府中に出かける機会があり、大國魂神社に参拝のために立ち寄ったところ酉の市でした。大國魂神社の境内社には 大鷲神社(おおとりじんじゃ) があります。今年は11月9日と21日がお酉様で、ちょうど一の酉でした。参道には提灯が飾られ、訪れる人達が撮影に足を止めていました。コロナ禍のため昨年に続き参道の露店は熊手商のみですが、「商売繁盛!」の景気のいい掛け声がどの店からも上がっていました。
境内の神楽殿では、稲城の山本頼信社中(やまもとよりのぶしゃちゅう)による「江戸の里神楽」の奉納が行われるようで、午後3時・5時・7時の3回の上演です。またとない機会なので、少し時間をつぶして5時の開演を待つことにしました。
江戸の里神楽
江戸の里神楽(えどのさとかぐら)は、笛、大拍子、長胴太鼓を3名の基本とする囃子に、仮面をつけ、時に素面で古事記、日本書紀の神話を演じる無言劇の形態をとる神楽の総称で、江戸時代から神楽を専門に行う「神事舞太夫(しんじまいたゆう)」によって、江戸や近隣の各地の神社祭礼で演じられてきました。その始まりは、江戸時代初期に伝わった鷲宮(わしのみや)神社(埼玉県)の「土師一流催馬楽神楽(はじいちりゆうさいばらかぐら)」とされています。文化文政期(1804~1830)に最も隆盛し、明治維新に際しその多くが四散しましたが、それでも明治初期には江戸に三七家が存続していました。その後さらに衰退し、現在では主要な社中として若山(台東区蔵前)、間宮(品川区東大井)、松本(荒川区西日暮里)、山本(東京都稲城市矢野口)の四社中が、1994年12月13日に重要無形民俗文化財に指定されており、活動を継承しています。
山本頼信社中
稲城市矢野口の穴澤天神社(あなざわてんじんしゃ)で毎年8月下旬の例大祭の日に奉納されている里神楽は、穴澤天神社の神官である山本家に代々伝承されているもので、初代山本権律師弘信(やまもとごんりつしひろのぶ)が創始した応安6年(1373)までさかのぼり、現在の家元山本頼信氏は十九代にあたります。
山本家の近くにあった国安神杜(くにやすじんじゃ)で神楽を舞ったのが始まりと言われ、『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』(天保(てんぽう)7年刊)には、国安神社と仮殿(かりでん)・社人(しゃじん)の建物が描かれ、この仮殿として描かれた建物が、祈祷殿(きとうでん)としての機能をもち、諸事の祈祷や神楽を舞う場所として使われたのではないかと考えられています。
山本家には江戸時代中期の写本と思われる『神事式名録(しんじしきめいろく)』という神楽の台本のほかに、明和(めいわ)6年(1769)に記された『岩井神杜鈴森御神楽格式(いわいじんじゃすずがもりおかぐらかくしき)』という古文書(こもんじょ)(神楽の演目と持ち物・形相(ぎょうそう)を記載)など数々の資料が残されており、江戸時代から現在に至るまで里神楽が綿々と受け継がれてきたことがわかります。
山本頼信社中の江戸の里神楽は、穴澤天神社のほかに府中市大國魂神社例大祭をはじめ、多摩川流域の約20か所の神社祭礼でも奉納されています。現在、山本頼信社中では40数座の里神楽を演じています。
演目の内容は、天之浮橋(あめのうきはし)、黄津醜女(よもつしこめ)、墨江大神(すみのえのおおかみ)、八雲神詠(やくもじんえい)、天之磐扉(あまのいわと)など古代神話を題材にしたものがほとんどですが、明治以降につくられた鬼女紅葉の伝説を題材とした紅葉狩、おとぎ話をもとにした稲葉(いなば)の素兎(しろうさぎ)なども含まれています。
午後4時30分を回りうす暗くなったころ松明がたかれました。お囃子も始まり舞台の雰囲気を盛り上げていきます。
5時の演目は、「日向之阿波岐原身禊祓」(ひむかのあはきのはらみそぎはらい)でした。
「日向之阿波岐原身禊祓」
「日向之阿波岐原身禊祓(ひむかのあはきのはらみそぎはらい)」は、阿波岐原にて、黄泉の国から逃げかえった伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)の禊によって、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つくよみのみこと)、須佐之男(すさのおのみこと)が誕生する神話が演じられます。
21日が二の酉で神楽も演じられると知り、3時の部を観に行きました。その時の演目は、「墨江大神」(すみのえのおおかみ)でした。二の酉は日曜日とあって、大鷲神社(おおとりじんじゃ)は参拝の人達が長蛇の列でした。
「墨江大神」
墨江大神とは住吉三神ともいわれる3人の神様のことで、伊邪那岐大神の禊により瀬の深いところで底筒之男神(そこつつのおのかみ)が、瀬の流れの中間で中筒之男神(なかつつのおのかみ)が、水表で上筒之男神(うわつつのおのかみ)が、それぞれ生まれ出たとされます。演目「 墨江大神 」は、住吉三神による舞です。
神楽を観たのは初めてでしたが、神話を元にしていて馴染み深いものが多く親しみやすいと思いました。境内では「府中愛菊会」による菊花展も行われており、丹精こめた菊の花が晩秋の境内に彩を添えていました。
参考:稲城市ホームページ、weblio辞書