市内を流れるいずれの河川もその流末は、神奈川県の東京湾と相模湾、鶴見川水系と都内唯一東京都が管理する二級河川の境川が流れるのが町田市。鶴見川の支流の恩田川、さらにその支流となると知名度が低くなるが、かつて芹ヶ谷川(せりがやがわ)と呼ばれていた川によって浸食された谷戸がある。
小田急線で町田駅に向かう途中、駅まで700mほど手前の左手に「国際版画美術館・芹ヶ谷公園」と書かれた大きな看板をご覧になった方も多いでしょう。現在、この谷戸全体が公園となっている。公園開設(昭和57年(1982))前、大正期に日本で最初の丘陵地における敷石住居跡発見の第一号として、大正15年(1926)2月14日に国の史蹟として指定された「高ヶ坂(こうがさか)石器時代遺跡」が谷をはさんだ両側にある。(地名は「こがさか」と読んでいる)

この遺跡は、縄文時代中期(5500~4400年前)末から晩期(3200~2400年前)にかけての遺構を見ることが出来る。牢場(ろうば)遺跡・稲荷山(いなりやま)遺跡・八幡平(はちまんだいら)遺跡の3地点の集落跡を言う。(石器時代遺跡の名称がついたのは、当時の時代区分は世界史の新石器時代が一般的であったため。)縄文人がこの谷や近くの恩田川を利用したであろう敷石住居跡をめぐってみた。

小田急町田駅から商店街をぬけて1㎞ほど歩くと、三塚(「さづか」高ヶ坂・原町田・金森の三村の境(接点)を示す塚があった)の交差点に出る、ここを左に折れ、坂を300ⅿほど下れば稲荷山遺跡・牢場遺跡がある。
昭和2年(1927)3月と彫られた花崗岩の指定史蹟石標が、重要で重々しさを表している。谷戸の南側の斜面地にある稲荷山遺跡は、調査後埋め戻して当時の配置を再現したものが見られる。また、牢場遺跡は稲荷山遺跡の一段下にあり、遺跡を建屋のガラス越しに見ることが出来る。光の反射があって見えにくい。発見の発端は、ゴボウの先端が曲がって生長していることから地下1ⅿ付近に何かあると気付き、遺跡調査が行われた。大正時代後半は貝塚研究が主で、大きな成果を上げていた。海岸より離れた丘陵地で敷石住居跡が発見されたことは、石器時代研究の新たな段階に入ったと言われている。
近くにある鎮守の熊野神社脇を進み、幼稚園裏手の細くて急な登りを上がる。原町田の「ふるさとの森」からは、また斜面を下り、芹ヶ谷公園までさらに下り道がつづく。
小田急線の土提を上流部として下流部の「町田市立国際版画美術館」(昭和62年(1987)開館)まで約800ⅿの谷戸は、幅が上流部30~40ⅿ、下流部60~70ⅿ、標高差15~20ⅿの自然が残された公園となっている。芹ヶ谷公園再整備基本計画の鳥瞰図をご覧いただこう。

町田駅から約700mと近いが、町中の喧騒も届かず、湧水が豊富で水に触れられるように整備されている公園だからか子供連れが多いのもうなずける。桜の木々も多く、緑の深さが見られ四季それぞれに美しいだろうし、版画を中心とした美術館もあって訪れる人も多いだろう。
特に、「虹と水の広場」の彫刻噴水・シーソーは、高さ16ⅿにもなる大きなもので水と遊ぶ子供たちの賑やかな声が響いている。町田に住んだ彫刻家の飯田善國(いいだよしくに1923~2006)の作品で、8月末まで国際版画美術館で特集展示が開かれていた。
この広場の右手の斜面の階段を登る。遺跡の3ヶ所め、八幡平遺跡は右手の見晴らしの良い台地にある。ここの遺跡も調査後は埋め戻され、再現されたものが見られる。はるか昔の縄文人がどんな思いでこの台地から遠くを見ていたのか・・・・

公園に戻る。上流部の湧き水を集めてアーチのトンネルから泉として湧き出させている「アーチの泉」附近から台地に上がる階段を登れば駅への道につづく。
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