登山客であふれる高水山の玄関口
週末の青梅線軍畑(いくさばた)駅。午前8時台から9時台のホームは、電車から吐き出された登山客であふれ、改札口に行列ができる。奥多摩エリアの名峰の一つとして知られる高水山(759m)の玄関口だからだ。近隣の小学生の遠足だったり、若者たちの登山デートだったり、結婚して子供を連れて再度登り、熟年者は孫とともにまた登る。季節を問わず、人生節目の舞台を演出してくれる愛される山だ。
高水山から岩茸石山(793.3m)、惣岳山(756m)を経て御嶽駅に下る9㎞ほどの高水三山コースは、展望ポイントがあり、岩場があり、部分的に急登で、尾根歩きのところもある変化に富んだルートだ。
食料調達ポイントの店、50年以上
その多くの登山客が立ち寄るのは、駅前に店を張って50年以上になる谷商店だ。ここが最初で最後の店だ。店先で登山前に腹ごしらえのおにぎりを頬張る人、パンを食べる人も。お菓子をリュックに詰め込んで途中の休憩に食べるのだろう。ペットボトルの水を仕込む人もいる。
時代を浮き彫りにする鎧塚と鉄橋
軍畑駅付近は鎌倉時代にこの地を治めていた三田氏の居城「辛垣城」のお膝元だった。永禄元年(1563)北条氏との「辛垣の戦い」で涙をのんだ三田氏の武者の刀や鎧など武具を埋めて供養した「鎧塚」が近くにあることから軍畑と名付けられた。駅舎には三田氏の家紋「三つ巴」の意匠が掲げられている。
軍畑駅の青梅寄りを流れる平溝川に架かる鉄橋「奥沢橋梁」も鉄道ファンの注目の舞台だ。これらは多摩めぐり(平成31年3月16日)で訪ねており懐かしさがあって立ち寄った。塚の重苦しさと鉄橋の重厚さに変わりはなかった。
堂々と建つ元名主の茅葺きの家
軍畑駅ホームの奥多摩寄りから見えた茅葺き屋根の民家に近寄ってみたくなった。代々林業を営んできた元名主の山崎家と聞いた。母屋を囲む重厚な門と白壁の塀と黒い板塀に遮られて広そうな庭の一部が覗ける程度だった。
林業で名主といえば、一帯の山域も領地としていた三田氏は米のほか、木材や漆、薪炭などで収益を上げていたことから、山崎家は領主に納める木材などを取り仕切っていたのだろうか。歴史を彷彿とさせる趣がある家構えだ。
粛然と佇む東光寺
山崎家の黒塀沿いに進んで青梅線の東光寺踏切を渡って、曹洞宗龍澤山東光寺の山門をくぐった。天和年間(1681~83)の火災で古文書などを焼失して開山開基は不詳だが、永禄元年(1558)に天寧寺(青梅市根ヶ布)の九山整重が開山したと伝わる。高さ43㎝あまりの木造の釈迦如来坐像を本尊にしている。貞享2年(1685)に5代将軍徳川綱吉から寺領3石を拝領したという。境内に人影がない分、粛然としていて身が静まった。
境内東側の高台に畑が広がっていた。その裾を青梅線が走る。多摩川対岸の河岸段丘には柚木地区の家並みが広がる。多摩川が作り出した地形的な特徴が目の当たりにできた。このV字谷にひときわ大きく広がるのが山崎家の茅葺き屋根(写真左)で全体が鉄道模型のように映った。
“いつか来た道”の梅咲く野に浸る
私が選んだ、この日のメインコースは青梅線の主に南側を並行する「青渭(あおい)通り」だ。初歩きの青渭通りで何に出合えるか……。
東光寺から青梅街道にいったん下りて軍畑駅入口交差点を右折した。LPガスや灯油を販売する横手商店の横手伸一郎社長は「この辺りの人は『黒地蔵さん』を敬愛している。その近くに長編小説『大菩薩峠』を書いた中里介山が一時期住んでいた」と耳寄りな話をしてくれた。
青梅街道を挟んだ横手商店の向かいは、多摩川の河岸段丘を象徴する二段構えの、高さ10m以上ありそうな石垣が壁になっている。その間の坂道を登った。青渭通りの始まりだ。軍畑駅の西隣、沢井駅の奥にある青渭神社まで、ざっと2㎞の道のりだ。
坂を登り切った地点に畑の軟らかい土が広がっていた。一灯を照らす満開の白梅一本が春の陽気を増幅させた。青渭通りを歩くのは初めてだが、のどかな沿道の風情は“いつか来た道”のようで新型コロナウイルスの感染騒動やテレビで見た西方の国に響く砲撃音をいっとき忘れそうになる。
6つの石を接合した「黒地蔵さん」
畑から数十メートル西方の民家の隣にお堂があった。標示板の文字が発色して読めない。居合わせた近所の女性は「ここが『黒地蔵さん』です」と教えてくれた。高さ167㎝の石像だ。右手に錫杖を持ち、左手に宝珠を捧げた僧形だ。一般的な石仏は一つの石を刻むが、黒地蔵は頭部、胴体、両腕、両脚の6個の石をそれぞれ刻み、接合している。六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道)を表したものか。
お堂にあったItoさん記名の案内書によると「黒地蔵さん」の形状は印籠形とも呼ばれ、市内では唯一の形態だそうだ。台座と足部は差し込みで固定されている。かつては、上部を膠で接合していたのではないかとItoさんは見ている。顔や手、法衣は簡素ながら流麗な線で表しており優しさに満ちている。
Itoさんの資料によれば、文政3年(1820)までに植田孟縉がまとめた武蔵国の地誌「武蔵名所図会」に記してあるように「大同二年(807)造立の由を伝うるのみにて年号、銘文等見えず。近年までは雨覆なく霜露に晒されて」いたそうだが、当時すでに近郷の僧俗群衆は小堂を建てて安置するといっていたとも記す。いまコンクリート製の立派なお堂をいただき、近くの人たちが掃除などをしている。その心の内の一端を表したように絵馬が数多く奉納されていた。
静寂な地に「黒地蔵文庫」設けた介山
黒地蔵に因んで「黒地蔵文庫」を設けたのは中里介山だった。羽村に生まれ育った介山は、都新聞に連載していた長編小説「大菩薩峠」が超人気で高尾山の麓、妙音谷千年樫の下でのびやかに暮らして教育機関などを作るユートピアを構想していた。麓の静寂を突き破った高尾山のケーブルカー敷設工事でこの構想が打ち破られた。
昭和2年(1927)、黒地蔵に近い谷久保沢に移り住んだ介山は、高尾山麓でできなかったユートピアづくりに再度夢見て草庵を開いた。図書室や武道場を開放した「隣人道場」も置いた。やがて、ここでも騒音に悩まされるようになる。隣人道場の足下で青梅鉄道(現JR青梅線)御嶽駅までの延伸工事が始まったからだ。道場の下でがけ崩れも起き、介山の堪忍袋の緒が切れた。空に向かって護身用のピストルを発射してしまった。
これがきっかけで介山は奥多摩での理想郷づくりを断念した。昭和3年、故郷の羽村へ戻って吉田松陰の松下村塾に倣って農耕と塾教育を併合させた西隣村塾を興した。羽村に移り住んで16年後、介山は腸チフスで永眠、59歳だった。羽村市の禅林寺墓地に眠る。
林間に射す柔らかな光の環
谷久保沢は、黒地蔵の背後にある惣岳山の山稜から出た水が集まって多摩川に注ぐ。沢沿いの林道を歩いた。途中で頭上に架かった青梅線の桁橋を電車が通過した。その音は耳をつんざき、山が割れるようなすさまじい鉄の音だった。
だが、奥まった林道の様子は違った。生活音がない。聞くのは水が流れる沢の音と鳥のさえずり。日光は杉の樹間を通り、路面にいくつもの光の環を重ねていた。こんな環境に身を置いた介山は、自らの心に世を映したのだろう……。しかし、介山の理想郷づくりは騒音にかき消されてしまった。
多摩川から救い上げた「薬師さま」
青渭通りから枝分かれする道は、青梅街道に下るもので、先へ進むには一本道。右手の民家脇にあった細い登り階段が目に入った。階段は先でなくなり、登れないか? 来た道の10mほど先にあった薬師堂入口の表示に誘われて坂道を登った。青梅線の薬師道踏切を渡った先の高台に沢井薬師堂があった。踏切は薬師堂専用だ。お堂は“村のお薬師さま”といった雰囲気で4~5間の小さい建物だ。手水鉢に設えられた高さ30㎝ほどの「洗い地蔵」が迎えてくれた。
薬師堂の創建年は分からない。祭ってある薬師如来像は高さ40㎝あまりで、弘法大師の作と伝わる。多摩川を流れているのを引き上げたものだという。江戸時代中期の寛保2年(1742)に小澤酒造の先祖にあたる小澤太兵衛さんが薬師堂を再建して以来、地元の人々が「薬師さま」を崇めて来た。
例年、正月には近隣の人たちで境内を埋め尽くすだるま市(1月12日の青梅だるま市開催前の日曜日ごろ)が行われている。酒が振る舞われ、参詣者が多かった往時のまま、いまも受け継がれている。
道端のお地蔵さん ほのぼの
青渭通りに戻り、ほどなくして民家が途切れたあたりの道端にお地蔵さんがいた。顔がにこやかで、雨風がしのげる造りの祠で安心しているような優しく明るい表情に癒された。春の陽気も手伝って、静かでのびやかな青渭通りをそのまま映す格好のお地蔵さんだ。
青渭通りの先を塞ぐようにあった青梅線の沢井ガードをくぐると、河岸段丘上の、狭いながらも平坦地に出た。鉄路は右手から左手に変わり、間もなく沢井駅だ。
沢井駅からの青渭通りの様子は次回に。青渭神社の姿が楽しみだ。