多磨寺‥‥武蔵国分寺創立以前に多磨郡で設立      武蔵国府・東京で一番古い?寺

前回7月3日のブログ「武蔵国国府はなぜ府中に置かれたか(703年)? 1300年前の府中の謎を探る」として、現在の東京都と埼玉県並びに川崎・横浜の大部を一国とした武蔵国が、約1300年前の701年の大宝律令による行政変革により成立し、大和政権から「国司」と呼ばれる京から派遣される新首長が703年に登場した。それも広大な武蔵国を構成する21郡の中から、南辺の多磨郡が選択されて、現在の府中市中心部に、いわば国衙・国府(都庁とその役所地域)がおかれて、それが現在の府中市の始まりとなった。

国史跡 武蔵国府跡(国衙)

京王線府中駅を降りて、駅西側を南北に走る大國魂神社の天然記念物ケヤキ並木を南に下れば、第12代景行天皇41年(皇紀771年⇒西暦111年?)5月5日に起源をもつ「大國魂神社」があり、ここ50年余の発掘調査を経て、この大國魂神社の境内の相当部分を占めて武蔵国国衙が設置されていたことが判明し、神社の東側のこじんまりした区域に、「国史跡武蔵国府跡」の史跡が設けられている。実際の国衙地区は、大國魂神社の西側にある「ふるさと歴史府中館」の中を通る溝から、東側へ伸びる区域にあったとされている。

大國魂神社 大鳥居

武蔵国 国衙・国府と大國魂神社

府中の森博物館2Fの府中周辺古代立体模型地図より国衙地区

平成21年7月23日、大國魂神社境内と東側の武蔵国衙跡地区などが、「武蔵国府跡」として国の史跡に指定された。1975年以来、市民の協力のもと発掘調査が続けられており、今では1,800ヶ所を超すまでになる。その結果、多くの貴重な情報が蓄積され、古代国府の実態を知る上で全国的にも欠くことのできない遺跡として評価されている。武蔵国府は、奈良時代の初めころから、平安時代の中頃(今から約1,300年~1,000年前)にかけて、武蔵国を治めた役所がおかれた古代武蔵国の政治・行政・文化・経済・神事の中心で、古代武蔵国の首都として栄えていた。発掘調査では、ここに南北300メートル、東西200メートルの範囲が「国衙」であると判明した。国司館(こくしのたち)の主殿と脇殿の前の広場は前庭といい、さまざまな儀式や饗宴に使われた。四面に廂(ひさし)が付いており、格式の高い様式になっている。

国司跡 武蔵国府跡(国衙地区) 入口

 

国史跡 武蔵国府跡(国司館地区) 国司館と家康御殿史跡広場

この史跡の他に、「国司館と家康御殿史跡広場」が、府中元町駅東に隣接して設けられ、ここに国司館の1/10の復雑な模型が制作され展示されている。国司の着任の儀式を再現して、国司や女官、兵士などの人形が建てられており、人物が動く映像を入れたVR映像を見ながら、管理事務所から借用した武蔵国府スコープで順次園内を廻ることが出来る。

        国司跡武蔵国府跡の、国衙地区と国司館地区

史跡武蔵国府 国司館&家康御殿史跡広場

           

武蔵国府跡にある、国衙地区再現模型 

天正18年(1590)8月、徳川家康が江戸へ入城してからは、大國魂神社へは武蔵国の総社であるために殊に崇敬の誠をつくし、社領五百石を寄進させ、社殿及びその他の造営に心力をつくし、寛文7年(1667)将軍家綱の命により、久世大和守広之が社殿を造営し寛文年(1767)に完成し、現在に至る。形式は三殿を横につらねた朱塗りの相殿造りで、屋根は流造りであり、慶応年間に檜皮葺(ひわだぶき)が銅葺に改められた。本殿は都文化財に指定されている。神社境内には、東照宮がある。

なぜ、府中に国府がおかれたか?

ではなぜ、ここ府中に国衙国府がおかれたのだろうか。

当時534年の武蔵国造の乱(27代安閑天皇時代)で、現埼玉県行田市(さきたま古墳所在地)の笠原直(かさはらのあたい)が、上毛野小熊(かみつけぬおぐま)に援助を求めた小杵(おき)に勝利して国造を世襲することになった。その前にも、稲荷山古墳出土の鉄剣は、1968年にさきたま古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣で、1983年に同古墳から出土した他の副葬品とともに国宝に指定された、21代雄略天皇に仕えた古墳主が政権の刀杖人(軍事官僚)であることを記載した金象嵌が見られる。

当時の武蔵国の中心地は、上記の国宝鉄剣や武蔵国造の乱の流れから、埼玉県行田市当りが想定される。そのなかで、なぜに、武蔵国南辺の多磨郡の府中が、大宝律令による東国の大国武蔵国の国司在庁所になったのだろうか。

色々な意見が錯綜するが、諸見解を羅列すれば、下記の通りである。

・多摩南部への屯倉の設置

534年とされる武蔵国造の乱で、大和政権は埼玉行田の笠原直を支援して4ヶ所の屯倉を献上させた。このうち横渟屯倉(よこぬのみやけ/埼玉県比企郡)以外は南多摩地区(すなわち1・橘花屯倉(たちばなのみやけ) – 橘樹郡御宅郷、現在の神奈川県川崎市幸区北加瀬、2・多氷屯倉(おおいのみやけ) – 「多氷」を「多末」(たま)の誤記として、武蔵国多磨郡、現在の東京都あきる野市か。3・倉樔屯倉(くらすのみやけ) – 武蔵国久良郡、現在の神奈川県横浜市)にあり、大和政権の東国・蝦夷支配に向けての展開を期待して大国武蔵国多磨郡に拠点を設けた。

・府中地域の発展・拡がり

多摩川沿線には、古くから地元有力者の円墳が多数築造され時代が進むに従い多摩川を北上していく。地域豪族の資力支配力が稲作の波及により支えられて、府中ではマチが大きく広がっていく。府中では、国衙中心東西約3kmに建物群が密集し、堀立柱建物群の他に、多い時には1000棟近くの竪穴建物が存在したという。国衙中心に、東西2.4キロメートル、南北1.2キロメートル範囲内で住居が発掘され、確認されたものだけで4000軒にも及び、7世紀末~8世紀にかけて爆発的に人口が増加した。主な出土品は、、セン(漢字では、土編に専門の「専」と書き、古代のレンガのこと)、円面硯。

・地元有力者・ヤマト政権関係者

国史跡武蔵府中熊野神社古墳(上円下方墳/4月17日ブログ 「多摩の古墳 –国史跡武蔵府中熊野神社古墳」をご参照ください) は、特異な形状の上円下方墳で最古のもので、版築という新技術を導入しており、7世紀後半の築造と推定されている。東山道武蔵道は7世紀後半に開削されたという。8世紀初めに国府が設置された府中では、マチの成立は7世紀末~8世紀前葉といわれる。府中に国府の置かれた事情を、技術面で資力面で支え指導した大和政権派遣の、或いは懇意な豪族の存在が推定される。

・国府設置前創建の多磨寺

前記のマチの成立と前後して「多磨寺」が建立される。中央派遣の国造の下の、地元の郡司を輩出した郡家が建立したといわれる。それだけ、資力・支配力・技術力を有した地元の資産階級が成立していた証拠である。

はてさて、なぜに行田から府中に国府が移ってきたのか? 一説に、府中周辺には大きな古墳がほとんど存在せず、つまり大きな地域有力者が不在であり、北武蔵には大きな古墳があり、有力豪族がいた。東国の大国である武蔵を、中央集権化を進める政府としては、中央政権支配の傘下に確実に置くべく、武蔵北の豪族からは離れた、多摩川沿いに府中に国府を設定したのではないか、とも言われている。

 京所廃寺=多磨寺

府中郷土の森博物館の府中国衙周辺の立体模型地図にある「多磨寺」周辺

   

      府中郷土の森博物館在の、多磨寺で葺かれた瓦

上記、多磨寺については、東京で一番古い寺だともいわれる。存在したことについては、発掘調査が進むにつれ、瓦・塼(せん)の発掘、瓦に記された文字等から、従前は京所廃寺と通称されたが、武蔵国府の東側に、多磨郡の郡名を冠した寺院、「多磨寺」(旧京所廃寺)の存在が考えられる。この一帯では国衙の瓦より古い瓦が出土するため、多磨寺は国衙に先行した造られた寺院と考えられている。墓所には、塔心礎石(約185×175×50cm、径約 70×23cm)と推測される巨石も存在し、近接するするマンションの発掘調査では、仏堂基壇跡や幟旗を支える遺構が確認されている。猿渡盛章(さわたり もりあき/江戸時代終りの大國魂神社の神官)も、廃寺が、官寺的性格を持っていたという。大宝律令制定まえに、府中ではそれなりに大きな豪族が出現し、武蔵国造・国司を支えていたらしいことが、この多磨寺の存在で証拠づけられるといえよう。平安期仏教説話集「日本霊異記」に多磨郡の役人大伴赤麻呂が建てた寺を舞台にした説話が収められている。多磨寺至近に多磨郡家が存在した可能性が高い。

 

多磨寺跡といわれる猿渡家墓所にある墓、その下の大型墓石は多磨寺の塔心礎石の由

 

《注》

東京で古い寺といえば、浅草寺と深大寺となるか…

寺の始まりは、推古天皇時代628年に宮戸川(元隅田川)で漁師の檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟が網にかかった聖観音を主人の土師中知ヘ渡して、土師中知が出家して自宅を寺に改めて供養したことによる。

また、深大寺は、印度へ旅した中国僧玄奘上人を守護した水神「深沙大王」に由来して、733年に満功上人が法相宗寺院として名づけて開創したと伝える。

 

 

資料

「新版 武蔵国府の町 府中市の歴史」  府中市教育委員会

「よみがえる古代武蔵国府」       府中文化振興財団、府中市郷土の森博物館

「古代武蔵国府」            府中文化振興財団、府中市郷土の森博物館

「あすか時代の古墳 検証!府中発見の上円下方墳」府中文化振興財団、府中市郷土の森博物館

「アルムゼオ」各巻  府中市郷土の森博物館だより

Wikipedia各種、府中市関連断定発行のパンフレット類