「第44回多摩めぐり 南町田にできた新しい街グランベリーパークを訪ね多摩最南端の地に足跡を残す」を5月18日(土)に開催します

第41回多摩めぐり 地表から消えた玉川上水をたどり、開削時から現在までの変遷を知る(旧東多摩郡下高井戸~旧南豊島郡代々木)

敷き詰めた小石が流水を感じさせる庭づくりコーナーも。
沿線の杉並、世田谷、渋谷区でそれぞれ工夫した公園づくりをしていた
(杉並区下高井戸の第二公園で)

ガイド : 味藤圭司さん

主なコース

京王線上北沢駅(集合) → 杉並区玉川上水第2・3公園 → 小菊橋 → 焔硝蔵跡 → 井の頭線立体交差 → 和泉水圧調整所 → 代田橋 → 世田谷区緑道 → 幡ヶ谷分水跡 → 笹塚駅 → 三田用水跡 → 渋谷区緑道 → 幡ヶ谷駅 → 初台駅 → 神田上水助水分水口跡 → 天神橋跡 → 葵橋跡 → 京王新線新宿駅(解散)

武蔵野台地を真っ直ぐに東へ延びるグリーンベルトの印象が強い玉川上水だが、12月16日、41回目の多摩めぐりで京王線上北沢駅から新宿駅南口付近までのほぼ暗渠の下流域を歩いてイメージが変わった。江戸時代初期に多摩川の羽村取水堰から新宿・四谷大木戸までの約43㎞を開削して高低差92mを自然流水で通水した玉川上水は、笹塚駅付近でV字形に大きく蛇行していることに、平たい武蔵野台地のもう一つの東京の地形を見た思いがした。

このルートはまた、通水される半世紀も前の元和4年(1618)に官道になった甲州道中(甲州街道)に沿うように玉川上水が掘られたことで街道も導水も高低差を限りなく抑えた測量・土木技術の高さを示したものでもあった。味藤圭司さんのガイドで参加者20人が歩くこと約10㎞。この間、緑道だったり、繰り返す公園だったり。新宿へ東進するに従い二層三層の首都高速道が頭上を覆い、林立する超高層ビル群が天を突く光景の変化を楽しんだ。昭和39年(1960)の東京オリンピックを契機に始まった東京大改造で敷かれた京王線の地下化で甲州街道に潜り、すでに暗渠だった玉川上水の下にレールを敷くなどした新時代の音が排気口から吹き出てくる車両の走行音と重なった。

この日の行程の約半分は明治11年(1878)11月2日に施行された郡区町村編成法で神奈川県から東京府に編入された東多摩郡(明治29年に南豊島郡と合併して豊多摩郡に。現在の中野区、杉並区)であり、南多摩郡、西多摩郡、北多摩郡を三多摩と言うことになった由縁の地でもある。

多摩めぐりの会で玉川上水を初めて歩いた平成30年(2018)12月15日、羽村取水堰-立川・砂川区間以来、5回にわたって全区間を歩いたことになった。

味藤さん
味藤さん

多摩めぐりの「玉川上水シリーズ」は完結までに1区間を残すのみになっていたところ、コロナ感染拡大による活動休止や、優先するテーマが現れて延び延びになっていましたが、やっと今回完結編を実施することができました。

残されていた部分は、玉川上水の中でもほとんどが暗渠になっている区間で、そのせいもあって国の「史跡指定」から外されているところです。したがって玉川上水のガイドブックからも除外されることが多く、不遇な扱いを受けています。そんな現状ですので、今回の参加のほとんどの皆さんも初めて歩いた玉川上水の区間だったと思います。

しかし、玉川上水のルートを考える時に、この区間が一番面白いのです。右から左から谷が迫ってきて、それをうまくかわしながら四谷大木戸まで1本の流れを作るという、とても神経を使う流路の設計を行ったことをうかがい知ることができます。今回は、歩きながら周辺の風景を眺め、その巧みな流路設計を実感することをテーマとしました。

もう一つ、ご存知の方がほとんどおられなかったのですが、新宿-幡ヶ谷駅間では、玉川上水が流れていた地下部分を、現在は京王線が走っているということもテーマとしました。昔は水が流れていたルートを、今は電車に乗って人が動いているのを見ると、玉川上水は今日も我々の生活に大変役立っている「レガシー」であることを思わずにはいられません。

甲州の流通路に一里塚

この日の多摩めぐりの始まりは、京王線上北沢駅北側の甲州街道。その上は首都高速4号線。その直下に「甲州街道一里塚」の解説板があった。慶長5年(1600)徳川家康が甲斐を領地として以来、江戸と甲府を結ぶ交通路として整備、元和4年(1618)に官道とした。この地は日本橋から約16㎞地点で4つ目の高井戸宿だった。塚は5間(約9m)四方、高さ1丈(約3m)。土を盛り上げて、そこにエノキがあったという。信州の高嶋藩、高遠藩、飯田藩が参勤交代の大名行列を組んで登城した。江戸中期以降は信濃、甲斐の江戸への流通路となり、安政の横浜開港後は甲州産の生糸を運んだ。そんな遠い昔を打ち消すかのように上と下の路上を途切れることがなく車が一瞬にして通り過ぎる。

車ラッシュに飲み込まれていた甲州道中一里塚

街道脇の公園も曲がる

一里塚のはす向かいは杉並区玉川第二公園(下高井戸)だ。新宿にあった淀橋浄水場が昭和40年(1965)に閉鎖されるまで開渠だった玉川上水が流れていた。その後、地中に鉄管を埋めて暗渠となり、昭和43年に杉並区が東京都から暗渠部分を借り受けて公園とした。

第二公園西端部が南から北にカーブしているのは、これから向かう東側で標高が高いために遠回りさせたものだ。この逆なのがさらに東にある下高井戸3丁目あたりだ。神田川が北から迫ってきて崖状にえぐれているために玉川上水の流れを南へ転換させている。

気づけば丘上に上水が

玉川上水は取水堰から四谷大木戸までの落差が約92mと見た目にわからず、体感もできない下りが続いている。その分、流域の地形が変化していることに気づく。玉川上水とほぼ南北に交差する荒玉水道道路に架かる玉橋で、それを知った。大正から昭和初期にかけて多摩川の水を、砧(世田谷区)から東京北西部(旧豊多摩郡、旧北豊島郡)の野方(中野区)、大谷口(板橋区)へ送水するために新たに埋設した水道管の上を通した道路だ。北上する荒玉水道道路は、えぐれるくらいに下って、民家の屋根がパッチワークになっていた。道路は、その先で上りになっている。玉川上水が高い地点にあるということだ。

玉川上水がいつの間にか高台にあったことを感じさせた荒玉水道道路

2つの台地が物語るもの

この日のテーマの一つである武蔵野台地東端部の地形を知ることができる舞台だ。高井戸の西部域で、東方にある淀橋台が武蔵野台地にクサビを打つように食い込んでいる。武蔵野台地は河川の流水で表層があまり削られなかったが、淀橋台は露出期間が長く表層の浸食が進んだ。だから淀橋台の地層は武蔵野台地のものより古いのだ。それだけに淀橋台ではシカの角のように小さな谷が玉川上水側に入り組んでいる。その谷を避けながら玉川上水が開削された。だから水路跡が曲がりくねる個所が多い。

代田橋-新宿間の凹凸俯瞰図

風光明媚を取り込んだ遊園地

ひときわ目を引いたのはレンガ造りの小菊橋だ。大正から昭和初期にかけて玉川上水の北側斜面を下った神田川の崖線を利用して遊園地・吉田園が造られた。その取り付け道路だった。遊園地に池や滝を配して風光明媚さを取り込んでいた。スケート場(夏季はプール)、運動場、テニスコート、茶亭もあった。昭和3年(1928)には当時の京王電気軌道は沿線の観光絵図を発行して行楽を促していた。

水のない玉川上水跡に架かる小菊橋
玉川上水の斜面下にあった吉田園

震災で移転した墓地

一行の行く手の左側に墓石が立ち並んでいるのが見えてきた。築地本願寺和田堀廟所(杉並区永福)だ。広さ2万4千㎡。4100区画もあるという。作家の樋口一葉、海音寺潮五郎、渡辺淳一、俳人・中村汀女、俳優の水谷八重子、昭和歌謡界をリードした笠置シヅ子、作曲家の古賀政男、服部良一ら著名人が眠る。

大正12年(1923)の関東大震災で壊滅的な被害を受けた築地本願寺は、陸軍省火薬庫跡地(当時は豊多摩郡和田堀町)の払い下げを受けて昭和9年(1934)にこの地に墓地を移して開所した。

昔、火薬庫 今、大学

和田堀廟所に続いて明治大学和泉キャンパスがある。7階建ての校舎前に芝で覆った盛土が細く延びる。一帯には江戸時代に幕府の焔硝蔵があった。盛土した土手は、その名残だ。焔硝蔵の門は、甲州街道の北へ100mほど入った地点にあり、東と北側には神田川流域の水田が広がっていた。西には永泉寺山域がある台地で、蔵の周囲を空堀と土手で囲っていた。

焔硝蔵を囲んでいた名残の土手

新編武蔵風土記稿の和泉村の項に、こうある。「御焔硝蔵5棟、村の西南にあり、御鉄砲玉薬方同心3人ここに住して御蔵守れり」。焔硝は硝石と硫黄、木炭の混合火薬で、当時、焔硝の主成分である硝石は国内では生産されず、オランダ船でわずかに輸入していた。それだけに見張り役を要したのだろう。

焔硝蔵跡の東に隣接した明大和泉キャンパスの正門があった。明大駿河台校舎も関東大震災で全焼、駿河台校舎の狭小課題を解決するため、昭和5年に和泉キャンパスへの移転を決定した。最寄りの京王電気軌道の駅名「火薬庫前」を「明大前」に変え、駅舎を現在地に移した。

送水管露出、掘割に電車

明大前駅前にあふれる駐輪をよそ眼に、多摩めぐりの一行は、さらに東へ。右手に突然、焦げ茶色の太さ1m以上もありそうな鉄管が現れた。左手は、掘割の底を京王井の頭線が走る。今は鉄管になっているが、井の頭線(昭和8年開通)を通すために鉄道部分を掘割にして上部に玉川上水の通水路をコンクリートで作って軌道を跨いだ。

地上に出ていた送水管を見つめる参加者たち

ここでガイドの味藤圭司さんは、“幻の路線”計画について話し出した。井の頭線の軌道敷の広い区間に指を差した。「あの広い部分に東京山手急行電鉄という第2の山手線を敷く計画だった。小田急電鉄の創業者であり、帝都電鉄(京王電鉄の前身)オーナーだった利光鶴松が計画を練っていた。軌道敷の広い個所は、その予定地だった。しかし、当時の世界恐慌で計画は頓挫してしまった」

掘割に差し掛かる京王井の頭線。車両の上を横切る玉川上水の送水管

水圧調整して今も送水

玉川上水は暗渠が続く。児童公園も続く。水にまつわる光景を求めたい。そんな矢先に正面の東に円筒形の水道施設が見える。東京都水道局和泉水圧調整所(杉並区和泉)だという。直径40mと60mの貯水槽が並ぶ。主に東村山浄水所からの送水をここで一時貯水して淀橋の給水所(新宿区西新宿)へ再び送り出すために水圧を調整している。

淀橋浄水場、新宿駅界隈 地上に京王線新宿駅があったころの写真
(現在の京王百貨店に京王線の駅が地上にあった)

誕生した水路も震災で埋設管に

淀橋浄水場ができた明治31年(1898)、三田用水の流量分を除いて玉川上水の水を直接、浄水場へ導水するために新水路を開削した。その分水起点だった。新水路を直線的に築造したことで、全体で900m短縮され、さらに左右にうねる旧来の流路に混入し易かった塵芥や土砂などによる水質悪化を防ぐことにつながった。

さらに大正13年(1924)に村山貯水池(東大和市多摩湖)からの導水が始まると、その半分は境浄水場(武蔵野市関前)で浄水処理をしないで淀橋浄水場へ直送もしたが、新水路で送り込む方式に拠っていた。

明治後期に撮影された玉川上水新水路の分岐点(和泉)

ただ竜ヶ崎地震(大正10年)と関東大震災(大正12年)で新水路の一部が損壊や崩落したことで、甲州街道の拡幅工事に合わせて道路に導水管を埋めることにした。利用されなくなった新水路跡は宅地や道路になった。その道路は、いま水道道路と呼ばれる都道だ。

近衛文麿、井の頭街道命名

和泉水圧調整所の西側にある井ノ頭通りに送水管が埋め込まれており、玉川上水の上を渡っているため、井ノ頭通りは盛り上がっている。首相だった近衛文麿は、自宅の荻窪からこの道を利用して都心へ通う日々だった当時、この道路に正式名がないことを知って「井の頭街道」と名付けた。水圧調整所の井ノ頭通りに面して碑が立っている。

井の頭街道の碑の前で命名のエピソードを聞く参加者

街道を曲げて通水した

代田橋駅に近い甲州街道は、相変わらずひっきりなしに車が走り、エンジン音とタイヤ音が鳴り響く。その街道に乗った首都高速が空を覆う。杉並区和泉1丁目4番あたりの街道脇でガイドの味藤さんは、一行の足を止めた。「いまは、姿形がない玉川上水ですが、明治42年(1909)当時、ここを直線で東進する玉川上水に対して、甲州街道はクランク状になっていました」と語り始めた。甲州街道より後発に建設された玉川上水は、江戸への主要路を曲げてでも通したほど水の必要性が高かったことを実感させる。

クランク状に曲がる甲州街道(明治42年)

江戸名所図会を見ると、代田橋は木で組んだ板敷の上に土を被せており、甲州街道の通行による塵芥などが玉川上水に流れ込まないように手当されていたほど、貴重かつ衛生的な配慮を施していた。上流から流れてきた玉川上水は、この地点で旧多摩郡を抜けて旧荏原郡に入るとも味藤さんは話した。

開渠の上水に漆黒の桜並木

玉川上水は代田橋駅付近で甲州街道を避けて南に折れた。街道に沿って行くと、萩久保の窪地が北側から入り込んでおり、それを避けるためだ。南に折れた一行は開渠の上水沿いを進む。漆黒ともいえるサクラの樹皮。その古木的な風情に上流域の光景を思い出して、桜の木を見る目に優しさを感じ、懐かしさも沸いた。上水の流路は、代田橋駅の下を流れている。開渠部分は長く続かず、300mほど先の「ゆずり橋」付近で再び暗渠になってしまった。

かろうじて流水が見られた代田橋。背後の上部は京王線代田橋駅ホーム

自然水復活の流水を見る

途中の環状8号(杉並区上高井戸)で玉川上水の小平監視所で放流されている高度処理水は、すべて神田川に流している。このため下流に当たる代田橋の開渠部分でちょろちょろ流れている水は、自然水であることにビックリ。まさに「自然がよみがえった」と一行の中から叫ぶ声が聞こえたような気がした。

いまも澄んだ自然水が流れる玉川上水。幡ヶ谷分水の取水口は塞がれていた

取水口塞がれた「逆さ川」

一行の向きを南下から北東に変えて、渋谷区笹塚に入った。再び開渠になった上水左岸にあるコンクリート壁が目についた。幡ヶ谷分水の取り入れ口跡だ。かつて甲州街道脇にあった水田へ水を引くための分水で一旦、北上して甲州街道沿いを東から西へ流れていた。玉川上水とは流れる方角が逆だったことから「逆さ川」と呼ばれていた。

笹塚付近で玉川上水が屈曲。谷と窪地を避けて開削したことがわかる

起終点だった笹塚駅、バス発着も

にぎやかな商店街に入った。笹塚駅前だ。甲州街道北側に直径1mほど盛土した塚にササか、タケが生えていたことから「笹塚」と言い合うようになったとか。笹塚駅は京王線と京王新線が合流している。いま京王線は多摩地域南部の甲州街道や多摩川沿いの動脈になっているが、大正2年(1913)に開業した京王電気軌道東端の起終点だった。当時、この駅からバスに乗り継いで新宿へ出た。バス輸送は東京で最初に運行した路線だ。2年後には新宿追分駅(現在の新宿3丁目交差点)まで延びた。

上水路最難所の急カーブ

笹塚駅南側の駅頭に石標がある。高さ1mほど。「南ドンドン橋」と刻んである。玉川上水に架かっていた橋だ。玉川上水は、南から北に食い込んでいる大山谷を避けて北へ向かっていたのを、さらに東方には牛窪(窪地)が北から南に迫り出している。この窪地を回避するために玉川上水は笹塚駅から南東に急カーブする。この区間700m。玉川上水の流路43㎞の開削工事の中でも最難所だったろう。

「南ドンドン橋」の橋名板を囲んで笹塚にまつわる話に耳を傾けた

水車ができ、火薬やビールを生産

ほどなくしたら一行は、笹塚橋のたもとで脚を止めた。ここは世田谷区北沢だ。江戸6上水の一つ三田用水(三田上水)の分水口だった。三田用水は寛文4年(1664)に開削され、渋谷川と目黒川水系の間の稜線にあたる台地を通って三田方面へ昭和49年(1974)まで通水していた。明治時代に入ると、水車小屋が出来、さらに目黒の海軍火薬工場の動力に利用された時期もあった。明治22年(1889)には日本麦酒の工場(現在、ヱビスビールを製造する恵比寿ガーデンプレイス)が開設された。

低地から街道沿いへ

井の頭通りと交差する中野通りを横切り、渋谷区大山町の玉川上水旧水路緑道に入った。サンゴジュ、クスノキ、マテバシイなどで緑道の趣が深い。足下の土も脚に優しい。東京都消防職員の消防庁消防学校を正門から見て、再び幡ヶ谷方面へ足を向ける。

Ⅴ字形に流れる玉川上水の最南端部を進む参加者の列。この後、上水は北東に上る

幡ヶ谷は元々、甲州街道の北側を流れる和泉川の低地に村落が広がっていたが、江戸時代になって甲州街道の往来が増えて、次第に街道沿いに人が住むようになった。京王電気軌道の幡ヶ谷駅は玉川上水から離れて甲州街道に寄った地点に置いた。今日では京王新線の駅も地下に潜った。地上駅の跡地や軌道跡は公園や小道になった。

頭上に高速道、地下に電車

「大都市」の匂いを感じてきたのは初台だ。甲州街道と山手通りの初台交差点の周辺は、頭上を首都高速4号線、首都高速環状線が覆い、東京オペラシティ、NTT東日本などの高層ビルが背比べしていた。

初台といえば太田道灌の名が浮かぶ。豊島郡代々木村に8つの砦を築いた太田道灌は「一の砦」(のろし台)を初台といったという。河骨川(こうほねがわ)など小さな河川による浸食によって台地を形成したことを形容したのだろうか。

初台駅から地上に出た京王線。右に玉川上水跡がある

初台駅は、開業の大正3年(1914)には京王電気軌道改正橋駅だった。玉川上水の脇にあり、そこに改正橋が架かっていた。初台駅に改称したのは大正8年だった。昭和38年(1963)に新宿-初台駅間が地下化した。地上駅時代の一段高いホームは、いまも改正橋の東にあり、北側に鉄道柵も残っている。昭和53年(1978)に甲州街道の道路下に京王新線を通したことから初台駅は京王新線に移転した。

排気口から電車の走行音

高速道路の西新宿ジャンクションのループが空を覆う中、一行は巨大な常夜灯が立つ明治神宮に至る西参道に立った。近くの正春寺(しょうしゅんじ)付近で江戸時代に神田上水助水堀を開削して玉川上水から神田上水に水を送り込んでいた。助水堀は十二社(じゅうにそう)、熊野神社を通り、淀橋までの約1.5㎞区間に及んだ。この地にいま痕跡はないが、玉川上水跡に排気口が突き出ていて京王線の走行音が吹き出していた。時代の変遷を見る思いだ。

ジャンクションのループと奥の高層ビルの真っただ中を歩く

樹齢300年のイチョウも弱る

終着が近そうな街並みの中、脚が重くなった。ここは西新宿に近い文化学園エリアだ。遠い昔、甲州街道を行き交う人々の目印だった「箒銀杏」(渋谷区代々木)は樹齢300年という。箒銀杏はビルの狭間に立つ天満宮境内にある。細いビルの壁で枝をすぼめている。解説板によると「環境と加齢による変化が樹勢に影響している」と嘆いていた。この隣の玉川上水に架かっていた天神橋は、今はなく、御影石の石標が立っていた。

甲州街道の目印だった細くて高い箒銀杏

高層ビル街に送水管アーチ

超高層ビルが壁のように張り付いた光景で象徴される新宿。文化学園のオープンスペースにレンガ造りの半円のアーチがあった。明治時代に玉川上水を新宿駅の地下を通して四谷大木戸に抜けていた。駅構内にあった玉川上水のレンガの一部使ってほぼ原寸大で再現したモニュメントだった。

新宿駅地下の玉川上水に使われていたレンガで再現されたモニュメント

助水堀避けてレールも曲がる

この東側で、甲州街道の幅員は50mほどの区間が広い。車寄せのようだ。京王電気軌道時代の新町駅跡だという。新町駅を出た下りの電車は玉川上水の南側へ渡り、さらに神田上水助水堀で急転回して北側へ渡っていた。ガイドの味藤さんが言うには「新町駅を出た電車は、上水を横切ったり、助水堀を急転回したりするのは甲州街道沿いの建物を避けるためでしょう」と。

下屋敷が縁で紋の名いただく

地下を走る京王線を足下にした格好の終着地、葵橋付近は歩道が狭く、人も車も往来が激しい。そんな中、味藤さんは続けた。「葵橋は、いまこそ標石だけだが、玉川上水に架かっていた。葵橋の南方に葵を家紋にした紀州徳川家の下屋敷があった。明治時代には下屋敷を玉川上水のそばにあった戸田越前守の下屋敷に移したという」。

紀州徳川家の下屋敷が近くにあったことが縁で名付けた葵橋付近は
超高層ビル群が迫っていた

5回にわたる玉川上水に全回参加したのは、多摩めぐりの会の幹事を除いて1人だったが、全工程約43㎞を歩き通した達成感もさることながら、下流域では、上流域で見られなかった玉川上水の湾曲・屈曲の姿を目の当たりにした。谷と丘陵を避ける測量と設計、しかも43㎞という長距離をたった8ヶ月で開削して通水にこぎつけた。動力機材が発達した今日でさえも短期間で成し遂げることができるかどうか。お上に忠実だった役人と開削要員の胸中を想う。一方でこのルートは東京の近代化に欠かせない“命水”であり、時代とともに役目を変えながら玉川上水を生かしている沿道の人々にも思いを馳せた。子らがいずれ、公園で遊んだことを振り返るとき、そこは玉川上水だったことを刻んでほしい。

【集合日時:12月16日(土)午前9時30分 京王線上北沢駅/解散:京王新線新宿駅 午後3時半ごろ】