青梅宿の性格と特徴
江戸から青梅を通って、甲府盆地へ向かう道が旧青梅街道である。旧青梅街道は江戸時代初めの頃は、成木の石灰を江戸城建築用に運搬するために開かれた道で、成木と江戸を結ぶ道であったので「成木街道」と呼ばれていた。
青梅は江戸の後背地としての役割を担うようになり、成木地区の石灰が成木街道を通らず、川越へ向かうようになってからは、成木街道は「青梅街道」と呼ばれるようになった。また、青梅と氷川(現奥多摩)や甲府盆地との往来が盛んになるにつれて、甲州への近道として利用する旅人が多くなり「甲州裏街道」とも呼ばれた。
江戸時代中期に入り、日原の「一石山」や武州御嶽山への信仰が盛んになると、参拝者や行者で賑わい、小河内の鶴の湯への湯治客や旅芸人、行商人まで通るようになり、青梅街道は益々賑わったといわれている。
「御嶽菅笠」によると、上宿(現上町)~下宿(現本町)までのわずか1.5㎞ほどの間に10軒もの旅籠屋があったと書かれている。
※御嶽菅笠は、天保5年(1834)齋藤義彦氏により製作された日本橋から青梅の御岳山までの旅のガイドブックである。
さらに青梅宿を発展させたのは市であった。青梅の市は六斎市で、2の日と7の日。つまり2日・7日・12日・17日・22日・27日で毎月6回開かれていた。市が発展すると「青梅縞」を中心に、炭や薪、穀類や野菜なども取引が行われ、江戸からの縞物買い付け商人や近郷の人達で賑わったといわれている。
旧青梅街道の地図
1.青梅駅前ロータリーの先に東西に延びる道が、旧青梅宿の真ん中を通る旧青梅街道である。旧青梅宿は、御嶽菅笠に旅籠が10軒描かれており、青梅縞の買い付けや、御嶽山詣、日原の一石山詣の旅人で賑わったと思われる。
青梅宿から青梅駅を見る
2.旧青梅宿の西の端から勝沼、新町、方面に旧青梅街道を歩く。
西端には、徳川家康が関東に入国した際に八王子に代官所(代官大久保石見守長安)が設置され、更に近隣の主要地にはその出張所にあたる陣屋が置かれた。その一つが森下陣屋である。
森下陣屋の支配地は旧三田領(現在の羽村市以西の多摩川上流域)にとどまらず、加治領、高麗領、毛呂領(いずれも八高線に沿った埼玉県内)及び、山の根二万五千石と称されていた。
陣屋跡には熊野神社があるが、代官大久保石見守長安、大野善八郎尊長らが陣屋の鎮守として慶安年間(1648~1652)に祀られた。
陣屋跡の東、左側が
3.「リカーステーション岡崎」にある駅の標識。その下には、中武馬車鉄道の駅が有った事を記した石碑が建っている。これは、御当主の岡崎敬賢(よしたか)さんのお母様の米寿記念に建てられたもの。母・あきさんの誕生日は、中武馬車鉄道の開通日と同じ明治34年(1901)9月であったそうだ。実際の停車場は、旧青梅街道を挟んだ反対側に有ったそうだが、造り酒屋をしていた岡崎家の敷地内には、酒樽を乗せるために引き込み線があったという。
中武馬車鉄道森下(青梅)駅跡の碑
リカーステーションの隣が
4「.旧稲葉家住宅」(東京都指定有形民俗文化財)は、江戸時代に青梅宿の年寄を勤めた稲葉家の旧宅。青梅でも有数の豪商で、木材商や青梅縞の仲買問屋を営んでいた。「店蔵」と呼ばれる土蔵造りの母屋は建築様式から江戸時代後期に建てられた。
東に進むと右側に
5.「柳屋米店」は、初代が亡くなったのが元禄13年(1700)と言うから青梅きっての老舗。現当主の小林康男さんは13代目である。代々いろんな商売をしてきたそうで、現在は米とお茶を扱っている。建物は明治7年(1874)に建てられ、周囲に無言の存在感を放っている。
その先の左側に
6.「瀧島家住宅」は、赤いトタン屋根と漆喰壁のコントラストが美しい。2階部分の窓が二つあるのは珍しい造りだ。
交差点の先の左側に
7.「株式会社小峰製作所」は、昭和初期に増築されたショーウインドウは、石を重ねた土台に箱型のガラスケースを乗せたもので、当時流行のデザインでもあった(現在は焼き肉店に成っている)。
更に東に進み、青梅市民会館の先の右側が
8.「柏倉洋品店」は、戦後に建築されたと思われる柏倉洋品店。外観は勿論店名やロゴマークのデザインが昭和の匂いを感じさせる。(建物は残っているが今は洋品店では無くなっている)
柏倉洋品店跡の建物
旧青梅宿に残る旧青梅街道の道路標示
9.「ほていや玩具店」の2階は人造石でバルコニーをつくり、全体を銅板で飾りつけた看板建築が見所だ。(建物は残っているが今は玩具店では無くなっている)
ほていや玩具店跡の建物
10.「ホテイヤ傘店」は、江戸時代の天保年間から約180年続く老舗である。現当主の荒井亮太郎さんで13代目。昔は職人を置いて青梅傘の製造販売をしていた。青梅傘は青梅の特産品の一つ。周辺で採れる脂肪分を含んだ黄土を塗ったので黄ばんだ色をしていて、丈夫で長持ちしたという。
左側にある
11.「力屋」は、店先からあふれんばかりに祭り衣裳が並べられている。元々創業70年の洋品店だが、いつの間にか祭り関連の衣裳、グッズが増えてしまったそうで祭りシーズンだけでなく1年中置いている。
右側の
12.「白木屋」は、江戸時代に青梅縞を集めて江戸の白木屋に送っていた。
13.「昭和レトロ商品博物館」は、昭和30~40年頃のお菓子や薬などの商品パッケイジを中心に、おもちゃやポスター、ドリンク缶など懐かしい生活雑貨がずらりと並んでいる。元は家具屋さんだったという木造の建物もなかなか見応えがある。2階では、小泉八雲作の『雪女』の原点が青梅に伝わる伝説にあったという資料の展示も行われているので覗いて見ては如何でしょうか!
左に鎮座するのが住吉神社
14.住吉神社は、応安2年(1369)。延命寺の開山季竜が延命寺創建にあたり、寺背の稲荷山(現住吉神社鎮座地)に故郷摂津国住吉大社の神を勧請した。社地は市の中心、うず高い離れ山で、往古稲荷山と称していたが永正10年(1513)三田弾正忠氏宗、政定父子が拝殿を再築、種々の神宝を奉納し、青梅村総鎮守となしたときに3月28日を祭日とした。(明治5年、太陽暦採用により4月28日となる)。
15.「昭和幻燈館」は、かつて青梅の街にあった映画館の看板絵師だった久保板観さんによる映画の看板と、映像美術などの造形を手掛ける山本高樹さんによるジオラマを展示。今ではもう見られなくなった昭和が再現されている。
東に進むと
16.青梅宿入口の『枡形』。江戸時代の初めに制定された宿場は、一種の城塞の役割も持たされて整備され、宿場の出入口には必ず「枡形」が設けられた。宿場の「桝形」とは、街道を二度直角に曲げ、外敵が侵入しにくいようにしたものである。ここから東が勝沼宿。
17.枡形の先の左側が旧橋本屋旅館。今は廃業し建替えているが、創業は明治3年(1870)。創業当時は山梨からの泊り客で、昭和30年代は織物関係の人達で賑わった。青梅の市街地ではここが唯一になっていた旅館だ。
更に東に歩くと
18.履物の「大黒屋履物店」昔ながらの履物を置いている。
19.旧青梅街道を東に進みJR青梅線の踏切を渡り、(鉄道の開通により旧道が一部無くなっている)JR東青梅駅前の信号を左折する道が、旧青梅街道だ。「旧六万薬師商店街」の中を進むと信号の左側に六万薬師堂がある。
20.「六万薬師堂」は、天正18年(1590)に悪疫が流行したため、天寧寺8世正翁長達が法華経六万部を誦(となえ)て、疫病の終息と師岡城戦死者追福の祈祷をした。また、天寧寺開山の一華文英の所持していた薬師如来を本尊として建立したと伝わる。薬師堂の隣には井戸があり、旅人や馬の喉を潤したと言われている。
21.先に進むと旧青梅街道と川越街道の「追分」(三叉路)が有る。古くから追分と呼ばれ、旧青梅街道と川越街道の分岐だった。右の方に進めば箱根ヶ崎や田無を取って江戸へ向かう。一方、左の方に進めば扇町屋(現入間市)を通って川越へ向かった。
追分にある高さ55cmの道標は、天明6年(1786)3月に建てられており、「右江戸道、左はんのふみち加王ごゑ」と刻まれている。
22.右「江戸道」の旧青梅街道はこの先で、区画整理で一部無くなったが東青梅市民センターの前を通り「いなげや」の所まで繋がっているが、その先は、区画整理で無くなっている。更に東に向かい、鈴法寺(れいほうじ)手前で左に大曲して鈴法寺跡の所で現青梅街道(旧青梅街道)に出る。
23.東青梅市民センター前の旧青梅街道
24.スーパーいなげやの所の旧青梅街道
25.鈴法寺跡、鈴法寺は、現埼玉県幸手市の藤袴に創立。天文元年(1532)に現川越市郊外の葦草に移されていたものを、第20世月山養風が、新町村を開村した吉野織部を頼って当地に慶長18年(1613)移転したといわれる。鈴法寺は普化宗(ふけしゅう)括総派の本山、かつ普化宗13派120数ヶ寺の触頭として、普化宗勤詮派本山の一月寺と共に大いに栄えたものの、明治5年(1872)4月、明治政府に廃宗廃寺とされ、明治28年(1895)には火災にかかり、現在は歴代住僧の墓石を残すのみである。旧青梅街道は、ここで大曲していたため、「鈴法寺の大曲」と言われている。
鈴法寺跡から200m位先の左側に茅葺屋根の旧吉野家住宅がある。
26.旧吉野家住宅は、江戸時代初期に新町村(現青梅市新町)を開拓し、代々名主を勤めた吉野家の旧宅である。この建物は江戸時代末期に建てられた物で、名主階層の住宅として「整形六間型(せいけいむつまがた)」と呼ばれる多室間取りの型式をよく伝えている。
昭和50年(1975)に所有者から青梅市に建物が寄贈され、昭和51年(1976)に東京都の有形文化財(建造物)に指定された。この先100m位左側に東禅寺がある。
27.東禅寺(金鍚山)は、新町にあり、本尊は関東十三鉄仏といわれる聖観音立像である。元和2年(1616)吉野織部之助が新町開拓の時、羽村一峰院から秋和和尚を招き開創したが、建長寺二十八世覚海禅師を勧請開山とし、建長寺の末寺となった。本堂は昭和32年(1967)の改築であり、庫裡は平成元年、客殿は同2年、あわせて境内お整備も行われた。境内に明治5年廃宗廃寺となった鈴法寺の薬師堂が移築され、本堂に揚げる「武叢(そう)禅林」の木額は鈴法寺の遺品で、これは市有形文化財に指定されている。
旧青梅街道は東に向かい箱根ヶ崎(現瑞穂町)へと続いているが、拡張され現青梅街道となっている。
※参考資料
◎青梅を歩く本(青梅市教育委員会 編)
◎ぶらり青梅宿(青梅市商工観光課他 発行)