前回のブログでは、一等三角点「連光寺村」のある多摩丘陵にちょっと触れました。(一等三角点「連光寺村」)
今回は、「イルカ丘陵」と呼ばれる丘陵について書きます。
■「イルカ丘陵」とは
「そんな丘陵の名前は聞いたことがない。」と言われる方がいらっしゃるかもしれません。
次の地図を見てください。何か見えませんか?
次をご覧になればはっきりします。
「イルカ丘陵」とは、東京都南部の多摩丘陵から神奈川県の三浦半島へと続く関東平野の西側を区切る丘陵部分を、その形から名付けたものです。イルカがちょうど相模湾から飛び跳ねて、高尾山をクチバシでつついているといった構図になっています。
「イルカ丘陵」はウィキペディアの項目名としてとりあげられるにはまだ至っていませんが、このエリアを首都圏の貴重なグリーンベルトと位置付けて活動するNPOが設立されるなどして、その名称は徐々に認知されつつあります。
イルカ丘陵の標高はせいぜい300mぐらいで、しかもまだ緑が多く残っていて、ちょっとした里山歩きに適した場所が多くあります。
しかし、イルカ丘陵はこの高さがあるがために、古代より人間生活に制約を与える条件として、いろいろな歴史的事実に関わってきています。それをちょっと眺めていきましょう。
■「イルカ丘陵」と国境
まずは、古代の律令国家における地方統治においては、イルカ丘陵が武蔵国と相模国の国境になっています。
この国境(武相国境)を地図に書き込んでみます。
武相国境は、北部ではイルカ丘陵の西側にあるその名も境川という川が国境になっており、途中から丘陵の中央部でイルカの背骨にあたる丘陵の高い部分を連ねて六浦(横浜市と横須賀市の市境)へと至っています。ちょうどイルカの腹の白い部分と背の黒色の部分の分かれ目が国境に対応しているように見えます。
古代においては川や山(この場合は丘陵部)は生活圏を分断する大きな要因になりますから、そこが国境になるのはごく自然なことであったのでしょう。
■「イルカ丘陵」と鎌倉街道
イルカ丘陵と「鎌倉街道」の関係に注目してみます。
鎌倉幕府はイルカの「へそ」にあたる場所に開かれ、「いざ鎌倉」の道が四方から鎌倉へ通じました。その際、どこから鎌倉へ行くにしてもイルカ丘陵を越えていかなければなりません。
特に、北の方面から繋がる道は、イルカの体を縦断することになります。たかが標高300mの丘陵地帯といっても物資を輸送したり移動するには、体力の消耗が少なく、目的地への距離も短くなるコースを採るのは自然です。その結果、鎌倉街道山ノ道、鎌倉街道上道、鎌倉街道中道などが通じました。
「山ノ道」はイルカ丘陵を避けてその西端部分をすり抜けるようにして鎌倉と秩父方面をつないでいます。「上道」は鎌倉と府中を結ぶルートで、町田、小野路、関戸のラインを通り、ちょうどイルカの首の部分(首があるとすれば)を縦断する感じで丘陵部を越えています。「中道」は鎌倉と下野・下総・常陸方面をつなぐルートとして、イルカの腰から背中を通って丸子の渡しへ向かうように延びています。
なお、鎌倉の地は、三方をイルカの体部分で包まれた「へそ」ですから、そこから外へ出ようとすると、どちらへ動こうにもイルカ丘陵を乗り越える必要があります。それが有名な鎌倉の「切通し」ですね。
■イルカ丘陵と新田義貞の鎌倉攻め
元弘3年(1333)、上州で旗揚げした新田義貞は、鎌倉幕府打倒を掲げ鎌倉街道上道に沿って鎌倉を目指しました。幕府軍は鎌倉を守るために、イルカ丘陵の外側を流れる多摩川を主要な防御ラインとして布陣します。このあたり、イルカ丘陵の標高では防御機能が弱いと見たのか、丘陵内での戦闘は不利と見たのか、当時の武士たちの地形と戦略をどのように見立てるかといったところがうかがえて面白いところです。さて分倍河原の合戦で一進一退の攻防があったものの、多摩川の渡河を許してしまうと関戸の合戦では鎌倉幕府軍は脆くも崩れ去り、イルカ丘陵を一気に鎌倉まで進攻されてしまいます。
イルカ丘陵は鎌倉を包んで守ってくれるように見えますが、この程度の丘陵地形では守りにはほとんど機能しなかったわけです。
■廃藩置県と絹の道
さて、イルカ丘陵に引かれた武相国境ですが、それに大きな変化のあったのが明治4年(1871)の廃藩置県です。廃藩置県によって、イルカ丘陵はその全てが神奈川県に含まれることになりました。イルカ丘陵どころか多摩郡のほぼ全域が神奈川県に入りました。
この時期には、横浜の外国人居留地に住む外国人が自由に出かけることのできる区域が横浜から10里の範囲と定められており、多摩地域の主要な村がその範囲に入ることから、外国人対応が一元化できるように神奈川県にまとめられたということのようです。
横浜から10里の円を描くとイルカ丘陵はすっぽり円内に納まります。横浜居留地に住む外国人は手近なイルカ丘陵の散策を楽しんだものと思われます。中には写真家フェリーチェ・ベアト(英国人)のように、多摩丘陵の風景を何枚も写真撮影しており、明治初期の貴重な映像を今に残してくれています。
例:http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=6316
長崎大学附属図書館 幕末明治期日本古写真データベースより
そしてこの時期、桑都八王子の繁栄を支える動脈として、八王子に集積された絹を横浜へ輸送するルート「絹の道」が通じたのもイルカ丘陵の中心部でした。このときに有力な絹商人を輩出した鑓水地区はイルカの喉元を押さえるような山間の谷戸にあり、そこが絹貿易の栄枯盛衰を象徴する舞台となっています。
■多摩の東京府移管
明治26年(1893)になると、玉川上水を経由して多摩川から東京へ引き込まれている東京府の上水の汚染が深刻化してきたことから多摩川上流部を東京府自らが管理するためと、さらには多摩地域で盛り上がっていた自由民権運動に手を焼いた神奈川県が多摩地域を切り離したいとの思惑があったことから、多摩郡は一括して東京府へ移管されることになりました。イルカの頭部分と胴体部分が切り離されて、頭部分が東京府に、胴体から尻尾部分が神奈川県となったわけです。それが東京都、神奈川県の境界として今に至っています。
イルカ丘陵で起こった主だった出来事を概観したのですが、イルカ丘陵は関東の歴史を語る上で重要な舞台になっていたことが分かります。
イルカの体の上で人間たちがバタバタと動き回っていたわけですが、イルカにとっては数千年の間、そんなことは我関せずで、高尾山と戯れて今に至っているといった風で、人間の行っていることと大地の雄大・悠久な歴史とのコントラストが面白いです。
※
1.「イルカ丘陵」の詳細は、NPO法人鶴見川流域ネットワーキングの「いるか丘陵事業のホームページ」をご覧ください。
2.使用した画像は、地理院地図の陰影起伏図および3D図作成ツールを利用し、それに諸情報を書き加えました。