狭山茶復興へ三人の挑戦者がいた

今回は新茶の季節に因んで、地元の「狭山茶」を紹介します。

青梅市今井地区から入間市金子地区に広がる富士山をバックにした「狭山茶畑」

狭山茶の主産地である埼玉県西部では、いつから茶の栽培・製茶が始まったのでしょうか? これについては諸説あるが、いずれも確かな史料が見つかっておらず明らかではありません。しかし、中世の文献に、現在の埼玉県西部で生産されたと考えられる「河越茶」と「慈光茶」が登場する。これらの茶は、現在の狭山茶の起源になった茶と考えられる。

 

1.唐から伝わった煎茶法(奈良時代・平安時代前期)

中国原産とされる茶が日本へ初めてもたされた時期は明らかではないが、8世紀の喫茶道具が奈良で出土している。日本で茶について記された最も古い公式記録は、「日本後紀」にある弘仁6年(815)4月の記録で、近江国韓埼(からさき)(現滋賀県大津市)を行幸した嵯峨天皇に、大僧都永忠(だいそうずえいちゅう)*奈良・平安期の僧で唐に留学し帰国。が「手ずから茶を煎じ奉御す」と記されている。また、同年6月には、嵯峨天皇が畿内(大和・山城・河内・和泉・摂津)並びに近江・丹波・播磨などの国に茶を植えさせ、毎年献上することを命じたとも記されている。同じ頃、平安京の大内裏には大内裏茶園があり、蔵人所の統括のもと茶が栽培・製茶されていた。*蔵人所・・平安初期に設置された令下(りょうげ)の官。天皇と天皇家に関する私的な要件の処理や宮中の物資の調達や警備などを司った。

永忠のほか、天台宗を開いた最澄(伝教大師:767~822)、真言宗を開いた空海(弘法大師:774~835)にも、茶にまつわる詩や手紙が残されている。彼らは皆、遣唐使として中国(唐)に渡った僧たちである。嵯峨天皇は唐文化の輸入に熱心だったため、彼らが中国から伝えた茶を重宝し、国内での生産を目指したと考えられる。

当時、唐で作られていた茶は固形の団茶(餅茶)だったと考えられている。喫茶法は、団茶を砕いて薬研で粉末に挽き、湯を沸かした釜に入れて煎じる「煎じ茶」だった。このように茶を「煎じる(煮出す)」方法を「煎茶法」という。『日本後紀』の中で、永忠が嵯峨天皇に茶を「煎じ奉御す」とあることからも、煎じて(煮だす)飲む「煎じ茶」だったと考えられる。しかし、日本国内で茶が生産されるようになると、団茶に加工せず、茶葉のまま乾燥させ、これを煮出して飲む方法も行われていたと考えられる。

平安時代に於いて茶は、宮廷で行われる法会(ほうえ)の後に、饗応として僧たちに振る舞われたり、天台宗や真言宗などの密教寺院の儀式で修法壇の供物として用いられたりしたことが史料から明らかになっている。

 

※文献に見える「河越茶」・「慈光茶」

「河越茶」は南北時代に成立したとされる『異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)』に、「慈光茶」は室町時代後期に成立したとされる『旅宿問答』に、それぞれ初見される。

『異制庭訓往来』・・南北時代の延文~応安年間(1356~75)頃に成立されたとされる往来物(教科書)。密教兼修の僧・虎関師錬(こかんしれん)(1278~1346)が著したとされるが、天台宗の僧・玄慧(げんえ)(?~1350)が著したとする説もある。書状が各月往返2通ずつ、12ヶ月分で計24通を納めていて、3月分が茶に関するものである。闘茶会を催す心構えや方法を中心に述べ、その中に中国や日本の茶産地が列挙されている。

『旅宿問答』・・永正4年(1507)頃の成立とされる問答体の雑談書。武蔵国府別符郷(熊谷市)の神職である彦右衛門が、越後国で上総国の僧心玄と同宿し、宿屋の主人を交えて一夜を語り明かす形式を取っている。『旅宿問答』に登場する茶産地と銘茶は、天台宗の僧・玄慧(?~1350)が著したとされる『遊学往来』とほとんど一致するが、『遊学往来』では「武蔵ノ慈光茶」ではなく「武蔵之河越」となっている。

 

2.河越氏と茶の関係

河越館跡の発掘では、天目茶碗・茶臼・茶壷・茶入・風炉などが出土しており、舘で茶が飲まれていたことは確実視されている。鎌倉時代中期以降、河越氏は北条得宗家と密接な係わりを持つようになり、河越荘内にも北条氏が帰依した真言律宗(西大寺流)や禅宗などの文化が流入している。鎌倉の都市的文化を享受する富裕武士であった河越氏が、当時鎌倉で流行していた喫茶の風習に無関心だとは思われない。河越氏の時代に、入間郡地域に広がる河越荘内の寺院や武士の館で茶の栽培や製茶が行われ、全国に知られる東国の茶産地となった可能性が高いと思われる。

 

3.都幾山慈光寺(埼玉県比企郡ときがわ町西平)と茶の関係

栄朝(1165~1247)は、慈光寺の別当厳耀(げんよう)のもとで出家し、ついで栄西に師事して天台密教と禅(臨済宗)の修めた禅密兼修(ぜんみつけんしゅう)の僧。栄朝は、建久8年(1197)に後鳥羽天皇の勅命を受けて慈光寺山内に塔頭として禅宗寺院である粘華山霊山院(ねんげさんりょうぜんいん)を開いている。栄朝は、晩年の寛元3年(1245)5月に慈光寺に銅鐘を奉納している。

永朝のもとで修業した円爾(えんに)は、その後宋に渡り、帰国後、円爾は郷里に近い駿河国穴窪(静岡県葵区足久保)に茶をもたらしたという伝承があり、静岡茶の祖といわれている。

関東における天台宗の拠点であった慈光寺には、密教の修法に用いるため中世以前から茶がもたらされていた可能性がある。加えて、中世には栄西-栄朝-円爾という師弟関係から、慈光寺に宋式の点茶法がもたらされたと考えられる。慈光寺は鎌倉幕府軍の源氏や九条家と関わりが深く、鎌倉や京都の文化が直接流入する文化センターの機能を果たしたと考えられる。この時代、鎌倉や京都で流行し始めた点茶法の喫茶習慣と茶の栽培が、慈光寺を起点として、寺院と僧侶のネットワークや武蔵武士を通じて武蔵国内へと広がったと思われる。

慈光寺

4.釜炒り茶の伝来

禅宗の一派である黄檗宗(おうばくしゅう)の僧・隠元(1592~1673:中国福建省出身)は、承応3年(1654)に中国(明)から来日し、寛文元年(1661)に京都宇治に黄檗山萬福寺を創建している。隠元の来日には多くの中国僧が随行し、明時代の中国文化を直に伝えた。その中に、これまでの抹茶と異なる製茶法である釜炒り茶が含まれていた。釜炒り茶は、茶の葉を鉄の釜で炒り、莚(むしろ)の上などで揉んでつくる製茶法である。茶を粉末にせず、急須などに葉茶をいれ、湯を注いて成分を出す「淹茶(えんちゃ)法」という喫茶法で飲む。釜炒り茶は、現在でも中国茶の支流となっている。釜炒り製法は、隠元来日以前から九州に渡来した人々によって伝えられており、現在でも九州をはじめ西日本の各地でその製法が受け継がれている。

5.蒸し製煎茶の開発

江戸時代、抹茶(碾茶〔てんちゃ〕)の生産は、宇治の限られた茶師の特権で、一般には許されていなかった。江戸時代中期、山城国綴喜郡湯屋谷(現京都府宇治市田原町)の篤農家永谷宗円(1681~1778)は、抹茶に匹敵する新たな製茶法を開発しようと考え、従来の抹茶(碾茶)の蒸す工程と、釜炒り茶の揉んで乾かす工程を参考に、元文3年(1738)に蒸し煎茶という新しい製法を考案した。翌年、宗円はこの新製品を持って江戸の茶商山本嘉兵衛(現山本山)を訪れる。茶商山本は「色沢鮮緑、香気馥郁(ふくいく)」とした蒸し茶製法に驚嘆し、以後、江戸の茶問屋に高値で取引されるようになった。宗円は、この製法を自分一人のものにせず、広く公開し伝授したことによって、後世の名声を一身に集めることになった。永谷家に残る『古今嘉木歴覧』からは、蒸し製煎茶法(宇治製法)が全国の茶産地へと波及していった様子を知ることが出来る。宗円による蒸し製煎茶の開発は、日本茶業史上の大きな転換期となった。

 

6.この時代の埼玉県域の茶

戦国時代に、鎌倉府の崩壊で東国各地の五山派禅宗寺院が衰退し、されに戦乱によって無量寿寺が兵火にかかり、慈光寺が焼き討ちにあったりしている。当時、抹茶の生産や需要は寺院や武家に限られていたため、茶園を経営する有力寺院やその外護者である有力武士が衰退すると「河越茶」や「慈光茶」として名をはせた中世の抹茶産地も荒廃してしまったと考えられる。しかし、茶の栽培がまったく途絶えてしまったわけではなく、畑の畦畔(垣根)などに植えられた茶が庶民の番茶などに使用され続けたと考えられる。中世に名をはせた狭山茶ゆかりの茶処が衰退してから以降、埼玉県域の茶の主産地は1750年代頃まで県東部の埼玉郡や足立郡であった。当時の主産地でつくっていた茶は、煎茶とは違う番茶だった。番茶は、日本人と古くからの付き合いである茶で、その製法にはやや劣る質の葉を使って煎茶のように仕上げたものから、発酵させた阿波番茶のような物、煮たり茹でたりして作る物、枝ごと刈り取って日蔭干しにした粗製の日乾番茶まで多種多様なものがあった。

7.大都市江戸の茶事情

大都市江戸には、永谷宗円が考案した付加価値の高い蒸し製煎茶(青茶・煎茶)が宇治をはじめ各地の茶産地からも流入し、1750年代頃から次第に広まっていった。人々は、煎茶の水色、香り、味に引き付けられ、愛飲するようになった。煎茶は番茶とくらべて売値も高く、その需要が益々高まってきたことから、関東各地の茶生産地域でも新しい製茶技術の煎茶製法(宇治製法)を導入した茶づくりを模索する人達が現れた。

※永谷宗円と永谷家のその後・・・宗円は安永7年(1778)98歳で天寿を全うした。宗円の直径の子孫の一人(10代後)である永谷嘉男は東京で「永谷園」を創業した。

永谷宗円像

8.狭山茶復興への挑戦

狭山丘陵北麓、二本木村西久保(現入間市宮寺)の宮大工・吉川温恭(よしずみ)(1767~1846)、坊村(現瑞穂町)の剣士・俳人村野盛政(1764~1819)、加治丘陵の麓根通りの今井村(現青梅市今井)の農家指田半右衛門(?~1851)らは、いにしえの河越茶や慈光茶を、新しい蒸し製煎茶の技術を導入して復興することに挑戦していった人達で、彼らが復興した茶こそ、現在の「狭山茶」に直接つながる茶となった。

9.吉川温恭と村野盛政

明治9年(1876)頃に書かれた「狭山茶始記」(吉川家文書)によると。享和2年(1802)6月のある日、二本木村西久保に住む宮大工の吉川温恭が、家の近くの畑で妻と畑仕事をしていた。暑くて一休みしていたところ、畑の中に何時から在るか分からない二並びの茶が繁っていた。妻は、茶葉を摘んで前掛けに入れておいた。にわかに夕立が激しく降ってきたので二人は家に戻り、囲炉裏の埋火(うずみひ)に釜を掛け、妻が摘んできた茶葉を入れ、掻き回していたら、そのまま居眠りをしてしまった。目が覚めると、火加減がちょうど良かったのか、お茶が出来上がっていたという。翌朝、隣の坊村に住む友人、村野盛政が家に来たので、前の晩に作ったお茶を薬缶(やかん)で煎じて飲ませてみせてみたところ、村野はひどく感心して「なんて素晴らしい香りのお茶だろう!これはいったいどうしたの?」と問うので、吉川は、昨日のいきさつを村野に話した。二人は意気投合して、「よし、来年は春の新芽を摘んで茶を作ってみよう!」と約束した。こうして、二人で試行錯誤しながら作ったお茶の試作品を江戸の知人に送り、文化9年(1812)には江戸で試し売りもしていた。

吉川温恭(よしずみ)像

吉川が文化11年(1814)に、伊勢、金毘羅参りに出かけた際、宇治八瀬付近(現京都府左京区)で行われていた宇治製茶法の蒸し製煎茶作りの様子を見て、矢立(携帯用筆記用具)を使って野帳に書き留めた史料が『道中の日記』として今でも残っている。

道中日記

また、吉川温恭は、製茶技術を習得させるため、人を宇治に派遣して現地で数年間、実習させていたとも伝えられている。狭山丘陵の周囲に広がる武蔵野台地は関東ローム層という火山灰の土地で覆われ、土地がやせ、米作りが出来る土地が少くなかったが、お茶はこの土地でも良く育つことが二人は試作品を作ってみて分かった。剣術や俳諧を通じて、江戸の武士や文化人と交流があった村野や、宮大工の棟梁として各地の様子を見聞きしていた吉川は、江戸で宇治製法の「蒸し製煎茶」が高値で取引されることを知っていたから二人はこの土地で「蒸し製煎茶」法を確立しようと努力した。

本格的な『宇治製法』による蒸し製煎茶の製造に成功した吉川と村野は、文化13年(1816)に、作ったお茶を江戸日本橋の茶商山本山へ送った。このお茶を飲んだ山本山五代目山本嘉兵衛徳潤(1778~1819)は、「狭山でこれ程の素晴らしいお茶が出来るとは思っていなかった。これからも励みなさい! このお茶は、何も宇治に劣る所が無い。私もまた、このお茶を国内に広めよう。」と絶賛し、販路拡大に協力を約束したという。山本山は、品質向上の面でも、いろいろアドバイスしたと言われている。

お茶の仕切り書

10.指田半右衛門

狭山丘陵から離れた加治丘陵の麓根通りでも同じく文化年間(1804~1818)にお茶作りを始めようとしていた人物。

宇治の蒸し製煎茶法の習得には大変な苦労があったようで、指田家にあった『霜の花遺記』という文書は、その苦心を伝える大変貴重な資料である。半右衛門の息子である平右衛門の述懐をもとに、その子・伝吉が、祖父の業績を子孫に伝えるために記したものである。

指田は、入間郡の吉川作右衛門(*吉川温恭が製茶技術習得にため、宇治に派遣した人物ではないかといわれている。)という人物が京都の宇治で製茶法を伝習してきたと聞き、すぐさま吉川作右衛門に付き随って『宇治製法』を学んだ。しかし、3年学んでも満足出来ず、本場の宇治に行って習いたいと強く思い、家の仕事を妻子に任せ、神社仏閣を巡礼する姿に変装して摂津(大阪)へ旅立ったことが残されている。

摂津に着いた指田が宇治茶について探りを入れると、簡単に習うことが出来ない事が分かった。そこで指田は、知遇(知的障害)のように装って、宇治で一年間放浪生活をした。そんなある日、指田は慈善者と出会い、一富家(製茶業を営む大家)で下働きをすることになった。製茶場には他人が入ることは許されなかったが、半右衛門の行動に気を許した当主が製茶場の仕事に当たらせてくれた。指田は、製茶には何の興味関心もないふりをしながら、製茶の方法をしっかり脳裏に焼き付け製茶技術を習得し、四年の歳月を経て帰郷した。

指田は帰郷後、入間の吉川作右衛門、坊村の村野盛政、江戸の茶商山本徳潤らと相談しながら茶樹の増殖に努め、肥料も茶の風味が増す焼酎粕を導入するなどの工夫をこらし、製法を広めって行った。10年以上に及ぶ試行錯誤と苦労を伴った取り組みは、永谷宗円の蒸し製煎茶考案から実に80年の歳月を経て品質と量産化の目途が立ち、文政2年(1819)6月、江戸の茶商達と本格的な蒸し製煎茶の取引が始まったのである。

指田家に残る仕切書によると、文政4年(1821)頃から茶銘「雪乃梅、喜撰、山吹、霜乃花」等を江戸の茶商に出荷している。

お茶の仕切り書

明治13年(1880)、今井村の指田家の茶畑に1基の石碑『狭山製茶先哲記念標(碑文は出雲大社宮司大教正従五位千家尊福の書)』が、今井村だけでなく入間市宮寺周辺と根通り(霞川左岸の一帯)、瑞穂町などの広範な地域の茶業家146名の賛同を得て建設された。この石碑は、狭山茶の中でも加治丘陵一帯で生産されるお茶「根通り茶」の茶処の礎を築いた指田半右衛門の功績を今も伝えている。

指田家に残る「狭山茶先哲記念標」

11.海外輸出と狭山茶

幕府は安政5年(1858)、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダ等と和親条約や通商条約を締結し、重い「鎖国の扉」を開けることになった。横浜・長崎・函館が開港し、翌年6月から海外貿易が開始された。

貿易物資の輸出入は横浜を中心に行われ。日本の輸出主力品は、生糸・茶・玉糸・米・石炭等であった。狭山茶産地は横浜に近いことから茶業発展の好機とみて、積極的に横浜へ出荷していった。入間郡堀之内村(現所沢市)の茶師、志村善次郎や横浜開港と共に横浜へ出店した入間郡扇町屋(現入間市)の豪農商、下倉屋太七(長谷部太七)らは、いち早く横浜への売り込みをした人物である。

地元の商人らが直接横浜との関係を築いていく一方、八王子商人が介在して「日光脇往還(通称シルクロード、ティーロードともいわれている)を荷送し、横浜へ出荷することが多かったため、茶商らは狭山茶ことを「八王子茶」とも呼んでいた。

輸出用狭山茶ラベル

12.直輸出と「狭山茶」ブランドの確立

明治8年(1875)、埼玉県域の製茶業者30名が集い、黒須村(現入間市)に設立された狭山製茶会社(狭山会社)は、茶の直輸出を目指した会社である。社長には繁田武平義光が就任した。この会社は横行する粗製濫造の防止に努めて、国益の向上を図り、また製茶業者の保護育成と収入を増やすことを目的に設立された。外国商館を介在することなく、日本人だけで製茶の直輸出を始めた会社としては、日本最初のものである。このフロンティア会社設立を契機にして、茶の名称が「狭山茶」に統一され、以降、狭山茶ブランドとしてその地位を確立した。狭山会社の経営は、わずか8年余りで終わったが、その後も入間市域に、和賀川会社(明治15年)、金子商会(明治17年)、埼玉県製茶直輸出会社(明治18年)、狭山商会(明治21年)などが設立され、製茶の輸出が試みられた。一方で、狭山茶の品質を国内外に周知させ、製茶出荷の増大を図るために、組合の結成、栽培、製茶技術の向上のための伝習所の設置、内国勧業博覧会や製茶共進会への積極的な出品が行われた。明治26年(1893)にアメリカのシカゴで開催された世界コロンビア博覧会では、宇治茶に続いて2番目の入賞を誇り「狭山茶」の名を世界に示した。

 

入間市宮寺の出雲神社に残る「重開茶葉碑」と「茶葉後碑」               瑞穂町の狭山神社に残る「狭山茶場の碑(題字は勝海舟書」

 

 

 

 

 

 

 

 

※参考資料

◎狭山茶の歴史と現在(入間市博物館編集・発行)

◎瑞穂町郷土博物館より資料提供。

◎青梅市郷土博物館より資料提供。

◎永谷宗円茶店・永谷宗円像、狭山茶業史・吉川温恭像。