御朱印と札所巡り

 御朱印の話となれば、観音巡礼札所めぐりの話に繋がってくる。(前回3/23)

    御朱印に関わり始めたのは、関西転勤中の吉野山ハイクで仲間から教えられたことによるものだが、その時に、「関西勤務に来た関東出身の方々は、単身赴任の暇潰しに札所巡りをしていた」と聞き、西国三十三か所観音巡礼のガイドブックを購入した。確かに、地理不案内で初任の関西地区勤務であるからには、近畿2府4県と岐阜県にある観音菩薩を祀る寺院を巡れば、そしてその歴史ある寺院をポイントにして界隈の寺社等を訪ね、地域の駅・街・自然を廻れば、関西を地理的にも地勢的にもまた歴史的にもより広く知ることができる。単身赴任という小人閑居して不善をなす誘惑機会を抑え、各地の美味しいものを味わう場にも臨めるし、公共交通機関だけを利用していれば(古い寺院は町から離れていることが多いので)歩く距離も増えて健康維持にも役立つだろうと、勤務地近隣から少しずつ探し広げていった。33ヶ所のうち、寺院名を知っていたのは、三分の一程度であったが、関西勤務中に結願に辿り着けるかな?とも思いながら、休日ごとに足を延ばしていった。

    朱印を頂く朱印所の前の溜まり場のドライヤーで朱印を乾かす人たちの多いのにも驚かされたし、また観光バス巡礼も盛んで、目指す寺院に漸く辿り着くかと思うと後続のバスに追い越され、朱印帳をいっぱい抱えたバスガイドに朱印所受付で後れを取り、我慢の長待ち時間を余儀なくされたこともあった。巡礼といっても、目指す観世音菩薩像が必ずしもその日に拝謁できるわけでもなく、訪れた証拠として御朱印をいただき巡礼帳の各ページを埋めていったが、もともとは寺社への歴史的芸術的関心からの朱印集めスタートだが、これほどまでに往古から巡礼者を集める仏教寺院・仏像に寄せる日本人の心・思いに、少しずつ関心が深まり広がっていった。岐阜の谷汲寺で結願印を貰い、寺前の茶屋でちょうど放映していた美空ひばりの追悼番組を見ながら、ほっとして結願の祝杯を挙げたことを覚えている。単身生活は続いていて、それなら次はと、昭和になって新聞社3社により制定されたという新西国観音33ヶ所巡礼という新手があることを知り、これにも手を染めて巡回した。兵庫県小野市の快慶作浄土寺釈迦三尊像には圧倒された。当時は、関西地元の人々より寺社案内では知識の豊富さを語れたものだったし、関西の地理を知ることで業務推進にも大いに役立った。            西国観音札所一番 那智山青岸渡寺  

 そもそも、観世音菩薩=観音菩薩は、阿弥陀如来の脇侍として知恵を表す勢至菩薩と共に、人々の苦しみの声を聞いて下さるといわれる慈悲の菩薩で、33の姿(聖観音、十一面観音、如意輪観音、不空検索観音…)に変身して衆生を救うとされ、西国観音巡礼は平安期に始まり、「1300年つづく日本の終活の旅〜⻄国三十三所観音巡礼〜」として、文化庁の日本遺産にも登録されている。その後、源頼朝が西国で参戦した武家の思いを受けて、関東一円に坂東33ヶ所観音巡礼が編まれ、鎌倉の杉本寺から安房の那古寺まで札所が制定された。東京では浅草寺だけで、多摩にはない。札所とは、かつての巡礼者が観音菩薩との結縁を願って、氏名生国等を記した木製銅製の札を寺院の堂に打ち付けたことに由来する。江戸時代には、生活余力のできた一般庶民も加わり、西国・坂東・秩父(33ヶ所→34ヶ所)を合わせた百観音霊場が成立した。その後四国88ヶ所巡礼(弘法大師ゆかりの寺を巡礼する、観音菩薩ばかりではない)もあわせて、188ヶ所霊場巡りもある。
 各地の地域おこしというか、仏教の伝道促進のためか、この東京23区&多摩地域でも札所が、かねてからいろいろと設けられている。思いのままに御朱印をいただくのは難しいだろうが、東京都内の幾多の寺院が、それぞれ下記の札所巡りの霊場とされている。武蔵野三十三観音、狭山三十三観音、東三十三観音、多摩川三十三観音、小田急武相三十三観音、ぼけ封じ関東三十三観音、武蔵国八十八ヶ所、関東三十六不動、多摩四国88ヶ所…。           坂東観音第13番 金龍山浅草寺                                                                                                                                                       

 東京に戻ってからも坂東33ヶ所を廻り、秩父34ヶ所も巡り終え、今は四国88ヶ所にも手を伸ばしている。