NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が最終回を迎えました。800年近くむかしで記録が少ない鎌倉時代のドラマを一年間楽しめたと思います。この畠山重忠を扱った一連のブログも本日に至ってやっと重忠の非業の死まで追いつきました。
ここで少しだけ大河ドラマにことについて書いておこうと思います。
脚本家の三谷幸喜さんがつくる登場人物について
三谷さんは登場人物は映画などにインスパイアされて書いたと述べています。
義経(菅田将暉)は「パットン大戦車軍団」のパットン将軍。戦いで才能を発揮するが戦い以外は何もできない男。
大江広元(栗原英雄)は「ゴッドファーザー」のロバートデュヴァル。次々と殺していく。
女性の名前は記録に載ってないのですよね。だから僕が考えました。
実衣(宮澤エマ)は「ムーミン」のミイ。キャラクターも似せてます。
トウ(山本千尋)は山本千尋さんが小柄な方でピリリと辛い「豆板醤」から。
のえ(菊地凛子)は伊賀の方なので、ドラマ真田丸のときの「家康の伊賀越え」を思い出して、ごえから。面白いですね。
武衛
上総の介(佐藤浩市)が頼朝のことをぶえ、武衛と呼んでいましたが、この武衛とう言葉は何を指すのでしょうか。
武衛とは天子を守る武官のことで、将軍のことを指す。日本では兵衛府の唐名とされる。兵衛府とは、令制の官司の一つで、御所警衛、行幸の供奉、京内巡視などを担当した。唐名とは、日本の官職を中国の官称で呼称したものとのことでした。『吾妻鏡』では、頼朝のことを最初は「佐殿」と書いているが、文治元年(1185)に頼朝が従二位に昇進するまで「武衛」と書いている。以降は、「鎌倉殿」である。武衛とは頼朝の尊称とのこと。
さいごに最終回で義時を誰が殺したか!を書いておきます。驚きの展開でした。
義時(小栗旬)を誰が殺したか
このドラマでは誰が義時を殺したかも最終回で明らかになります。義時の妻のえ(菊地凛子)が義時の旧友三浦義村(山本耕史)からもらった毒を義時にもったと白状します。悪女のえですから、ここまでは予想できたのですが。。しかし最終回では衝撃の展開が待っています。義時が姉政子(小池栄子)に「それにしても、血が流れすぎました。頼朝様が亡くなってから、何人が死んでいったか。梶原殿、全成殿、比企殿、仁田殿、頼家様、畠山重忠、稲毛殿、平賀殿、和田殿、仲章殿、実朝様、公暁殿、時元殿。これだけで13人」と2代鎌倉殿・源頼家(金子大地)を殺したと打ち明けてしまったのです。それを聞いた政子は怒り苦しむ義時の薬を床にこぼし「寂しい思いはさせません。わたくしもそう遠くないうちにそちらへ行きます」「ご苦労さまでした…小四郎」‥と政子は弟の顔に手をやり、義時は静かに息を引き取り政子の嗚咽だけが聞こえる。
なんと政子が義時に引導を渡したのです。この場面は頼朝(大泉洋)の最期とそっくりでまた驚きです。このドラマのテーマは家族愛・夫婦愛・姉弟愛、政子の愛だったのですね。随所にホームドラマのような場面もありましたから納得できます。
13人の意味
そして、なんと鎌倉殿の13人の13人の意味も明らかになります。義時が数えたこの世を去った人数も「13」だったのです。合議制で政治を行った13人に加えてこんな意味があったとはまたまた驚きでした。
そんなこんなで終わってしまった「鎌倉殿の13人」です。NHKのトークショーなどもとても楽しかったので、これからの大河ドラマもこの路線で行って欲しいな。なんて思っています。あっ近々鎌倉のNHK大河ドラマ館へ行ってきますね。
それでは本来のブログ、畠山重忠の最期をみてみましょう。
重忠と時政が不仲とのうわさ
『明月記』によれば、元久元年(げんきゅうがんねん1204)、畠山重忠(はたけやましげただ)が北条時政(ほうじょうときまさ)を討ったといううわさが京都の公家たちの間でひろまりました。これは誤報でしたが、この出来事は、鎌倉の幕府政治を心よく思っていなかった京都の公家たちの思いが表れたものととらえることができます。
息子の畠山重保が義村に殺される
元久2年(1205)の鎌倉は、4月から不穏な空気が流れていたと『吾妻鏡』は記しています。6月20日に、重忠の息子の畠山重保(はたけやましげやす)は、稲毛重成(いなげしげなり)に招かれ鎌倉に入りました。そして事件が起きたのは、6月22日のことでした。鎌倉で騒ぎがあり、何事かと由比ヶ浜(ゆいがはま)に様子を見に行った重保が、三浦義村(みうらよしむら)の指揮により殺害されてしまったのです。
北条軍が重忠を討つ
一方、『吾妻鏡』によれば、重忠は6月19日に菅谷館(すがややかた)を出て鎌倉に向かっていました。ところが、同月22日、二俣川(横浜市旭区)まで来ていた重忠のもとに、重保が討たれ、さらには自分を討つために、北条氏の軍勢が鎌倉からこちらに向かっていることが知らされたのでした。
二俣川の戦い
大手の大将軍は北条義時(ほうじょうよしとき)、先陣は葛西清重(かさいきよしげ)、秩父平氏の系譜を引く河越重時(かわごえしげとき)・河越重員(しげかず)・江戸忠重(えどただしげ)らを含む大軍勢でした。これに対し重忠勢は、重忠の次男重秀(しげひで)、家臣の本田近常(ほんだちかつね)や榛沢成清(はんざわなりきよ)らわずか130騎程度で、勝ち目はありませんでしたが、菅谷館に引き返すこともせず、二俣川で幕府の軍勢を待ち受け、4時間にも及ぶ激闘むなしく、重忠主従は討死にしました。重忠は、愛甲季隆(あいこうすえたか)の射た矢にあたり、首級(しゅきゅう)をとられたといわれています。また畠山重秀と家臣は自害したと記録されています。
なぜ、このようなことになったのでしょうか。
『吾妻鏡』の記事からうかがってみましょう。
重保、平賀朝雅と口論する
畠山重保は3代将軍源実朝(みなもとのさねとも)の御台所(みだいどころ・正室)を迎えるために上洛した際に、元久元年11月、北条時政の後妻牧の方(まきのかた)の娘婿の平賀朝雅(ひらがともまさ)と口論になりました。
牧の方が時政を動かす
このことを朝雅は牧の方に訴え、牧の方は北条時政(ほうじょうときまさ)を動かし重忠・重保親子の殺害を計画させます。当時幕府の実権は時政の息子の義時に移っていたため、時政は、まず義時に相談を持ちかけました。はじめは反対していた義時も結局は討伐に賛同し、重忠親子を討ちました。
重忠の謀反は誤りだった
ところが、戦が終わってみると、二俣川で出会った重忠の軍勢があまりに少人数で、とても謀反を企てていたとは考えられなかったとして、重忠の死後、義時は討伐を計画した北条時政と牧の方らを幕府から失脚させました。そして、一度は没収した所領を後に重忠の未亡人に安堵しています。
牧の方・時政は朝雅を次期将軍に
『吾妻鏡』の記述では、重保と朝雅の口論の原因は明らかでなく、また口論だけが討伐の理由とは思えません。このとき時政は、源氏の血を受け継ぐ平賀朝雅を将軍にたて、自分が後見になることによって、義時に移ってしまった権力を取り戻そうとしたといわれています。
武蔵武士の有力者は畠山氏だけ
一方の義時は、亡き頼朝の正室である姉政子とともに、北条氏中心の政治をを確立しようとしていました。いずれにしても、時政や義時にとって、幕府草創の原動力となった武蔵武士の発祥の地である武蔵国を掌握するにあたり、武蔵国に古くから勢力をもつ畠山氏の存在は、脅威であり邪魔であったと思われます。この時までに、川越氏や比企氏は討たれており、武蔵国における有力者は畠山氏だけとなっていました。
すべてはダーク義時の策略か
時政も義時も、畠山氏を討つことについては利害が一致しており、そのきっかけを探していたことでしょう。そこに平賀朝雅と畠山重保の間にもめごとが起きたので、これを利用したものだと考えられるのです。そのうえで義時は、重忠らを討ったあと「重忠に無実の罪を着せた」との理由により、時政や朝雅を失脚させることに成功し、権力を不動のものとしました。これが事実とすれば、『吾妻鏡』が記すような義時は無実の罪で討たれた重忠への哀れみから時政を失脚させたのではなく、すべては当初からの計画だったと考えることもできます。
二俣川周辺の合戦にまつわる史跡
重忠が討たれた二俣川周辺には、「重忠の首塚」家臣を葬ったという「六ッ塚(むつづか)」北条氏の軍勢があふれたところからついたといわれる「万騎が原(まきがはら)」など、合戦にまつわる史跡が今に伝えられています。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は終わってしまいましたが、このブログはあと少し続きます。もうすこしお付き合いください。