南口・北口で話題になった三鷹駅は「だまし絵」の駅

新型コロナの「まん延防止等重点措置」の適用地域に関するニュースで、三鷹駅南口は三鷹市三鷹駅北口は武蔵野市となっており、出口の違いによって規制の内容が違っていて飲食店関係者の当惑のテレビ報道が何度も流れてちょっとした話題になりました。
それまでは三鷹市民、武蔵野市民ぐらいしか知らなかった駅出口のことが、全国規模で知れ渡るようになりました。

 

今回は、ここらあたりに関連したことに触れつつ、地図を見ながら三鷹駅の歴史を追っていきます。そしてタイトルにある「だまし絵」についても。

三鷹駅は武蔵野台地の原野に昭和5年(1930)に開業しました。
それまでの状況を当時の地図で確認しましょう。
まずは、明治13年(1880)に作成された「迅速測図」で現地を見ます。明治13年ですからほとんど江戸時代の姿に近い状態であると思います。畑やコナラなどの雑木林が広がるまさに武蔵野といった広々とした空間であったことがわかります。赤丸を付けた場所に三鷹駅ができます。

明治13年 1/20000「迅速測図」

※「迅速測図」は、明治政府が作成した最初の地図です。(三角点を使った基準点測量による地図はこの後作られることになります)

三鷹駅が立つ場所は、近くに大きな集落があるという訳ではなく、すぐ北側を玉川上水(斜めに真っすぐ伸びているもの)が流れ、数百メートル南に品川用水(斜めに緩やかな曲線を描いているもの)とそれに沿った小径と点在する民家を望むといったロケーションです。
そして、玉川上水が三鷹市(当時は上連雀村、下連雀村)と武蔵野市(当時は西窪村、吉祥寺村)の境界になっており、三鷹駅が将来立つ場所は下連雀村の中にあり、三鷹市域であることがはっきりとわかります。(地図上に村境は示されていませんが、玉川上水が村境になっていることは自然に理解できることと思います。)

次に明治42年(1909)の地図を見てみます。

明治42年 1/20000「田無」

明治13年の地図と大きく異なるのは、鉄道が引かれていることです。明治22年(1889)に敷設された甲武鉄道が国の管理に移管され、中央東線となった状態で示されています。
しかし、まだ三鷹駅はできていません。(駅ができる場所を赤丸で示しています。)
ただ、ここで注目したいのが、玉川上水の流路が明治13年の状態から変わっていることです。
ちょうど玉川上水が甲武鉄道(中央東線)と交差する所において、玉川上水が鉄道を斜めに横切るのでなく直角に横切るように玉川上水の流路が変えられています。
斜めのままだとそこを跨ぐ橋梁の長さを長くしないといけないとか、何かそのような理由があって、甲武鉄道が敷設されるに際して、流路の付け替えがあったものと思われます。

ここに興味深い地図があります。大正14年(1925)9月の武蔵野村吉祥寺の地番を示す地図です。

大正14年 「武蔵野村吉祥寺全図(野口秀昌製図)」部分を拡大し追記

地図の下辺に描かれている部分が今注目している場所ですが、玉川上水の流路変更により分離されてしまった土地が分筆されているのがわかります。(三角形の部分)
三鷹村と武蔵野村の境界は従前の玉川上水のあったラインから変わっていませんので、結果として玉川上水の南側に、わずかですが武蔵野村が残っているという具合になっています。

そして、いよいよ昭和5年に三鷹駅ができます。

三鷹駅開業(三鷹市ホームページより)

駅の出口は南側だけにできました。北側は玉川上水が流れていますので、それは当然のことでしょう。
昭和5年に一番近い地図は昭和12年のものですが、駅の場所はこのようになっています。

昭和12年 1/25000「吉祥寺」

三鷹駅の南側は駅前広場ができていますが北側は草地になっていて何もありません。玉川上水の土手でした。
駅の南には隣接して電話局のあったことが、地図記号からわかります。
発展する南側、ほったらかしの北側と南北(あるいは駅前・駅裏)では、ずいぶんそのたたずまいに違いがありました。

この状況が大きく変わったのは昭和16年(1941)です。
中島飛行機武蔵野製作所、多摩製作所という巨大な軍需工場が三鷹駅の北方にできたことから(「アイちゃん」氏のブログを参照してください)、工場への通勤が便利になるようにと、駅北側に出口を設けることになったのです。開設当初は三鷹駅武蔵野口と言われていました。開設当初の写真が次です。

三鷹駅武蔵野口開設(武蔵野市ホームページより)

この写真は、駅舎の切妻部分が見えますので北側から撮ったものでなく、東側から撮ったものです。人家の多い東側(八丁地区)に向けてアーチを作っているのですね。
さて、ここで問題となるのが武蔵野口を利用する乗降客は玉川上水をどのように越えたのか、ということです。

次の写真は、昭和16年(1941.7.4)に陸軍が三鷹駅上空から撮った写真です。

昭和16年(陸軍撮影)

駅北側の畑地に広場を作り、玉川上水が線路と平行に折れ曲がる所に武蔵野口の駅舎が新しく建てられています。色合いから見ていかにも出来たてといった感じがします。その駅舎から上り線のホームに向って廊下風の構築物があります。これで玉川上水を渡っていました。
ちょっと新しくなるのですが米軍が昭和22年(1947)に同じアングルで撮った写真もあります。当初から改修があったかもわかりませんが、武蔵野口から上り線ホームへ通じる通路の構造がもう少しはっきり分かります。

昭和22年(米軍撮影)

この駅舎改造工事で、武蔵野市側は玉川上水を跨いで三鷹駅に片足を掛けた姿になりました。
年代は下りますが昭和41年(1966)の地図で見ると、この廊下のような建物が「橋」として描かれていますね。

昭和41年 1/25000「吉祥寺」

なお、この頃の三鷹駅は、写真で見ても地図で見ても駅ホームは延長されているのがわかりますが、新宿側(右側)の端は玉川上水まで伸びており、その手前で止まっています。
ですから、この状態で見ると、玉川上水はあたかも三鷹駅を迂回するように流路変更したように見えてしまいます。
なお、この時点で既に、三鷹駅ホームの東側へ伸びた部分は武蔵野市域へ侵入していることが分かるかと思います。(その場所は、上の「武蔵野村吉祥寺全図」でわかるように吉祥寺です。)

さて、次の大きな転機は昭和44年(1969)にやってきます。
中央線が三鷹駅まで複々線化されるのです。
それまでの島式2面4ホームが3面6ホームに拡大されました。島を一つ増設しなければなりませんので、駅を拡幅する必要があり、北側にある玉川上水の存在は絶好の条件で、それを暗渠化してその上に諸々の施設を増設しました。
一番北側の中央線・快速の上り線の軌道が玉川上水に懸かり、駅ホームも玉川上水を越えて東へ延長されました。
この時、駅の構造は橋上駅となり、駅舎は大きなものに一新されています。

昭和59年 1/10000「吉祥寺」

昭和50年(国土地理院撮影)

この結果、地図や写真でわかるように、三鷹駅駅舎は玉川上水の上に覆いかぶさるように建つこととなり、駅の北側ロータリーからは駅舎の階段を昇れば、玉川上水を越えているという意識を全く持つことなく最短距離で改札口に至るようになりました。
このように、以前の盲腸のようにくっついた武蔵野市側の出入り口ではなく、三鷹市側の南口と正対するように駅舎本屋に武蔵野市の北口が完成し、現在の姿になったということです。

最初は三鷹市の端に設置された三鷹駅でしたが、その規模が大きくなるにつれて徐々に東に移動してきて、最後は玉川上水をがぶりと飲み込んでしまって巨大な駅に変身し、三鷹市、武蔵野市の両方に足を下ろす駅となった、という歴史がお分かりになったことと思います。

ところで、駅舎やホームが玉川上水をすっぽり隠してしまった関係で、地図や航空写真をみると、玉川上水はあたかも三鷹駅の真下を北西から南東へ真っすぐに流れているような錯覚を持ってしまいます。しかも地図上に示される三鷹市と武蔵野市の市境のラインは昔の玉川上水の流路通りにまっすぐに引かれていますので錯覚の誘導には念が入っています。
しかし、上で見てきたように、線路の下で玉川上水は曲がっているのです。
「三鷹駅の下を玉川上水はどのように流れているか?」という質問には、ほとんどの皆さんは間違うのではないかと思います。

三鷹駅は「だまし絵」の駅なのです。

Googleマップ 市境を示す点線が三鷹駅を斜めに真っすぐ貫いている

 

 

◆三鷹駅上空からの航空写真は、いずれも地理院地図内の「年代別写真」を利用。