ガイド : 須永 俊夫さん
南武線西府駅 → 御嶽塚古墳 → 武蔵府中熊野神社古墳 → 高倉塚古墳 → 分倍河原駅・新田義貞像 → 高安寺 → 下河原線跡 → 番場宿 → 御旅所・高札場 → 善明寺 → 坪宮 → 府中本町駅 → 国司館と家康御殿史跡広場 → 大國魂神社 → 東照宮 → 宮乃咩(みやのめ)神社 → 馬場大門欅(けやき)並木 → 源義家像 → 国史跡武蔵国府跡(国衙地区) → 京所道(きょうづみち) → 猿渡家墓所 → 多磨寺跡 → 府中競馬場前駅 → 武蔵国府八幡神社 → JRA東京競馬場東門 → JRA競馬場博物館
多摩地域の中でも指折りの繁華街を誇る府中。1300年ほど前の大昔に現在の埼玉県のほぼ全域、隅田川以東と島しょを除く東京都、神奈川県川崎市、横浜市の大部分を占めていた武蔵国の国府が置かれたのが府中だった。この国の政治の中心地だった国衙(こくが)は大國魂神社周辺だ。10月21日に行った39回目の多摩めぐりは、このエリアにスポットを当てて、なぜ、府中に国府を置き、国衙が築かれたのか、30ヶ所に及ぶポイントで、府中で見る古代から近代の様子を浮き彫りにして、国府が置かれた地域の特性を探り続けた。歩くこと2万歩に近かった。ガイドの須永俊夫さんは参加者27人を前に語りつくせないベールを剥ぐように、昭和史にもふれて府中の素顔に迫った。
65年ぶりに復活した駅に再会
10月21日朝、多摩めぐりに参加する27人が集合したのは、平成21年(2009)3月14日、65年ぶりに復活したJR南武線西府駅だった。戦中の昭和19年(1944)に南武鉄道が国有化された時に駅の乗降客が少なかったことと太平洋戦争の激化で廃止された経緯がある。参加した人の中には「この駅名、懐かしい。子どものころと同じ名前なんだもの」と駅舎を振り返っていた。
南武線は多摩川で採掘した砂利を川崎駅へ運ぶために敷設された鉄道で、昭和3年(1928)12月11日までに川崎-立川駅間の全線が開通した。「西府」とは、昭和29年(1954)に府中町が2村と合併して府中市になるまで多磨村と西府村があったことによる。
6世紀の円墳、後に御嶽信仰の塚に
この地域の古の一つのベールを脱いでくれたのは駅南側の御嶽塚古墳(御嶽塚古墳群5号墳。本宿町)だ。駅周辺に20基ある御嶽塚古墳群(東西700m、南北100m)の中で唯一、墳丘が残る円墳だ。築造は6世紀前半だという。周溝も見られる。新編武蔵風土記稿には「高一丈五尺(約4.5m)」、武蔵名所図会にも「高さ一丈四、五尺」と記すほど、当時はかなり大型の墳丘だったが、いまは1mほどの墳丘が残り、天頂には丸みを帯びた高さ40㎝あまりの石祠が祀られている。
祠の屋根には「御嶽大権現」と刻んであり、祀った年代の安政5年(1858)の文字が読めた。19世紀初頭には御嶽信仰に関係した塚だったことを示す。ガイドの須永さんは、言った。「築造後に墳丘の大部分が失われたが、中世以降、再びマウンドが築かれて御嶽信仰の塚として崇められたものでしょう」と。
新技術で最古、最大の上円下方墳
御嶽塚古墳から北東へ400mほど離れた熊野神社(西府町)の境内北側には巨大古墳があった。武蔵府中熊野神社古墳だ。上円下方墳で、1段目は一辺が約32m、高さが約0.5m。2段目は一辺が約23m、高さが約2.2mでそれぞれが方形を成している。3段目は直径約16m、高さが約2.1mの円形。上円は築造当時5mほどの高さがあったと推定されている。全国で見られる上円下方墳の中でも最古かつ最大のものだといわれている。
平成2年(1990)、熊野神社の山車を新調するにあたり、収納庫を建て替える際に府中市の遺跡発掘調査が行われた。平成15年、神社の小山から出土したのは三段築造の上円下方墳だった。翌年、石室内や周辺の発掘調査に広がり、平成17年、国の史跡に指定された。
掘り込めの基礎で深い石室
武蔵府中熊野神社古墳は、葺石や貼石が復元されているが、その大きさと古墳のタイプが近隣の府中には例がない。南東側約1.2㎞地点の古墳時代後期の円墳群の一つ高倉古墳群や南側約0.4㎞の御嶽塚古墳を中心とする古墳時代後期に築造された御嶽塚古墳群も武蔵府中熊野神社古墳とはエリアが異なることなどから単独で造られた古墳と見られている。
武蔵府中熊野神社古墳の主体部は、複室構造の横穴式石室で、1段目の墳丘内にあった。石室を築造する前に大きな穴を開けて関東ローム層の赤土と粘土質の土を厚さ5㎝ずつ互い違いに突き固めた掘り込め地業と呼ばれる基礎工事を施していた。掘り込め地業は、関東地方の終末期古墳に時々見られるが、1.5mもの深さに及ぶ例は他にほとんどない。
副葬品が示す政権との繋がり
開口部は、明治時代に開いていたために副葬品の多くは持ち去られたとされている。ただ、太刀の鞘の先端に付く鉄地銀象嵌鞘尻金具や、富本銭にも使われた七曜紋など見事な銀象嵌が施された副葬品が出土している。これも他の古墳には例がなく、鞘尻金具の形態などから7世紀後半でも早い年代のものと見られている。高度な石組み技術を取り込んだ胴張り型石室や葺石工法、出土した副葬品などから先進的な畿内の政権と密接な繋がりがあった武蔵国の有力な在地勢力者が造営したものと見られている。
在地有力者の存在が浮かぶ
須永さんは、古墳研究家の間で語られている近年の有力説を挙げた。「武蔵府中熊野神社古墳を造営した当時の近隣の古墳情勢を見ると、7世紀中葉以降とされる造営時期が大きな意味を持ってくる。古墳造営と前後して武蔵府中熊野神社古墳の東方約1㎞に東山道武蔵道が拓かれたと見られることから7世紀末から8世紀初頭は、現在の府中市中心部に武蔵国府が置かれたと考えられる。国府を置くために重要な役割を果たした在地有力者がいたのではないか。その在地有力者が、ここ武蔵府中熊野神社古墳に葬られたと考えるのが常套でしょう」と分析した。
住宅街に6世紀前半の円墳も
一行は、甲州街道へ出て新府中街道を南下して御猟場道を東方へと足を向けた。住宅街の一角にぽっこりと盛り上がった小山があった。高倉塚古墳(分梅町)だ。この辺りは立川段丘の南縁に位置して府中崖線上にある。四方を住宅に囲まれた中に直径20m、高さ2.5mの円墳が出現して目を見張る。6世紀前半に築造され、横穴式石室を備えているという。この古墳から土師器坏が発掘されており、周囲に分布している高倉塚古墳群(28基)などからも土器や鍔、鉄鍬、水晶製切子玉、ガラス製丸玉、金銅製の太刀が見つかっている。
府中市の古墳は、国分寺崖線と立川崖線に、東の白糸台古墳群(15基)や中央から西にかけて高倉塚古墳群が展開していることから南向きで日当たりが抜群、崖線からの湧水も臨めただろうから住みよい地域だったことが伺われる。そんな地点に豪族か、権力者がこの地域を取りまとめていたことを表す古墳でもある。
鎌倉攻めを象徴する義貞像
古墳続きの中で参加者が足を止めたのは、JR南武線と京王線が交差する分倍河原駅南口だった。ここは元弘3年(1333)に鎌倉幕府を倒すために挙兵した新田義貞と、幕府側の北条泰家が戦った「分梅古戦場」(分倍河原古戦場)や「関戸の戦い」が知られる一帯だ。
このロータリーで、前足を蹴り上げて飛び上がらんばかりの駿馬の背に乗った新田義貞の銅像が目につく。義貞は右手に持った刀を高く掲げている。他の軍よりもいち早く鎌倉に侵攻して東勝寺合戦で鎌倉幕府・北条得宗家の本体を滅ぼしたような威勢を見せる。
義貞は軍功を上げ続け、後醍醐天皇から建武の乱(延元の乱とも。建武2年=1336年)で事実上の総大将に任命されて各地を転戦した。だが、箱根や湊川での合戦で敗北して最期を越前藤島で迎えた。須永さんは「義貞は、鎌倉幕府を滅ぼして中央へ進出し、功績あるが故の重圧に耐えながら南朝の総大将として忠節を尽くした生涯だった」と静かに語った。
重量感際立つ山門の高安寺
南武線の踏切を渡り、分倍河原駅東側の高安寺(片町)へ。境内の奥に建つ山門は重層感にあふれていた。表側の左右に仁王像を配し、内側に地蔵と奪衣婆をリアルに見せる。明治5年(1872)の建築だという。
その奥に泰然と建つのが本堂。寛永元年(1624)に火災で焼失し、179年後の享和3年に再建。これも重量感が際立っていた。安政3年(1856)に建てられた鐘楼とともに東京都選定歴史的建造物だ。
秀郷ゆかりの寺で義経が写経三昧
高安寺は曹洞宗で、俵(田原)藤太の「大百足退治」で名高い東国の武将・藤原秀郷(891~958)と縁が深い寺だ。秀郷は平将門追討に功を上げ、従四位下に昇り、下野・武蔵の2国の国司と鎮守府将軍に就いて勢力を拡大した。武蔵国主となって府中に館を建てたのが高安寺の始まりで、秀郷が役目を終えて府中を離れた後の館跡が市川山見性寺(宗派不明)になった。
このころ、源頼朝の怒りを買った弟・義経が鎌倉入りを拒まれて、京都へ帰郷する折に見性寺に留まり、大般若経を写経する日々を過ごした。境内の雑木林から浸みだす清水を汲み取って写経した井戸が現存しており「弁慶硯の井」と名付けている。高安寺近くに鎌倉街道があり、鎌倉から奥州への要衝地だった。
寺を支えた府中領の代官地頭
見性寺が安国寺に名を改めた時期がある。南北朝の兵乱後、室町幕府初代将軍・足利尊氏が奈良時代の国分寺に倣って鎮護国家と衆生救済を願うために武蔵国安国寺に改め、その後、龍門山高安護国禅寺として再興した。江戸時代初期まで臨済宗で、その後、青梅市の海禅寺の末寺に入り曹洞宗になった。江戸時代に徳川将軍家から朱印15万石を拝領したが、家康に仕えた武蔵国府中領初代代官地頭・高林吉利の外護が大きかった。
文禄2年(1593)、高林吉利は72歳で亡くなり、本堂に近い墓地に眠る。府中の郷土かるたにも取り上げられている。この墓地には府中番場宿神戸(ごうと。宮西町)の旅籠の主人・野村瓜州(かしゅう)も入り、瓜州と交遊があった太田蜀山人(南畝)の撰による墓碑銘がある。
村挙げての砂利採掘、民間会社も
一行は、さらに東へと向かい、まずは旧甲州街道と交わる下河原線跡の緑道(片町)を目指した。下河原線は多摩川で採取した砂利を運ぶ砂利鉄道として敷設された。砂利は江戸時代から江戸市中で種々の普請に使うために需要が高かった。多摩川の砂利が文献で最初に見られるのは宝暦3年(1756)。下丸子(現大田区)で始まり、以後、小杉、上丸子、上平間など9ヶ村が村請制で進めていた。木造帆掛け舟の砂利舟で運び、六郷で積み替えて江戸へ運搬されていた。当時、砂利の単位は坪。1坪6尺㎥、重さで約10tあった。
憩いの緑道になった砂利鉄道跡
明治40年(1907)に渋谷-玉川間を運行した玉川電車(現東急世田谷線)に続いて、東京砂利鉄道会社を立ち上げて砂利を運んだ貨車が国分寺-下河原(府中市南町)間を運行した通称、国鉄下河原線だ。下河原線は大正9年(1920)に国有の貨物線になり、下河原線と正式名にした。昭和8年(1933)に東京競馬場が目黒から府中に移転して、東京競馬場前駅を新設して旅客線にもなった。昭和48年4月1日に武蔵野線が開業したのに伴い、武蔵野線と重複する下河原線は前日の3月末で旅客営業(5.6㎞)を取り止めた。残った貨物線(3.8㎞)も昭和51年(1976)に廃止された。
線路敷設の端緒となった多摩川での陸掘採取も昭和40年(1965)に採掘禁止となって路線も廃止された。砂利採掘を取りやめた跡の穴を転用した一つの施設は、いまの競艇場「ボートレース多摩川」(是政)だ。
線路跡の3.46㎞区間は、いま下河原緑道として整備されて歩行者、自転車専用道として市民の憩いの場になっている。路上に埋め込まれたレールは、下河原線時代に敷かれていたものだ。下河原線路物故者供養塔がある旧甲州街道に立つと、南側の緑道は坂を下っていて府中の地形も分かった。
旧街道に宿場や蔵の江戸風情
この辺りは番場宿で、日本橋から約8里(約31.4㎞)に位置し、甲州街道の4つ目の宿場だった。江戸時代に整備された旧甲州街道や古東海道よりも古くからあった府中-神奈川・保土ヶ谷を結ぶ相州道が、いまの府中市役所前交差点の旧甲州街道と交わる。ここは本町と番場、新宿の3村にまたがった宿場だった。三宿ともいわれ、ひと月を3村が交代で賄っていた。天保14年(1843)の人口は2762人で、22年前より66%余り増えていた。当時の「宿村大概帳」によると、府中宿には29軒の旅籠屋があり、そのうち遊女がいた飯盛旅籠が8軒だった。番場宿は茂右衛門宿ともいわれていたと文禄3年(1594)の検地帳にある。
こうした賑わいがあったのは大國魂神社を抜いては語れない。最大の行事は「くらやみ祭り」だろう。これに先立って行われる「しお汲み」汐盛講(品川)とか、「お浜降り」潮盛講(府中)の行事に参列する人々の宿所などでの接待に「品川講中御宿」が設けられた。
旧甲州街道沿いには府中の歴史の一端を醸し出す古風な木造家屋や古色がにじんだ建物などが散見できる。府中市役所前交差点の酒店もそうだ。問屋場の蔵を再現した趣がある。
高札場跡、いま市街地の重要拠点
この向かい側にあるのが高札場だ。朱塗りの板塀に載せた瓦屋根。古代から明治時代初期にかけて一段高くした高札に法令を板掛けにして民衆に知らせた。幕府は人々の往来が多い地点や関所、港、大橋の袂、府中の場合のように町や村の入口、中心部など目立つ場所に高札場を設けた。廃止されたのは明治7年(1874)。2年後には完全に撤廃された。「庶民への周知徹底が図られた」という公式見解の裏には切支丹札(キリスト教禁止)に対する欧米の反発があったといわれている。
そんな中心地であったことも伝えようと府中市などは高札場を大國魂神社の祭礼(神幸祭)神輿を休ませる御旅所としており、氏子らには重要なところだ。
全国最大の鉄仏座像祀る
ここから南下して府中市役所に近い善明寺(本町)の山門に立った。享保5年(1720)神学者の依田伊織(府中本町)は、亡くなった両親を弔うための寺塔を善明寺の先祖の館跡に造営した。比叡山の安楽律院が本寺。天台宗で山号を悲願山という。
本尊の鉄造阿弥陀如来坐像は像高178㎝。全国に約90体ある鉄仏の中で最大座像。国重要文化財だ。作り手は国分寺黒鉄谷戸(くろがねやと)の仏師・藤原助近で、鎌倉時代中期の建長5年(1253)に作った。鉄仏は当初、武蔵国分寺の西方にあったと伝わっており、その後、大國魂神社に安置されたが、明治の神仏分離令で善明寺に移された。こじんまりした境内は、市街地にありながら静穏さが漂い、葉を落としつつある桜の大木が春の華やぎを予想させた。
神輿渡御の報届ける国造代
善明寺の西側にある坪宮(つぼみや。本町)は大國魂神社の境外摂社。元は「津保宮」で、武蔵国の国司が地方政治を行った国衙に祀られていたという。祭神は武蔵(无邪志)国初代国造(くにのみやつこ)・兄多気比命(えたもひのみこと)。古事記には「天乃菩卑弥能命」、日本書記には「天穂日命」とある。
坪宮には重要な役目がある。「くらやみ祭」で神輿が大國魂神社を出発すると、古式に則っていまも国造代(奉幣使)が神馬に乗って坪宮に赴き、神輿渡御の完了を告げる。さらに国造代は御旅所へ参上して奉幣を捧げる。普段は小さく静かな境内だが、古式が執り行われるときは厳粛な空気感に包まれる。
国司の仕事と暮らし再現する
一行は、これまで3基の古墳や寺院、宿場町を歩いて府中に国府が置かれた時代の前や後に見え隠れしていたおぼろげな姿を見てきたが、府中本町駅東側の「国司館と家康御殿広場」(本町)に到着して国衙の一端を見るようで現実感が湧いた。
平成30年(2018)11月、発掘調査に基づいて10分の1に復元された史跡広場だ。10分の1とはいえ、ざっと400㎡はありそうな広場だ。飛鳥~奈良時代前期に置かれたのが国司館であり、安土桃山時代から江戸時代前期に建造されたのが徳川将軍家の御殿だ。武蔵国を治めた行政機関の長・国司の居宅兼執務室「国司館」は復元模型で、広場には国司館に使った原寸大の柱も立つ。
階級色分けした官人の人形
主殿は奈良の都から赴任した国司が在任中に暮らした館の中心施設だ。主殿と脇殿の前の前庭(ぜんてい)では様々な儀式が行われ、これに列席する国司らの人形が置いてある。国司の仕事場であり、生活の場でもあり、饗宴も華やいでいたことだろう。館の四面には庇が付いており、格式の高い様式だったことを示す。「付属建物」と記した建物は、国司らが使った生活道具や儀式、饗宴の備品庫だ。
置いてある人形は、国司着任の儀式を再現したもので中央に国司が立っている。濃いオレンジ(筆頭国司の守)や明るいオレンジ(2等官の介=すけ)、濃い緑(3等官の掾=じょう)、薄い緑(4等官の目=さかん)の衣は階級を示す。国司らの動きをバーチャル・リアリティー(VR)で再現しており、参加者の大勢がスコープを覗き続けた。
徳川3代が使った家康御殿
家康が江戸入りしたのは天正18年(1590)8月1日。豊臣秀吉から関東6ヶ国(伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野)を与えられ、江戸城に居城した。いまから430年ほど前の安土桃山時代に家康の府中御殿が置かれた。だが、近年では秀吉が造ったとする説も有力視されていることを御殿跡現場で知った。こうした御殿は、関東だけでも100以上造営された中で府中御殿は初期に造られたものだともいう。
家康は77歳の生涯の中で府中に関わったのが49歳から75歳までの26年の間に何度も府中御殿に出入りした。
その一つに家康は、秀吉の甥・秀次とともに天正19年に奥羽の紛争平定に出向いたが、戦いは回避され、2人は、ここ府中御殿で対面した。これが縁となったか、六所宮(大國魂神社)に500石、高安寺と安養寺(御殿の南東側)にそれぞれ15石の寺領が与えられた。慶長5年(1600)年には関ヶ原の戦いに臨んだ家康は、武蔵府中の馬市で入手した名馬に乗って出陣した。いま枝葉が深くなったケヤキの並木には関ヶ原の戦いに勝利した御礼として家康が六所宮に奉納したものも含まれているという。
慶長11年(1606)、奉行の大久保長安が六所宮を再建した。家康は歴代の将軍の中でもことに鷹狩りを好んだ。その折に府中に立ち寄った。慶長13年には御殿で将軍・秀忠と面会している。その後も家光がやってくるなど徳川3代に渡って御殿が使われた。
領地視察と軍事訓練の拠点?
府中御殿が建てられたころは、徳川政権がまだ安定しておらず、領地視察と軍事訓練が主な目的だったか。対岸の多摩川越しに富士山が望める府中随一の景勝であり、防備も重視した上でこの地に御殿を建造した要因の一つだろうか。府中市の文化財担当者も想像を巡らしているという。
元気だった家康も元和2年(1616)、駿府で息を引き取り、久能山東照宮に葬られた。翌年、日光に改葬する折に棺を府中御殿に一時安置され、法要が執り行われた。家康亡き30年後の天保6年、御殿は府中の大火で焼失した。
国の斎場だった大國魂神社
一行は大鳥居をくぐって武蔵国の守り神だった大國魂神社(宮町)の境内に入った。参道は広く長い。神社の起源は古い。第12代景行天皇41年(皇紀771年=西暦111年か)5月5日の大神の託宣により出雲臣天穂日命(いずものおみあめのほひのみこと)の後裔が武蔵国造に任じられて以来、国造として祭務に当たってきた。その後、孝徳天皇(596~654年)の時代を経て大化の改新(645年)や大宝律令制定(701年)後、この地に武蔵国府を置くことになり、大國魂神社を国衙の斎場として国司が国内の祭務を統括するところに充てられた。
古代国司は、小野神社(多摩市・一ノ宮)はじめ東京(あきる野市・二宮神社)・埼玉(さいたま市大宮区・氷川神社、秩父市・秩父神社、神川町・金鑽=かなさな=神社)・神奈川(横浜市緑区・杉山神社)県にまたがる六所を巡拝していた。その後、巡拝しやすくするために大國魂神社に国内の神を合祀して大國魂神社を総社として、六所を六所宮とした。成立は11世紀後半という。
歴代の武家が寄進や造営して
大國魂神社は、古くから権力者には疎かにできない神の里だった。源頼義は朝廷の力が及びにくい東北地方の神威によって治めようと永承6年(1051)に南向きだった社殿を北向きに変えた。源頼朝の命を受けた使節が寿永元年(1182)、正室政子の安産祈願をした。4年後の文治2年、頼朝は武蔵守・義信を奉行にして社殿を造営した。
貞永元年(1232)には将軍・頼経の代にも武蔵守資頼を奉行として社殿を修造させた。
この400年ほど後に武蔵国に入った家康は、江戸を開き、武蔵国の総社・大國魂神社へ崇敬の誠を表す社領500石を寄進、社殿などの造営に尽くした。天保3年(1646)10月、類焼で社殿を焼失したが、寛文7年(1667)、将軍・家綱の命で久世大和守広之が社殿を造営した。
社殿は三殿を横に連ねた朱塗りの相殿造りで、慶応年間(1865-67)に檜皮葺から銅板葺に変えたが、形態は寛文時代そのままだ。拝殿の西脇に東照宮がある。元和4年(1618)、2代将軍・秀忠の命によって建てられた。家康の棺が駿河から日光に移される途中、府中で一夜、繫留したのを後世に伝えるために東照宮を建造したという。
国庁の設置記念に神社再建
一行が参道に出たところで、随身門に入る婚礼の儀の一団を迎えた。微笑ましいひとときに見とれた。参道脇に静かに佇んでいたのは宮乃咩(みやのめ)神社だった。芸能と安産の神である天鈿女命(あめのうずめのみこと)が祭神。創建年は大國魂神社と同じで、源頼朝が妻・政子の安産を祈願したことで知られる。再建されたのは昭和23年(1948)で、古代国府の国庁があったことを記念に建てたともいわれる。
頼家・義家が寄進した緑濃い並木
大鳥居を抜けると、緑濃いケヤキ並木が南へと延びていた。馬場大門欅並木だ。全長約500m、150本ほどのケヤキだけの並木として国指定天然記念物は、ここだけだ。ケヤキの植樹の始まりは平安時代で、康平5年(1062)に前九年の役(1051~62)平定の際に源頼家・義家父子が苗を千本寄贈、江戸時代には家康も寄進した。ケヤキ並木の大國魂神社寄りに源義家の銅像が立つ。
「さきたま」で世襲していた国造、府中へ
大國魂神社東側の武蔵国府跡は、こじんまりした史跡だった。東京都を例にとれば、知事が取り仕切る政治・行政の中心地だ。武蔵国が成立するのは大宝律令による国郡里制によって国司が命じられてからだ。大国の武蔵国に国司が任じられたのは大宝3年(703)。続日本記に記されている。
それ以前は、安閑天皇の時代の534年に「さきたま古墳」がある埼玉県行田市の笠原直(かさはらのあたい)が武蔵国造の乱に勝利して国造を世襲していた。さきたま古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣や、その後に出土した副葬品などから21代雄略天皇(418?~479?)に仕えた古墳主が政権の刀杖人(軍事官僚)だった。この国府は、なぜ行田から遥か南方の府中に置かれたのか。
東国支配妨げる混迷の武蔵国
当時は、大和朝廷が各地の豪族の政争に関与しながら各地に屯倉(みやけ)を設けていった。武蔵国には4ヶ所(横見郡、橘樹郡、多磨郡、久良郡)あり、いずれも大和朝廷の東国支配の拠点にしていたと考えられている。また、9世紀に入ると、国司を在庁官人として支える郡司層や富豪化した在地有力層が台頭し始め、国衙を左右するなど武蔵国は混迷していた。
平定目指した4条件を挙げる
こうした混乱の中だからこそ国府を府中に据え替えたのか。須永さんは、その要因を挙げた。
武蔵国造の乱で大和政権は埼玉行田の笠原直を支援して4ヶ所の屯倉を献上させ、武蔵国多磨郡に拠点を置くと同時に大和政権の東国・蝦夷支配を強めた。
多摩川流域は、元々地元有力者が多数の円墳を造るほどに支配力を持ち、府中ではマチが広がり、多摩川を遡っていった。特に府中では国衙を中心に東西約3㎞に建物群が密集し、掘立柱建物群のほかに多い時には1000棟近くの竪穴建物が存在していたほど潜在的な経済力があった。
さらに7世紀後半に築造された武蔵府中熊野神社が版築という新技術を投入していることが象徴的で、高速道ともいえる東山道武蔵道や武蔵国分寺を近くに設置したことなどで資金面でも支えることができた大和政権派遣の指導者、または政権と懇意な豪族が存在したことが考えられる。その指導者・豪族が国府を誘引した。
もう一つ。これから訪ねる多磨寺(宮町)の存在だ。府中のマチの成立と前後して多磨寺が建立されていることに着目した。中央派遣の国司に仕える地元の郡司を輩出した郡家が建立した寺だ。資金力、支配力、技術力を結集できた資産階級がいた証しだ。
須永さんは、府中への国府設置に至る推論を、こう結論づけた。「府中周辺には大規模な古墳が存在しないことは大きな地域有力者が不在だったことを意味する。北武蔵には大きな古墳があり、有力な豪族がいた。中央集権化を進める政府としては東国の大国である武蔵国を確実に支配下に置くために北武蔵の豪族から離れた多摩川沿いの府中に国府を設置したと考えられる」と。
連なる写経所、いま京所道
大國魂神社の東へ向かう京所道(きょうづどう・きょうづみち)に出た。品川道ともいい、目黒川の河口である品川湊から大國魂神社を通って甲州へと抜ける甲州街道が整備(慶安時代=1648~52)される前の重要路で、その昔、この辺りに国府の写経所があったことから「経所」がいつしか「京所」になったといわれる。幅3~4mの市道沿いは住宅街だが、京所道という名前が歴史を醸し出して心地いい。
総社大宮司の猿渡家の墓所
京所道を左折した奥まった墓地に入った。代々武蔵国総社大宮司に就いていた猿渡家の墓石があった。古代に橘樹郡猿渡村(川崎市)に住んだ藤原兼延が猿渡姓を名乗ったのが始まりで、その子・実景が武蔵国政所別当になって総社の神主を兼帯したのが総社大宮司を務める始まりだ。江戸時代の終わりまで52年間、神官だった盛章(1790~1863)は和歌に長けて地域文化の向上に努めた。盛章の後を継いだ息子・容盛(ひろもり。1811~84)も神官であり、歌人だった。維新後は政府に出仕して内務・宮内省の官職を歴任した。
多磨郡の名を冠した郡家が存在?
猿渡家の墓所近くに並ぶのが塔心礎石と推測される巨石だった。高さが2mに近く、上部に直径70~23㎝の丸い石を重ねている。この地に武蔵国の郡の一つ「多磨郡」を冠した多磨寺があったと考えられ、これに関係する巨石だろうといわれる。猿渡盛章も官寺的な性格を持った廃寺があったと伝えている。さらに近接する集合住宅の敷地から仏堂の基壇や幟旗を支える遺構が発掘されているうえ、一帯から国衙より古い瓦が出土していることから多磨寺は国衙より先行して築造された寺院だと見られる。至近に多磨郡家が存在していたのかと改めて周囲を見回した。そこには戸建て住宅や高層マンションが迫っていた。
杜に抱かれた国の守護神
金馬の像が立つ京王線の東京競馬場正門前駅前を通過すると、武蔵国府八幡神社(八幡町)は、直ぐだった。ここも大國魂神社の境外末社で府中八幡宮とも六所八幡神社ともいわれる。武蔵国の守護神で、境内から中世の瓦が出土している。周辺を「江戸名所図会」に描かれた歴史ある神社は、鬱蒼とした杜に包まれて神々しさを加えていた。
国府が起爆剤になって今日の府中駅周辺が繁栄しているのを目の当たりにした一方、一国を動かすこと、そこに人が複層的に介在して勢力や権力争いが生じる人の社会の凄まじさも見逃せなかった。歴史は勝者が作るものという言葉を実感させた。
府中の馬場を蹴って90年
気分が変わったのは東京競馬場(日吉町)だった。競馬を楽しむ人達だけでなく、馬場内で子供を遊ばせる家族連れや乗馬センター、日吉が丘などでのんびり過ごす人も多いようだ。
手狭になった目黒競馬場が府中にやってきたのは昭和8年(1933)。敷地は目黒時代の3倍も広い約24万坪(約79万2千㎡。本馬場、厩舎、駐車場などを含む)。本馬場の芝コースは1周2100m(幅30m)、調教用のコースには川砂を敷いている。ダートコースもある。平成3年(1991)に開場した競馬博物館では競馬の誕生から今日までの歩みや馬場文化を解いている。この競馬場も全国に府中を示す今日的な一面だ。参加者の中には馬券を買った人もいた。それが当たり馬券と知って仲間から贈られた拍手に包まれてカンゲキしていた。
小生は元府中市民である。地元の神社には時々初詣をさぼるが、大國魂神社には今でも初詣には必ず出掛けている。当時から大國魂神社に初詣ほかで通うと、市内近傍のあちらこちらで発掘作業が進められていた。それまで神社については相応の知識を重ねていたが、国府設定には関心がなかなか向かなかった。
武蔵府中熊野神社古墳を別途案内して、近在の小型円墳とは大きく建築技術レベルが違う古墳が国府設定前に出来上がっていて、その後、国府が設定されて国司が派遣された(703年)こと、武蔵国分寺と東山道武蔵道との関係と古墳の近在にあること、さらに府中について調べていくと、府中廃寺といわれる多磨寺が国司派遣の前から存在していたこと等々を知って、なぜに国府が出来て、「府中」と名付けられるまちができる前から、この地が国府に設定される位置づけにあったことが決められていたことに大いに関心をそそられて、いろいろ調べていった。4月末から5月にかけての昔の国府祭そのままであるといわれる「くらやみ祭」にも初めて出かけて大きな迫力・勢いを感じた。
1300年前の時代の変遷をしっかり調べ、それに加えて大國魂神社との関係をつまびらかにすることに魅かれてガイド冊子が分厚くなっていった。
皆さんの期待にどれだけこたえることが出来るか、いやいやさほどに関心はなかったと思われる「府中に大武蔵国の国府が設定される」に興味を抱いていただけるかと、相応の調査・資料集めをしたことは後になって、大いに勉強になったと感じている。
今では、日本の首都圏を囲むような旧武蔵国の発達、発展が、府中を国司在地に設定してどう役立ったのか、引続き関心を寄せている。
小生の関心の行方を、皆さまへのガイドのベースにしつらえて、今回ガイドをさせていただいてよろしかったのかどうかわからないが、そこそこに楽しくツーリングしていただけたのであればよかったなと思っている。
【集合:10月21日(土)午前9時半 JR南武線西府駅/解散:JRA東京競馬場 午後3時半】