御嶽菅笠と齋藤義彦

1.御嶽菅笠とは

天保5年(1834)国学者・齋藤義彦によって作成された。

江戸時代、御嶽講と呼ばれる御嶽信仰(現青梅市の御岳山・武蔵御嶽神社)

が、関東一円に広がっており、御嶽神社への道中案内で、今でいう旅行のガイドブックのようなものである。

道中地図
御嶽山散策地図

2.御岳山

御岳山は、東京都青梅市にある標高929mの山で武蔵御岳山とも呼ばれ、古くから山岳信仰の対象となっており、山頂には武蔵御嶽神社がある。元旦には初日の出を拝みに多くの参拝客が訪れる。8月には、5万株といわれるレンゲショウマの可憐な花が咲き、ロックガーデンではイワタバコの花も咲き、夏の暑さを忘れさせる。

レンゲショウマ
イワタバコの花

3.御嶽菅笠

「股引草鞋(ももひきわらじ)玉小菅(たまこすげ)、すげの小笠の波たちて旅の装束(よそおい)も、み吉野の御嶽のみちの行程(ゆくほど)は、娘盛りの十六里(日本橋から約60km)、時得て咲や江戸の花、日本橋より杖引そめ、与力御門を打出て四ツ谷をすぎて新宿は・・・(略)」の書き出しで始まる「御嶽菅笠」は、武蔵国御嶽山への道中案内である。

江戸日本橋から御嶽山まで青梅街道の風物や旅籠・休み処まで絵で織り込んで、七五調の軽妙な言葉使い著してある。

御嶽山内の御師家については、「大宮司御師祝部(はふりべ)、いらかならべし家々は誰が御師やらん黒田杢(くろだもく)、左は橋本、靭矢(うつぼや)のえびらになびく片瀬、高名の下は権正(ごんのかみ)、畠中なる秋山の紅葉をみつつ春くれば、左近の桜咲き乱れ・・・」と言葉のかけ合わせを巧みに使い、すべての御師家名が出て来る文章に仕立ててある。

御嶽菅笠の冊子
御嶽講

4.御師

御師とは、神社(神)と信者の間にたって祈祷をし、また、信者のために宿泊の世話をする人であり、この人たちで作っている集落が御師集落である。武蔵御嶽神社は信仰の歴史が古いため、集落の歴史も古く、江戸時代に建てられた馬場家住宅(東京都有形文化財)など、建築学上貴重な家屋もいくつかある。

 御師の家は、山上に28軒、山下(さんげ)の滝本付近に7軒ある。

5.齋藤義彦

作者の「齋藤義彦」は天明5年(1785)、秩父郡原谷村大野原(現埼玉県秩父市)の荒船吉兵衛の長男として生まれた。幼くして学を好み、秩父神社神主の薗田筑前(そのだちくぜん)に従って神道を学んでいる。秩父神社は、延長5年(927)に編纂された『延喜式』に掲載されている古い神社であり、現在は途絶えているが、神楽も盛んであったと伝えられている。

義彦は、秩父神社での修行後、郷里にもどり、齋藤義兼の養子となり、齋藤家が神主を務める秩父郡長留村の諏訪神社に謹仕した。その後、江戸に出て幕府の神道方吉川家に仕え、京にも上がったといわれている。

文化5年(1808)には、朝廷より「むさしの国秩父郡長留村すわ大明神新主旗居義日子(はたいよしひこ)」名義で、「淡路守」という官名を頂いた。

文化12年(1815)、義彦は武蔵御嶽神社の代々神楽祝詞を作成し、今日ある武蔵御嶽神社の代々神楽舞十八座を確立し『御嶽山大麻止乃豆(おおまとのつの)天神社(あまつかみやしろ)代々神楽考』三巻三冊を著した。

幕末であった当時、義彦が御岳山に与えた影響は大きく、御師達は、その後の明治政府における神仏分離令にも冷静に対処できたと言われている。

義彦は50歳の時に『御嶽菅笠』を発行しているが、熟達した文才と、30歳までに千回も登ったと述べている御嶽山への想いの籠った冊子は今日でも私たちを十分楽しませてくれる。天保12年(1841)3月21日、義彦は寄留していた北埼玉郡増戸村の根岸家で57年の生涯を閉じた。

『御嶽菅笠』の道中記を日本橋から武蔵御嶽神社まで抜粋して紹介します。

日本橋
内藤新宿
中野と荻窪
柳沢宿
青梅橋
箱根ヶ崎宿
青梅新町村
青梅宿勝沼
青梅宿ー1
青梅宿ー2

沢井
御嶽山

※参考資料

◎青梅市文化財ニュース 第388号

◎〔連載〕武蔵御嶽神社宝物シリーズ 29

◎御嶽菅笠・御嶽神社発行

◎青梅市観光協会パンフレット