江戸の大泥棒(義賊?)といえば、鼠小僧次郎吉、寛政9年(1797)~天保3年(1832)は、江戸時代後期の盗賊。本名は次郎吉(じろきち)。
本業は鳶職であったといわれる。大名屋敷だけを狙って盗みに入り、貧しい人達に盗んだ金を施したとされることから、後世に義賊として伝説化された。
天保3年5月5日(1832)(日付については8日などの諸説あり)、日本橋浜町の上野国小幡藩屋敷に盗みに入ったが、捕縛され江戸市中引き回しの上で、千住小塚原刑場で処刑された。墓は両国の回向院にあり。
その江戸時代に鼠小僧次郎吉より100年もの前の武州青梅に裏宿七兵衛という大泥棒(義賊?)がいた。本業は農民。
中里介山の長編小説「大菩薩峠」の主人公は、机龍之介であるが、主人公と関わりを持つ裏宿七兵衛という、足の速い泥棒(義賊)が第1巻に登場している。この小説で裏宿七兵衛が世に知られる様になり、伝説の泥棒に過ぎなかったが、その裏宿七兵衛は、「谷合見聞録」により実在の人物であることが確認された。
中里介山の大菩薩峠第1巻
※「谷合見聞録」とは、武州三田領二俣尾(現青梅市二俣尾)の名主、谷合七兵衛吉治(谷合家七代目)が、元禄11(1698)より延享・元年(1744)に至るまで、47年間の見聞を書き残した。昭和26年(1951)、郷土史研究家の清水 利先生により谷合家の土蔵より発見され、氏により解読されたものである。
裏宿七兵衛の伝説
享保、元文(1716~1739)の頃、青梅村裏宿に七兵衛という農民がいた。義侠心に厚く常日頃から貧しい者に恵みをすることを楽しみとしていたという。裏宿七兵衛はまれにみる俊足で一反(約10m)のさらし木綿を首に巻いて地にもつけずに風のように走り、笠を胸にあてて歩いてもその速さで下に落ちなかったなどともいわれている。
七兵衛地蔵に飾られている俊足の裏宿七兵衛
裏宿七兵衛は俊足を生かし、遠方の悪徳商人宅などに盗みに出向き、一夜のうちに甲斐、秩父、相模を引き返しては、盗んだ金品を貧者の軒先に恵み素知らぬ顔で日中は畑仕事をしたとの伝説がある。
「谷合見聞録」によると裏宿七兵衛一味は、元文4年(1739)10月4日、三ツ木村(現武蔵村山市三ツ木)に於いて、江戸代官上坂安左衛門、手代の長谷川儀助、火方奉行別所孫右衛門、組頭奥村藤九郎、以下配下の者に裏宿七兵衛他6人が一斉に逮捕された。
三ツ木の牢屋にての取り調べ
逮捕された裏宿七兵衛一味の取り調べに対し裏宿七兵衛は自分が親分であり子分の皆は最近引き入れたもので、今までの盗人は自分がやり一切の責めは俺が負うと言い張った。
代官手代の長谷川儀助は、裏宿七兵衛の潔さに感銘し、裏宿七兵衛一人を取り調べた後、11月15日牢屋にて打ち首に処し見せしめに、在の青梅の「笹の門」にさらし首とした。また、裏宿七兵衛の女房はほとんど七兵衛の正体を知らずに過ごしたということで、故郷の沢井(現青梅市沢井)の親戚へお預けとなった。こうして、武州多摩郡の大泥棒一家裏宿七兵衛一味は処分され解決した。
裏宿七兵衛関連の場所を歩く
裏宿七兵衛関連の地図
1,裏宿七兵衛地蔵
裏宿七兵衛が最後処刑されるに及んで、「自分は甘んじてこれを受けるが妻子にまで及ぶならば怨霊となって永久に地元を災いする」と言い残したといわれている。その後、時世は移り変わって七兵衛の所有した屋敷や畑はどうしたことか作物は実らぬばかりか次から次へと変わる所有者にも不吉な事が起こったという。明治になって文房具屋を開いた者があったが、主人が亡くなり「やっぱり祟りがある」というので、大正5年(1916)頃、西多摩郡役所に屋敷を寄付した。ところが、役所の新築工事に怪我人が続出し、その後も度重なる不可解な事件が起きて困り抜いた挙句、地元の関係者有志で供養として「裏宿七兵衛地蔵尊」を昭和7年(1932)、裏宿七兵衛の畑だった場所に奉祀した。以来この付近、町内はもとよりどこにも何ら不吉なことも起こらず、地元の繁栄にも貴重な守護神、健脚地蔵尊として祟敬され今日まで及んでいる。
この地蔵尊にお参りする人達は足腰の悪い人が多いといわれている。
裏宿七兵衛地蔵尊
2,七兵衛通り
青梅街道の一つ北の路地に名前を付ける時、土地の人に愛されている七兵衛の名前を付けたとされる。裏宿七兵衛地蔵尊と裏宿七兵衛公園(七兵衛の屋敷跡)を結ぶ最短の道にあたる。
七兵衛通りの標識
3,裏宿七兵衛の屋敷跡
屋敷跡は、昭和24年(1949)の都営バス荻窪~青梅間開通の際にはバスの車庫として活用することが計画されたが、祟りを恐れた周囲の反対により中止された。昭和35年(1960)に敷地内に供養塔と石碑が建てられ、その後は公園として整備された。
裏宿七兵衛の供養塔
裏宿七兵衛の供養碑
裏宿七兵衛公園入口
4,笹の門(かど)
青梅宿の入口で、別当沢(笹川)を渡す石橋があり、黒門と呼ばれ、御嶽神社の一の鳥居があったところといわれている。今でも道路が「枡型」に曲がり当時の宿場の雰囲気を残している。
青梅宿の入口で正面の場所が「笹の門」といわれている場所
江戸時代の宿場入口にある「枡形」の道路が今でも残っている
5,宗建寺
仙桃山宗建寺は、青梅市千ヶ瀬六丁目にあり本尊は毘沙門天である。開山の一蓮社尭誉宗公上人は、宝徳2年(1450)3月示寂と伝えられる。初めは浄土真宗であったが二世覚林の代に改宗し、玉泉寺の末寺となった。慶安2年(1649)徳川家光より寺領一石七斗の朱印状を下付される。
俊足の泥棒・裏宿七兵衛の首塚がある。
青梅に伝わる話では、「笹ノ門にさらされた首は、一夜大雨があり、別当沢を伝って近くの宗建寺に流れ着き、それを当時の和尚が手厚く葬った」とされる。が、宗建寺の住職がこれを憐れみ、密かに笹ノ門から寺に移して埋葬した、というのが真相ではないかともいわれる。
マラソンランナーなどが良く訪れるといわれていて(横綱北の湖や瀬古俊彦、石毛宏典など)、足を負傷した力士・スポーツ選手が墓参に訪れたといわれてる。今なお墓参者が絶えない。
別当沢と宗建寺入口の門
宗建寺本堂
裏宿七兵衛の墓の入口
裏宿七兵衛の墓
宗建寺にある笹の角地蔵尊
皆さんの中で、足が速くなりたいと思っている人、足の怪我を治したい人は一度お参りしてみては如何でしょうか。
※参考資料
- 青梅市文化財ニュース(青梅市郷土資料室)
- OMEナビ 青梅資料館
- 大菩薩峠第1巻
- wikipedea等インターネットの資料