寄りがない」との理由であった。斎藤は男泣きし土方と訣別した。一諾斎は、その後多摩で子供たちの教育につくした。立派に恩義に報いたといえよう。
さて、捨助はといえば、家督を養子に来ていた土方の甥にゆずり、井上源三郎の姪と結婚している。帰郷後の一時期は小金井一家に身を寄せたりしていたが、その後は名古屋方面で米屋を営んだりしていたようだ。しかし晩年は多摩に帰り、大正7年(1918)年にその生涯を閉じた。墓は府中市本宿共同墓地にある。
それにしても、濃密な縁戚関係である。周辺の名主・豪農層の縁戚関係は、天然理心流を支えるネットワークでもあり、在村文化ネットワークでもあり、おもしろいところである。
《参考文献》
- 新選組大人名事典 新人物往来社編 新人物往来社, 2001年
- 新選組写真集 新人物往来社編 新人物往来社 1974年
- 新選組2245日の軌跡 伊東成郎 新潮社 2020年