青梅線牛浜駅は、東約800m先にある米軍横田基地の玄関口であることが知られている。福生市に住んで32年余りになるが、この辺りをいつも素通りしていた。このブログで続けている「駅前の顔」シリーズに向く話題はあるかと逍遥気分で歩いた。
駅に近い五日市街道を東側の基地とは反対側、西の多摩川方面へ足が向いた。コンビニ、幼稚園、アパート、スナック、駐車場、美容院、器械製造会社、畳屋、ファミレス、中古車販売……これらが住宅に交じって点在する。新奥多摩街道との交差点付近に白壁の蔵がビルとマンションに挟まれた格好で建っていた。蔵の腰巻に帯を留めるように一枚の案内板がある。161年前、幕末期の安政時代に街道沿いのたたずまいを描いた絵巻「牛浜出水図」だ。思いがけない出会いだった。
160年ほど前といえば、日米修好通商条約でもちきりの時代であり、ハリスが江戸城に登城、尊王攘夷運動が激しく、井伊直弼が指揮を執る安政の大獄(ともに安政5年=1858年)、勝海舟やジョン万次郎、福沢諭吉らが咸臨丸などで米国サンフランシスコに渡り、桜田門外の変(ともに安政7年)が勃発する激動の江戸市中だった。
絵図は、そんな最中の安政6年に描かれた。舞台は、いまの青梅線牛浜踏切付近から西の五日市街道約480m区間だ。五日市街道は、交易が盛んだった五日市と江戸を結ぶ重要な街道で、通りを挟んだ一帯に集落が生まれた。この街道を境に当時は北側が福生村、南側が熊川村だった。絵図には農家14軒、商家7軒、借家2軒、空家1軒など25軒が描かれている。馬立場、地蔵堂、小祠堂もある。大洪水の出水状況を描いた彩色鳥瞰絵図だ。縦34㎝、横478㎝。路面や家屋敷の冠水を食い止めようと村民は蓑を着て笠をかぶって、クワなどを振りかざして排水溝を掘っている。畑地、建物の様子が正確に描かれ、家々には屋号も記されて村の暮らしを如実に表している。
出水は、安政6年7月12日ごろから降り出した長雨で多摩川は増水し、広い河原は満水、田畑は水浸しになった。集落には異様に多く流れ出たハケの湧水などが五日市街道や屋敷からあふれ出んばかりで、村民が各所で溝を掘ったことで各屋敷の床上まで水が上がることはなった。新田に被害があった程度で済んだ。この時、他の多摩川沿いの山村では死者が出たという大洪水だった。
描いたのは藤雲嶺(文久4年=1864年1月逝去)。当地の渡辺嘉兵衛が安政5年秋に江戸の学識者を招聘したいと藤雲嶺を招き、牛浜に住まわせ、私塾を開かせていた。藤雲嶺は、水害状況を見聞きして後世に伝えたいと自ら筆を取り絵図にまとめた。後年、この絵図が渡辺家の蔵にあることが分かり、昭和51年(1976)、福生市有形文化財に指定された。絵図一巻まるごと、アルミ版に転写して街道沿いに原寸大で掲示している。
当時の一帯は、土地が肥えておらず、畑作で大麦、小麦、ヒエ、イモ、ダイコン、エゴマなどを栽培していた。耕作の合間に男は薪を取り、女は青梅縞や黒八丈を織っていた。農閑期には茅葺屋根を葺く商いをする家もあったそうだ(「えがかれた江戸時代の村~牛浜出水図と福生村、牛浜村絵図」図録)。
集落の建物は、茅葺きの木造平屋建てがほとんどで、農家には母屋のほかに物置、納屋、薪小屋、便所などを配し、周囲を屋敷林で囲っている。屋敷の西側で畑を耕した。裕福な農家では土蔵なども建てている。
「牛浜出水図」を解説した福生市郷土資料室が作成した「えがかれた江戸時代の村」図録を手にしてまず街道の北側を歩いた。いまは面影がない街道筋だが、掲示の絵図を撮った拡大写真を食い入るように見つめて、あたりをつけ、当時を想像しながら歩いた。
家を囲った塀に「二八」の文字がある商いの家は食べ物屋か。往来の客や多摩川を渡る牛浜の渡しに乗る客が舟を待つ間に食事をしたのだろう。河原にも出茶屋がある。店の隣りには地蔵堂が建つ。祭りの準備も村総出で執り行ったものだろう。
上水堀(玉川上水)にかかる牛浜橋の木橋は、長さ6間(10m弱)で幅1間半程度だったか。五日市から木炭の運搬などをしていた馬車や牛車の往来で木橋は破損が頻繁で、明治初期、東京市の近代化の一環で熊本から石工を招いて、木橋を洋風の二重橋に改修した。村民らは「めがねばし」と呼んだ。いまは、昭和52年(1977)3月に架け替えたものに、平成4年(1992)度に石と鋳物を用いて歴史観を出した親柱や高欄などを設えた。玉川上水に多くある橋の中でも牛浜橋のデザインには特徴がある。
絵図の青梅道(現奥多摩街道)を横切った先には豆腐屋もある。半農半商だったか。広めに取った土間の正面や側面には格子窓を切り、明かり取りとして生かしている。
元に戻って今度は南側を歩いた。下駄屋も建具屋も絵図に描き込んである。藤雲嶺が住んでいた小さい家も自ら描いた。家が傾き、南側に筋交いが入っている。屋号「藤や常七」は旅籠だろうか。母屋は中2階を取り、他の家よりは大きい。南側に大屋根を葺きおろし、三方に板葺きの庇を構えている。渡り廊下でつないだ離れも入母屋造りだ。庭が整備され、つるべ井戸もある。
絵図が発見された屋号「嘉兵衛」は土蔵造りの店舗・見世蔵を構えていた。漆喰塗りで置き屋根、板葺きの庇もおろしていた。集落で一番広い屋敷が農家の「渡辺七兵衛」だ。街道に面して土蔵が2棟並び、母屋や薪小屋などを配し、西側に畑を広げる。つるべ井戸や小屋もある。庭や畑の排水作業に追われる姿も描き込んでいる。上水堀に架かる橋のたもとの「油屋周蔵」では屋敷神も祀っている。
木戸口に「二八餅かどや」の貼り紙がある「かどや喜代松」は、いまの奥多摩街道と交わる地点だろうか。店舗の南側にあるのが母屋だ。その奥の部屋の南側に広縁が付いているのは珍しいと福生市郷土資料室の図録にある。
この「かどや喜代松」と、その向かいの「豆腐屋安五郎」から西へ急坂で下る。ハケだ。「坂下」と今も呼ばれ、多摩川の川原へと続く。当時はハケ上から多摩川が目の前に屏風絵のように広がっていただろう。今は住宅やビルが遮り、川面が辛うじてうかがわれる。
出水図の多摩川部分では大波がうねり、高い水しぶきを上げて暴れ狂う濁流を描いている。木や柱、板のようなものが流れている。流水面の半ばには牛浜の渡しだろうか船頭小屋5軒、出茶屋3ヶ所流出と記し、対岸の二ノ宮番小屋2軒が今にも浸水しそうに描かれている。この轟音に村民がおびえて、寝ずに夜を明かしたことだろう。
国土交通省京浜河川事務所のHP「多摩川の歴史」を見ると、古代から今日まで、出水・洪水・堤防決壊の繰り返しだった。「牛浜出水図」を掲出している地点から100mあまり北西の福生市北田園1丁目、金堀公園にある近辺の区画整理を顕彰した碑に度重なる水害を刻む。嘉永4年(1851)にわずかだった水田を整理・開発して25haに拡大し、全村民に平等に割り振った。その水田が明治40年(1907)の多摩川大洪水によって堤防が決壊。復興する大正4年(1915)までに8年かかり、面積も2倍近くに広げたことが刻まれている。しかし、戦後の昭和22年(1947)にはキャサリン台風で再び福生の穀倉地帯は襲われた。めげずに復興したことで戦後の食糧難を乗り切ったことを碑は記している。
通りかかった80歳ぐらいに見えた元少年は「坂下から上流の永田橋あたりまで水田が広がり、われら悪ガキどもは、泥んこになって遊んでよく叱られたもんよ」と思い出を話した。
坂下の住宅街を抜けると、多摩川の堤防に出た。ここは福生市の多摩川中央公園だ。広く長い河川敷を利用しており、空は首を回すほどに広い。南から丹沢山系、白富士、奥多摩連山が連なる。
この穏やかな光景を一変させるのが自然災害だ。毎年のように全国で度重なる地震、火山噴火、豪雨に襲われている。昨年も10月12日の台風19号による豪雨で、この公園などが冠水した。奥多摩町日原に入る唯一の道路が崩落、54世帯が孤立したのもこの台風だった。本復旧は年明けまで待たなければならい。「牛浜出水図」が示すように地元の人々のつながりが命を救うと痛感している。