2024年の多摩めぐりは終了いたしました。ご参加ありがとうございました

第30回多摩めぐり
三宿から成る拝島宿と昔も今も里を潤す水辺を歩く

宿場の面影求めて歩くあるく・・・

ガイド : 菊池 等さん

主なコース

JR青梅線拝島駅(集合) → 五鉄通り → 南拝島駅跡 → 拝島会館・拝島宿 → 宿場北枡形跡 → 啓明学園・北泉寮 → 九ヶ村用水樋管跡 → 昭和用水堰・一町二ヶ村樋管 → 下の川湧水→ 龍津寺(りゅうしんじ) →  拝島宿と拝島分水 → 拝島フジ → (昼食)→ 日吉神社・大日堂・大日堂仁王門 ・おねいの井戸 → 拝島大師本覚院 → 円福寺 → (バス) → JR拝島駅 (解散) 

武蔵野台地の高地を繋いだ玉川上水が東西を貫き、その南を多摩川が激しく侵食して立川面や立川段丘と、さらに南へ一段下がる拝島面に昭島市拝島の一帯が多摩川に沿うように広がる。多摩川左岸側の典型的な地形を見るような拝島。寺院が多く集まる姿そのものが時代を映し、ここに徳川幕府が大規模な宿場を開いた。多摩川に渡船場も設け、人馬が行き交った。家康の死後は、日光勤番に当たる千人同心たちが日光街道へ向かう要衝の地でもあった。宿場は時代とともに姿を変えた痕跡がいまも街道沿いに見える。10月22日、ガイドの菊池等さんとともに参加者17人が拝島をくまなく歩いた。この日のテーマは「三宿から成る拝島宿と昔も今も里を潤す水辺を歩く」。同行者の一人、拝島に移り住んで4代になるという大貫孝弘さんがゲストガイドとなり、200年以上も繋いできた榊祭りに関わる地元の人たちの熱い思いなどを住民ならではの目線で語ってくれた。街道脇を流れる拝島分水のほか、段丘特有の湧水も流れて北多摩域では少ない水辺に癒された一日だった。

14年余りの短命だった五鉄廃線跡

拝島駅に集合した多摩めぐりの一行がスタートして南へ緩やかに下るように歩を進めたのは旧五日市鉄道廃線跡の五鉄通りだった。一部駐輪場を兼ねた部分は歩行者専用道で、この日の朝は、南方にうっすら富士の稜線が浮かんでいた。緩やかな南斜面には縄文遺跡があって古くから人が暮らしやすい地であったことを表す。この日の陽気も手伝って伸びやかさを感じた。

緩やかに蛇行しながら下る五鉄通りを南下する一行

旧五日市鉄道は、青梅鉄道(現JR青梅線の前身)が開通した25年後の大正8年(1919)に青梅鉄道の南側に平行する格好で敷設申請をした。五日市界隈の石灰や多摩川からの砕石を東京市街地へ運搬する目的だった。大正14年、拝島-五日市駅間に続いて昭和5年(1930)、拝島-立川駅間(8.1㎞)でガソリンカー(客車)や蒸気機関車(貨物)が運行された。その後、南武鉄道(現JR南武線の前身)と合併したが、戦況が思わしくなかったことなどから立川-拝島駅間の命は開通後、14年余りで閉ざされた。

拝島の日常と歴史など、生活目線で語る大貫孝弘さん

そんな歴史を刻む五鉄通りの沿道は、いまや軒を連ねる住宅地だ。昭島市立拝島第三小学校正門で一行を止めたのは、この日のゲストガイドの大貫孝弘さんだ。拝島町に生まれ育って60年余り。地元の歴史や文化に関心が高い。小学校ができる前にあったのが陸軍の高射砲陣地だった。飛来した米軍爆撃機を狙った陸軍の砲弾は届かず、畑の肥溜めに落下。そのしぶきが家の屋根まで飛び散り、村人たちが水で洗ってくれたと母から聞いたと語った。

五鉄の繁栄ぶりを象徴する元旅館の前で大貫さん(中央奥)の説明を聞く一行

国道16号を横切った先には2階建て木造の元旅館があった。いまは、無住の様子だ。一帯は五鉄が通ったことで一挙に開発され、旅館はそのシンボルでもあった。近くには「五鉄南拝島駅跡」の石造の標識が立つ。

コース途中にあった神明神社の石臼塚。
暮らしに欠かせなかった道具から生活ぶりが伝わる

滝山城の鬼門除けに信玄、陣張る

路地を抜けた先で奥多摩街道に出た。江戸時代初期に整備された日光街道でもある。この地点は拝島宿のど真ん中に位置する。

拝島は、大栄元年(1521)多摩川対岸に大石氏によって築城された滝山城の城下町の色合いを濃くしており、大石氏は拝島村の大日堂を滝山城の鬼門除けにしていた。大石氏へ養子に入ったのが北条氏照で永禄3年(1560)に氏照が滝山城主になった。

ここから拝島一帯は、北条氏と関東管領・長尾景虎(上杉謙信)との戦いに巻き込まれていく。永禄4年(1561)上杉軍は北条氏征伐のために11万の軍勢を引きつれて関東へ攻め込み、北条氏の領地を奪った後、上杉軍は越後に帰還したのを機に氏照は領地奪還を目論み、関東一円で反撃に転じた。武田氏との対立も深まる。永禄12年(1569)武田軍は、滝山城の北条攻めをするために拝島の大日堂に陣を敷いて、北条氏に煮え湯を飲ませた格好になった。

武田信玄は、大神村から多摩川を渡り、周辺の神社仏閣を焼き払った。だが、陣を敷いた大日堂とその周辺の神社仏閣は無傷だった。自軍の宿泊施設として使っていたからだ。

分水引き、日光勤番の要所に

数十年後の明暦年間(1655-58)ごろ、拝島一帯は再び変わり始める。地元民の要望を受け入れる形で徳川幕府は玉川上水から水を引き込む拝島分水を引くことを許可した。これがきっかけとなり拝島は大集落として生まれ変わることになった。

日光街道(現奥多摩街道)と拝島分水
について菊池さんの説明を聞く一行

承応元年(1652)から始まっていた八王子千人同心の日光勤番へのルートは、当初江戸・千住を経由していたが、拝島宿が整備された後、拝島-東松山経由に変更された。勤番は216年間に1030回にも及んだといわれ、拝島は、多摩地域の出口であり、実質的な出発地で千人同心の気合を入れる地であり、帰り着いた安どの宿でもあった。

旅籠など56軒が商い、織物集荷も

日光勤番にとって要衝の地になった拝島宿は、宿機能が目覚ましく高まった。東西1㎞区間の宿場には上宿=加美町、中宿=奈賀町、下宿=志茂町を設け、旅籠6軒、荒物屋、鍛冶屋、居酒屋、菓子屋など56軒もの商い(江戸末期)が軒を連ねていた。

大正時代の拝島宿。中央に拝島分水が流れ、水車が回っていた。
ガス燈が立ち、民家が連なり拝島宿の繁栄ぶりが見える
(「多摩東京移管百周年記念写真集 目で見る多摩の一世紀」
<財>東京市町村自治調査会発行)

家の数は天保12年(1841)には159軒あり、それぞれの家は街道に向けて玄関口を置いた。兼業農家が大部分だったそうだ。農閑期には婦女子が盛んに機を織った。特に昭島周辺で織られていたのは絹織物の青梅縞や黒八丈だった。これらを江戸へ反物として出荷していた。拝島は、次第に集荷場の機能を持ち、市が立つようにもなった。

この日のために地元の人が家の前に出してくれた宿場を示す行燈

人馬の往来は、かなり頻繁で村営の「拝島の渡し」による収入があった。なにしろ多摩川対岸は八王子だから。馬船(荷馬1銭2厘、荷車9厘)と歩行船(6厘)が各1艘運行していた。

大正11年(1922)撮影の拝島の渡船場。荷車や馬、物資を運び、
八王子との交流に大きな役割を果たした。昭和24年(1949)の拝島橋完成まで続いた
(「多摩東京移管百周年記念写真集 目で見る多摩の一世紀」から)

様変わりする中、江戸の区割り見える

いま、街並みは、古風な日本家屋がポツンポツンとある。地元っ子の大貫さんによれば、この10年ですっかり様変わりした。いまの拝島会館は、元は旧庄屋だった。その近くには染物屋があったり、雑貨屋があったりしたが、「みんな、商売をやめてしまった」。更地になった土地が何か所もあった。その敷地は、間口が狭く、奥に長い江戸時代の区割りを残していた。

街道沿いに点在する蔵にも眼を注いだ

宿場の街道中央に拝島分水と水車

宿場のメインストリートだった現在の奥多摩街道の側溝には水がチロチロと流れているところがあったり、涸れていたり、部分的に暗渠になっていたりする。この用水路は、現在の拝島駅北の駅頭を流れる玉川上水から明暦年間(1655~58)ごろから取水しているもので、当初は、通りの中央に水路が流れ、水車もあった。その両サイドには萱葺き屋根が軒を並べていたものだ。メインストリートの中央を流れていた水路は明治40年(1907)ごろに流路を街道両側に変更し、今もその姿を留めている。

奥多摩街道の両脇に移設された拝島分水はいまも・・・
玄関先に提灯を下げて祭りを祝う拝島宿の街並み
(けやき出版「千人同心の往還 拝島宿の興亡」から)

要塞の役割果たす宿場の枡形

街道を西へ向かった。北へ急カーブする地点にお地蔵さまが立っていた。ここは拝島宿の加美町北側の枡形跡だ。甲州など西側からやってくるだろう外敵や不審者の侵入を防ぐために設けられた折れ曲がった道だ。江戸時代初めに制定された宿場には要塞の役割があり、宿場の出入り口に大曲が設けられた。

宿場に出入りする人へ向ける目が厳しかった西の枡形

この枡形と対になっているのが東側の志茂町にある枡形だ。両地点にはお地蔵さまが立っている。宿場が成立して間もなくの天和2年(1682)に建立されたものだが、加美町のお地蔵さまは昭和20年(1945)代初めに行われた道路整備の折に壊れて台座だけが残されていた。平成26年(2014)5月に当地の講中が真新しいお地蔵さんを再建した。

再建されたお地蔵さんが見守る北の枡形

帰国子女の国際教育進める

ケヤキの大木が立つ奥に啓明学園正門があった。同校はキリスト教主義でプロテスタント自由主義神学をすすめる国際教育を掲げている。開校して今年82年になる。創設者は三井高維(たかすみ。1901~79)。東京帝国大学卒業後、銀行勤務などを経て、英国オックスフォード大学に留学し、帰国後の昭和15年(1940)海外在勤者の子女教育を目的に赤坂の私邸を開放して啓明学園小学校を創設した。11代当主で高維の兄・高公(たかきみ)から現在地にあった三井家拝島別邸約3万坪(10万㎡)を学校用地として譲り受け、昭和18年から現在地に高等女学部を移設して寄宿教育を実践し続けている。その拠点となった北泉寮が正門から北側に回るとある。建物は江戸時代の大名屋敷の伝統を継承しており、平成22年(2010)東京都有形文化財に指定された。

東京都有形文化財に指定されている北泉寮
(啓明学園ホームページから)

多摩川から取水、水田潤した樋管

多摩めぐりの一行は、さらに西方へと足を向け、水辺エリアをしばらく楽しむことになる。段丘を降りたら、そこは福生・昭島市境の多摩川の土手だった。ここでは時代がさらに遡り、平安時代の水をめぐる住民らの動きを垣間見るポイントでもあった。室町時代に開削されたとする立川堀に明治44年(1911)に設けられた多摩川の取水口「九ヶ村用水樋管」跡が、いまも多摩川土手で見られる。

多摩川河川敷あるに旧九ヶ村用水取水跡に近づいて見る

九ヶ村とは現在の昭島市域の拝島をはじめ、後に昭和村の母体となる田中、上川原、大神(おおがみ)、宮沢、中神、築地(ついぢ)、福島、郷地(ごうち)で、「昭島」となった由縁の地のほか、立川市域の柴崎までの延長約8㎞に及ぶ用水を整備した。用水が開削されたことで流域では米生産が飛躍的に高まった。昭和48年(1973)まで使用されていた。明治期に整備された折に造立された水神様には供物が後を絶たない。

公園に樋管のモニュメント残す

多摩川の左岸に近いハケ下は、古くから水が豊かで、多摩地域では少ない米作が盛んだった。九ヶ村用水樋管跡の下流100mほどの地点にある昭和用水堰(幅356m)から取水している昭和用水流域ではいまも昭島や立川の水田を潤している。元は昭和8年(1933)一町二ヶ村(立川町・昭和村・拝島村)の用水堰として設置された後、改修を繰り返して今に至る。昭和8年から68年間威力を発揮して役目を終えた一町二ヶ村用水樋管は、昭和用水堰北側の公園の一角にモニュメントとして展示してある。

川幅360mほどの昭和用水堰を土手から見下ろす

現役の治水策、不連続堤防の「信玄堤」

昭和用水堰から多摩川の左岸土手を下ると、忽然と土手がなくなり、一旦、河川敷に降りる格好になり、再び別に東へ延びる土手に登った。「ここが、信玄堤か」。堤防の一部に開口部を設けて下流部の堤防を二重にした格好の不連続な堤防を設えている。増水を一旦、堤内に貯めて本流の水流・水量を緩めるのが目的だ。急流河川の治水方策の典型だという。霞堤といわれ、戦国時代に武田信玄が考案したことから信玄堤ともいわれる。土手を歩く人やジョギングを楽しむ人、サイクリングに汗している人々もあり、これらの人たちは坂を登る苦しさに耐える所だが、小さな坂が治水に結び付くなら、この目的を超えるものはない。

途切れる堤防から増水を引き込んで、もう一方の堤防の間で貯留させる仕掛けの信玄堤

玉川上水へ送水する原水補給ポンプ所

多摩川から離れて数十メートル北へ入ると、そこには水が滔々と流れる用水が掘られていた。昭和用水堰で取水した水が流れている。この水が柵の中の東京都水道局拝島原水補給ポンプ所へ注ぎ込まれている。

多摩川の昭和用水堰から取り込んだ拝島原水補給ポンプ所の用水路

昭和15年(1940)の異常渇水の時、東京市水道局が急遽、地下導水管埋設工事を行い、翌年4月、約2㎞北にある昭島市美堀町の玉川上水へ送り込み、上水道の渇水を乗り切った経緯がある。

開設時、昭和用水を命水としていた農家の人々は、新たな取水に猛反対した。こうしたことから取水できるのは農閑期の秋から冬にかけての期間限定で、いまもこの取り決めで行われている。

たっぷり水を貯めた拝島原水補給ポンプ所

「東京の名湧水」下の川に癒される

原水補給所と隣り合っているのが「下の川」だ。「東京の名湧水57選」に挙げられている昭島市拝島5丁目のハケから湧き出ている澄んだ水が流れている。この日歩いた下の川の区間は、300mほどだろうか。足元に寄って来る数十センチもあるヒゴイやマゴイが悠然と泳ぎ、手に取れそうな気持ちになる。ベンチもあって癒しの空間だ。

古くは「下川原用水」と呼ばれ、啓明学園内から流れ出た水路には水車があって、下流へと流れるに従い「車堀」とか「田中堀」と呼ばれ、季節になると、ホタルが舞うところもある。

豊富な清流に癒された下の川

180年光彩放つ格天井の花卉鳥獣画

湧水が滴るハケの道を登ると、そこは拝島宿の中央あたりに位置する龍津寺(りゅうしんじ)だった。天文年間(1532~55)に創建された曹洞宗の寺だ。山号は玉應山。

現在の本堂は文化2年(1805)の再建。副住職の志茂智裕(ちゆう)さんが本堂へ案内してくれた。指さされるままに格子の天井画を見ると、龍を中心にヒマワリ、オモダカなど花卉図22区画、イヌ、サル、シラサギなど鳥獣図32区画が天井を張っている。畳に座り、息をのみ続けた。谷文晁と並ぶ江戸画壇の長老、大岡雲峰が天正14年(1843)に描いたという。

天井に広がる龍津寺の鳥獣画

神話の世界を彫刻で艶やかに

龍津寺から東方の下宿・志茂町にある日吉神社は、ここもハケ上に鎮座する古社寺で創建は村上天皇の天暦年間(947~957)だという。天正年間(1573~92)に再建された社隣の拝島山(はいとうざん)大日堂の守護社として建立されたともいわれる。大山昨命(おおやまくいのみこと)、羽山戸命(はやまどのみこと)、香山戸命(かがやまどのみこと)を祭る。

安政2年(1855)に再建された本社殿の彫刻に目を見張った。中国唐代の白居易らによる香山九老の故事によるもので、拝島村の彫師矢部建次郎良長が彫り、拝殿格天井の花鳥図や板戸絵・幣殿杉板戸絵は上州(群馬県)舘林藩の絵師坪山洞山が描いたとされる。

本殿の彫刻を語る橋本昇宮司の解説に耳を傾ける参加者たち

天井にコウモリ舞う姿も

案内してくれた宮司の橋本昇さんは「神道が仏教に傾きつつあった時代で74歳ごろの白居易を描いたそうです。また、本殿の彫刻には古事記や日本書記に伝えられる竹内宿祢(たけのうちすくね)も登場している。宿祢は景行天皇(12代)から仁徳天皇(16代)まで仕えたといわれる伝説上の忠臣です。本殿西側の脇障子には応神天皇(神功皇后の子・品阿和気=ほんだわけ)を抱く宿祢がいます。神功皇后は新羅から九州宇佐に来て品阿和気を産んだとされています。その時の一コマを優しく描いています」と本殿の周りを行ったり来たりして神話を現実的に話すなど、一行の目と耳を逸らさせなかった。

応仁天皇を抱くとされる竹内宿祢の彫刻(日吉神社で)

また橋本宮司は、拝殿の天井画70点の中に一般的に天井画では見られない生き物がいると誘い水を向けた。コウモリだった。黒く板になじんだ色は、時代を物語る色合いなのだろうか。

日吉神社拝殿の天井画を見つめる参加者たち

サカキ担いで練り歩く白装束の男衆

拝島村鎮守の山王社だった日吉神社の例祭は、毎年9月第2土曜日に行われる。山王社の祭礼を踏襲しているというだけに氏子の大貫さんは、1ヶ月前の祭りの夜の興奮が今も冷めていない様子で、例祭について語った。「一年間の生活サイクルの中心は祭礼にある」と言い切るほどだ。特に前夜祭の榊祭りは、200年以上も伝統を守り続けており、夜を通して街中を練り歩く奇祭として知られる。

榊祭りの初回は明和4年(1767)。江戸時代までは昼に行われていたものだが、江戸末期に夜の祭りになり、昔はケンカ祭りと言われた。

高さ5m余りのサカキを木枠で組み、土俵で支えた神輿を白装束の男衆が担ぎ、深夜0時に神社を出て未明まで町内を練る。神社に戻るのは朝方だ。この間、沿道の人々は出迎え、戻った神社境内ではサカキを奪い合うのが恒例だ。サカキを得た家では1年間、無病息災といわれる。

それぞれの宿では飾るサカキをどこで採っているのか、マル秘だ。どうやら関東一円にわたっているようだ。大貫さん曰く「このところ、新住民が増えたので、夜中にいきなり、大声と叫び声の神輿が出現することで前日、住民に知らせて回ることも欠かせなくなった」。

完全復活した3基の山車も

翌日は3台の山車が繰り出し、山車の上端8mほどまでに掲げた人形武者が見ものだという。そうした光景を映した動画を神社前で多摩めぐり参加者に見せながら、大貫さんは言う。「人形を上げられるようになったのは2019年から。電線を上げてもらうまで相当な年月がかかった」と。それまで長い間、人形がない山車で寂しかったそうだ。「来年は、ぜひ見に来てください」と大貫さんの強い誘いがあった。榊祭りは昭和50年(1975)に東京都無形民俗文化財に指定された。

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加美町
奈賀町
志茂町
拝島大師前交差点に立つ志茂町のお地蔵さま。
加美町のお地蔵さんと対になっている。脇の水路は拝島分水

中州に流れ着いた大日如来

祭りの高揚感に浸った一行は、日吉神社東隣で大屋根を広げる大日堂に目を転じた。天台宗の拝島山(はいとうざん)密巌浄土寺大日堂。天暦6年(952)創建で別当は普明寺(ふみょうじ)。本尊の大日如来と脇侍の釈迦如来と阿弥陀如来は、いずれも東京都有形文化財に指定されている。

武田信玄が陣を張ったという大日堂

拝島が開けた始まりは、当地といっても過言ではない。寺典によると、創建の年に多摩川が大洪水に見舞われ、中州に大日如来が流れ着いているのを村人が見つけて一堂を建てて、浄土寺として祀ったという。その600年ぐらい後に滝山城を攻めた武田信玄がここで陣を張ったという。元和3年(1617)には拝島が大火に襲われ、大日堂などほとんどの堂宇を焼失し、再興されるのは115年後の享保17年(1732)だった。現在の本堂は昭和10年(1935)に再建された。その建物の重量感は、背後の木に覆われた深い山の趣に似合う堂々たるものだ。

戦国期からの井戸、いまも湧く

大日堂の階段を下りた地点の「おねいの井戸」には戦国時代の逸話があった。石川土佐守の娘おねいが眼病を患って、大日堂で祈願して、「おねいの井戸」で洗眼したところ、治ったと伝わっている。水は、いまも井戸からこんこんと湧いている。

いまも湧き続ている「おねいの井戸」
樹齢約800年を象徴するような幹をくねらせる
「拝島のフジ」(東京都天然記念物)も見た

俊源が勧請行脚、再建に200年

この一帯は拝島の中心地であり、拝島大師が隣接する。拝島大師は、天台宗の拝島山本覚院が正式名。石川土佐守が開基し、天正6年(1578)創建と伝わる。それ以前の300年から200年前の史料が墓地などから発見されている。ここも元和3年(1617)に発生した拝島の大火に遭っているが、その後の住僧・俊源が武州多摩郡をはじめ、入間郡、甲州大菩薩峠麓、相州へと勧進行脚した甲斐が実って文政3年(1820)に本堂の再建にこぎつけた。拝島大師といえば、正月の「だるま市」が知られる。

威風堂々と立つ大日堂仁王門(左)の東側には拝島大師の五重塔などが広がる

「昭和40年代まで、鐘撞堂の下を広く占めていた池があり、料亭があった。それは情緒があった」と語る大貫さんの顔に惜しむ思いが滲んでいた。

寺院の街並み結ぶ湧水路

さらに東側に続くのが天台宗の円福寺だ。清楚感があふれる境内で、阿弥陀如来を本尊に祀る。天正年間(1573~92)の創建という。円福寺は普明寺、本覚院とともに周辺一帯にあった八坊の一つで、円福寺では廃寺になった智満寺、蓮住院の過去帳を保存している。なお、廃寺になった他の3ヶ寺は竜泉寺、明王院、密乗坊。

日吉神社のハケ下から豊富に湧き出ていた水が本覚院境内を抜け、円福寺まで繋がっていた。清水(せいすい)だからだろうか、歩き通して来た体が癒された。

一見して変哲のないまちに見える拝島界隈だが、丹念に歩くと、歴史に人があり、そこに人の営みがあることを痛切に感じる。歴史がある宿場町という拝島特有の顔もさることながら、これからの多摩めぐりでも新たな多摩の素顔に出会えそうな期待が湧く拝島めぐりだった。

拝島宿一帯をめぐり終えて記念の一枚に収まる参加者たち(南拝島公園で)
菊池さん
菊池さん

今回の多摩めぐりは、これまでの多摩めぐりに10回以上も参加されている地元拝島の大貫さんにサポートガイドをお願いした。所々で地元ならでの話が聞けて皆さんに喜んで頂けた。また、上宿・中宿・下宿のお祭り屋台のパネル写真3枚を加美町屋台蔵前に展示して頂き、屋台の立派さに皆さんが興味を示され、時間も忘れるくらいでした。

下の川湧水ではハケからの湧水や色とりどりの沢山のコイが泳ぎ、小ゴイの群れには「可愛い」との歓声も上がり、一時の癒しになったようでした。

龍津寺本堂の天井画や日吉神社本殿の彫刻、拝殿の天井画など副住職さんや宮司さんの説明で理解が深まったと思う。また、「榊祭り」の動画鑑賞にも大貫さんの解説が加わり、皆さんに内容を良く理解して頂けたことは大変良かった。

当日は、暑くも寒くも無く、また、比較的平地を歩くコースで、次のポイントへの移動も短くて、ガイドとしても案内しやすく、参加者の皆さんに喜んで頂けたと思う。

【集合:10月22日(土) 午前9時30分 JR青梅線拝島駅/
 解散:拝島駅 午後3時00分】