中島飛行機武蔵製作所と都立武蔵野中央公園

ブログとは縁のなかった私ですが、徒然なるままに綴ってみたいと思います。

大正6年(1917)、群馬県出身の中島知久平(1884-1949)という人物が兵器としての航空機に注目し、海軍機関大尉を辞して郷里に中島飛行機株式会社を設立した。

日中戦争が始まると、軍部は航空会社に航空機の増産を要求します。これに応えて、中島飛行機は、昭和13年(1938)4月、北多摩郡武蔵野町西窪(現武蔵野市緑町)に面積12万㎡に及ぶ陸軍専用の航空機エンジン工場、「武蔵野製作所」を開設します。陸軍の戦闘機「隼」や「疾風」などのエンジンはここで製造されました。

太平洋戦争の開戦が迫った昭和16年(1941)11月、武蔵野製作所西隣りの北多摩郡武蔵野町関前(現武蔵野市八幡町)に海軍専用の工場、「多摩製作所」が増設されました。陸・海軍は相互の秘密保持のため当初二つの工場に往来はありませんでしたが、戦局が悪化する昭和18年(1943)末、行政査察によって両工場の合併が命じられます。

合併によって誕生したのが「中島飛行機武蔵製作所」です。海軍の零式戦闘機「零戦」のエンジンをも製造し、東洋一の航空機エンジン工場が出現します。武蔵野製作所は「東工場」、多摩製作所は「西工場」と呼ばれるようになります。

米軍が撮影した中島飛行機武蔵製作所

しかし戦局はさらに悪化。マリアナ諸島のサイパン島やグアム島を占領したアメリカ軍は、大型爆撃機B29をこれらの島から発進して日本本土の空襲を開始します。最初の目標が中島飛行機武蔵製作所でした。

空襲は昭和19年(1944)11月24日に始まり、昭和20年8月の終戦に至るまで9回に及びました。工場は壊滅的な被害を受け、工場内で200名以上の犠牲者、周辺の地域でも数百名の市民が巻き添えとなりました。

戦後、破壊を免れたいくつかの建物は再利用されましたが、今日、東工場の跡地の大部分はUR都市機構武蔵野緑町パークタウンや都営アパートなどの住宅街に、西工場跡地の大部分は「都立武蔵野中央公園」として生まれかわりました。

今日の中島飛行機武蔵製作所跡

都立武蔵野中央公園は広大な原っぱ公園で、近隣の園児らが歓声をあげながら元気に走りまわっています。空襲で犠牲になった人々の魂は「千の風」となって平和な公園を見守ってくれているのでしょう。今日もさわやかな風が公園を吹きぬけて行った。

園児らが遊ぶ都立武蔵野中央公園

(米軍が撮影した航空写真と本文内容は都立武蔵野中央公園に設置された説明板を参考にした)