「第50回多摩めぐり 作家吉村昭の書斎を訪ね、あわせて多摩地域の東端エリアを散策する」を12月21日(日)に開催します

第38回多摩めぐり ユネスコ無形文化遺産に登録された「鹿島踊り」を鑑賞し、奥多摩湖に沈んだその発祥の地・小河内村落の今を訪ねる

厳粛さが漂う古歌舞伎の流れをくむ小河内の鹿島踊。
境内の庭を二重三重に囲んで見物する人も多い(奥多摩町の小河内神社で)

ガイド:味藤 圭司さん

主なコース

JR青梅線・奥多摩駅(集合)―(路線バス)→ 小河内神社 → 小河内神社(鹿島踊見学) → ドラム缶橋 → 湖畔の小道 → 山のふるさと村(昼食)→ 旧岫沢・日指集落跡 → 檜原への峠道 → 加茂神社跡 → 山のふるさと村 ―(送迎バス)→ 奥多摩駅(解散)

9月10日、小河内貯水池(奥多摩湖)中央部に突き出た半島に祭りの幟が立ち、艶やかな衣装に身を包んだ獅子や舞踊に彩られ、笛と太鼓の音色が響いた。風雅な世界だった。コロナ禍によって4年ぶりに行われた小河内神社例大祭だ。奉納された奥多摩町の川野と原の獅子舞に加えて、昨年、ユネスコの無形文化遺産に登録された「鹿島踊」が上演されるのを機に、多摩めぐりのガイド・味藤圭司さんが参加者20人を案内した。穏やかで雅な舞を一層、色濃くさせた笛や太鼓の音色にもしっとりと酔った。神社の三方は奥多摩湖に囲まれている。湖底に沈んだ村の伝統芸能だったことから雅な空間に悲哀が滲む音色でもあった。この日のもう一つのテーマ「奥多摩湖に沈んだその発祥の地・小河内村落の今を訪ねる」と掲げた通り、湖上のドラム缶橋で南岸へ渡り、巨岩で埋まるサイグチ沢に切れ落ちた急峻な廃村跡へも足を延ばした。

湖面に浮く半島に響く音色

奥多摩駅前からバスに乗車した多摩めぐりの一行21人は、小河内神社のバス停で下車した。神社への坂道は、まさに参道であり、両脇に木々が織りなし、右や左に奥多摩湖面が見え隠れする。小河内神社に近づくにしたがって聞こえてきたのは笛と太鼓の音色。本殿下の境内の広場を取り囲む人々は、この日一番に奉納される「川野の獅子舞」に見入っていた。

奥多摩湖面に取り囲まれた峰谷橋の左端の山上部に小河内神社がある。
その対岸(右奥に見える白い部分)は山のふるさと村

郷土芸能が多いとされる西多摩地域にあって、中でも奥多摩町では14ヶ所の祭礼で奉納されている。「一人立獅子舞」(1人で一匹獅子を演じる)で風流(ふりゅう)系の「ささら獅子舞」である。一人立で三匹1組がそれぞれ腹に括り付けた太鼓を打ちながら狂う。

この日奉納された「川野の獅子舞」も「原の獅子舞」「鹿島踊」のいずれも舞い手は大勢で一緒に踊る共通点があり、「風流(ふりゅう)踊」と呼ばれる。「風流」とは、華やかで賑やかさを指し、上品な趣を意味する「ふうりゅう」とは一味違ったニュアンスがある。

狂いながらも気品の漂い

簓を奏でる万灯の中で三匹の獅子が狂う川野の獅子舞

境内ですでに始まっていた川野の獅子舞は、母子獅子で、前(めえ)獅子(女獅子)が先導して広場を一巡した後、小太夫と大太夫を広場に連れ出していた。

三人舞の獅子頭は、細面の龍頭形。庭でしなやかに飛び跳ね、足さばきにもリズム感があり、狂う姿に品が醸し出される。ほかに四隅を払う花笠(4人)と万灯(2人)、太刀使い(2人)、菅笠裃装束に身を包んだ笛方、唄方が勢ぞろいして厳かだった。

奥ゆかしく舞う獅子

笛方を先頭に入場する原の獅子舞

2番手に奉納された「原の獅子舞」の音色が境内下から響いてきた。広場へのお出ましに三匹獅子が続く。原の獅子舞の起源は定かでないが、秘典の「日本獅子舞の来由」によると、氷川小留浦(ことづら)山祇神社の村木氏から伝授されたとあるという。

大太夫の獅子頭は金色でねじれ角を伸ばし、小太夫の黒い鉢型角とは一風を変え、力量感がある。女獅子は赤い宝珠をいただき、お歯黒だ。三匹とも口をやや開いていた。三匹の水引も男獅子は浅黄地、女獅子は赤紫地。それぞれに鶴の丸紋が白抜きになっている。

滑らかに舞う男獅子と女獅子の原の獅子舞

庭の四隅に立つ花笠は、竹ひごを天蓋形に張ったうえに梅花をあしらい、頂点につけた牡丹の花もまた目を引く。笠からは巴紋がついた水曳布が垂れている。

獅子の衣装も祭り気分を盛り上げる。男獅子は上半身が浅黄色、女獅子は赤紫色。ともに唐草模様の腰切衣を着て、上着と同色同模様の軽衫(かるさん)を穿いている。足元は脚絆、わらじ履き。簓(ささら)摺りの身なりは花模様の長着を着ている。舞い、狂い続ける獅子が動き易い仕様だ。獅子の動きは滑らかで泰然としている分、奥ゆかしさが伝わる。

水没前は集落の七堂詣り

原地域では湖底に沈む前、宮参りをした後、湯本で一日舞い、翌日に集落の秋葉山、湯宮の沖、不動滝、金毘羅、熱海の天神、浅間神社、三光神社の七堂詣りをしていたという。いまは70歳以上の長老や幼年まで参加を求めて保存・継承に努めている。

獅子が狂う姿に庭が和む。正調な唄に恋心を滲ませたものか、都で故郷への思いを込めたものか。演目の「七堂」の一説にこうある。『花の都で日が暮れて 芝をねござに袖をまくらに……』。舞方、唄方、花笠など13人が囲む舞い舞台は、触れ合う人の温もりが漂っていた。

手足腰に艶めかしさを出す女装

境内にゴザが敷かれ、裃姿の太鼓、笛の囃子方4人が下方に座った。続いて6人の踊り子のお出ましだ。われらがお目当ての「鹿島踊」の出番だ。「鞠踊」の唄を太鼓方が歌い始める。『様は小鼓 太鼓の調べ、皮を隔てて ノウ……』から始まり、春は柳、夏は桜、秋は紅葉、冬は松の木と四季の代表的な木々を歌詞に絡み合わせて鞠踊りの楽しさ、面白さを歌い込んでいく中で娘への思いを募らせる。唄が進むにつれて、舞手は興に乗り、踊りに品を作っていく。

入場にも厳かさを感じる小河内の鹿島踊
ゴザが敷かれて舞いに熱がこもる小河内の鹿島踊
木々に囲まれた山上の庭に笛と太鼓の音が響き、静かに唄が流れる小河内の鹿島踊

踊り子たちの衣装は、頭に淡紫の布を載せ、その上に珠玉などを紐で貫いた瓔珞(ようらく)を下げた天冠(てんかん・てんがい)を被っている。振袖は紫色の地に薄(すすき)、桔梗をあしらった裾模様の着物姿。帯は猫じゃらし。帯留めは3人ずつ、白のしごきと赤のしごきを締めている。足袋は白足袋。6人全員が女装している。腰使い、足さばき、手指に至るまで不慣れを克服するのに練習に次ぐ練習をこなして、この日を迎えたという。

小中学生兄弟が初舞い

ユネスコ無形文化遺産になったことで、衣装を新調した。6人の中で初めて踊り手に加わったのが小5と中3の兄弟。2人に舞が見えるように位置取りしていたのは経験を積んだ父。兄弟が後継者になることを望まれている。

下方の太鼓と笛方以外に元は大小の鼓と三味線が入っていたという。唄の合間に入る「とんとん」「ぽーぽー」といった唄い手の声は鼓などの鳴り物の音に変えたものだという。

差しつ差されつ舞の風雅さ

「鞠踊」に続いて「さんころりん」を演じた。序の段で唄い手は『山々の谷の清水は よめごに落ちて名も高き、浅ましや、女の身なれば、一夜に落ちて名を流す……』と歌い始めた。男による娘の生涯を歌ったものか。踊り手たちは静々と舞う。「鞨鼓(かっこう)」もまた歌詞に『さすようでささぬは、人待つ今宵の盃、差さぬようで差すはまた、思う仲の盃……』と淡々と歌う。しなやかに舞う姿にも情愛が読み取れる。舞手は素人ながらにも何代にもわたって歌い、舞い継がれてきた気品が漂い、毅然とした姿勢に風雅さを感じる。

所作に古歌舞伎踊りの型

小河内の鹿島踊は、奥多摩町の代表的な民俗芸能であり、昭和55年(1980)に国指定の文化財に選ばれた。小河内の鹿島踊は、若衆が女装して踊る小河内独特のものだといわれる。小河内での起源は不明だが、一説によると、京都から公卿の落人が岫沢(くきざわ)に隠れ住んで村人に教えたとも、旅僧が教えたとも言い伝えられている。

また、鹿島踊は関東各地をはじめ、伊豆方面でも多く行われているが、これらと小河内の鹿島踊とは異色の風流形で、女歌舞伎、若衆歌舞伎、野郎歌舞伎と続く中の若衆歌舞伎の系統に属するものといわれ、古歌舞伎踊りの遺風を留めているという。これに類するものに新潟県柏崎市女谷(おなだに)の「綾子舞」と静岡県榛原郡川根本町徳山の「ヒーヤイ踊」がある。鹿島踊の唄を推し量れば、唄い手や舞い手は歓喜むせぶ思いを抑えながら整然と歌うことや、静々と舞う姿に歌舞伎の所作が薫る。

水没20年後に保存会結成

小河内ダムが着工された昭和13年(1938)、離村が相次ぐなど移転騒動で祭りを盛り上げる状況になかった。解村式をしたのは昭和25年。その20年ほど後に村民らは移転先で生活が安定したことから「年に一度、故郷に集まる機会を作ろう」という機運になり、小河内に残った人、出た人、30人以上が加わって昭和45年(1970)に「小河内の鹿島踊保存会」(島﨑富夫会長)を結成した。現在の会員は25人ほど。踊り手は30、40代を中心に10代から練習を重ねている。結婚すると、唄や太鼓の担い手に回る。

水没地域の9社を祀る浄地

小河内神社は、貯水池建設の水没前に旧小河内村内に祀られていた9社11祭神を勧請して創建された、小河内地区の鎮守神。地元では半島に突き出たこの地を敬神行楽の浄地であり、首都用水の護り神としている。勧請された9社は温泉神社、金御岳神社、箭弓神社、貴船神社、愛宕神社、熊野神社、御霊神社、加茂神社、御岳神社。山の高台に移転したのは奥多摩温泉神社、愛宕神社。

小河内貯水池の建設で水没した地域の9社を勧請して生まれた小河内神社
原地区の温泉神社も高台に移転した

足下が揺れる浮橋渡る

多摩めぐりの一行は、鹿島踊の誕生地を目指して奥多摩湖に浮かぶ「ドラム缶橋」(麦山の浮橋)を渡り、南岸にある都立奥多摩湖畔公園山のふるさと村へ向かった。ドラム缶橋は昭和32年(1957)、水没によって北岸の麦山地区の生活道路を確保するために設けられた。開設当時はドラム缶を浮き替わりにしていたが、いまは合成樹脂の浮きを使っている。両サイドに手すりはあるが、足元が浮き上がり、左右にも揺れる。ここを目当ての観光客もいる。一行の中には恐る恐る足を運ぶ人もいる。「ゆっくり、ゆっくり足を運んで」とスタッフは声をかける。

湖面を吹き抜ける風を感じながらドラム缶橋を渡る参加者たち

さざ波の奥多摩湖。満水に近い。湖面の南岸に御前山(1405m)から三頭山(1528m)へと続く稜線が長く壁になって東西に延びている。東側の手前に岬のように延びる先端部に祭りの幟がはためいている。小河内神社だ。先ほど感じた風雅な舞いが瞼に焼き付きながらも湖底に沈むまでの小河内村民の苦汁に思いを寄せた。

湖面に浮くドラム缶橋を背にして参加者が勢ぞろい

湖上で湖底の故郷振り返る

下流のダムは標高530m地点。そこに高さ149m、堤長353mの巨大壁を造った。堰き止める量は1億8540万㎥。都民が使う上水の約2割を賄っている。ダムに近い地点は水深が142.5mというから50階建てのビルがすっぽり沈むくらいだ。このドラム缶橋あたりでも水深は40mほどか。そんなことを思いながら湖面に目を注いだ。

小河内神社の一帯は、江戸時代に幕府の直轄地だった。多摩川流域の原、河内(こうち)、川野、留浦(とづら)の4つの集落は南北が壁になった急斜面で暮らしていた。河内だけでも53戸、300人が住んでいた。明治に入って韮山県から神奈川県に編入され、4集落は西多摩郡の村に、さらに明治22年(1889)の町村制で4集落は小河内村となった。

生糸商人も行き交った交易路

幕末から明治にかけて日本は絹貿易に沸いていた。この山間の村にも余沢をもたらした。横浜へ生糸を運ぶ甲州の生糸商人は、塩山から大菩薩峠を越え、小菅村、小河内村を抜けて檜原村や八王子へと向かった。

それまで小河内では耕す土地は乏しく、地味も痩せており、猫の額ほどの畑で穫れるアワやヒエ、日々食す野菜と、山へ深く入り込んで焼く木炭、渓流のヤマメを追って暮らす日々だった。絹貿易に沸く話は小河内の住民にも伝わった。斜面に桑を植え、蚕を飼い、糸を紡いだ。貧しいながらも平和な日々だった。

百年の大計に村を差し出す決意

明治26年、小河内村民の人生を狂わす、寝耳に水のダム建設計画が持ち上がった。帝国議会が水道水源を確保、保護するために神奈川県から東京府に編入し、水源地を主に奥多摩、その中心地に小河内が俎上にあった。現実化したのは18年後の明治44年(1911)。膨張し続ける東京市の水需要を賄うために昭和7年(1932)までに村山貯水池(東村山市、東大和市)、山口貯水池(埼玉県所沢市)と浄水場を建設することが明るみになった。それでも水道水が不足することから昭和5年、「百年の大計を樹つべし」と高さ150mの巨大ダムを多摩川に建設する案だ。

昭和6年(1931)、東京市水道局長と課長の訪問を受けた小河内村長だった小沢市平は、12人の村議を前に、静かに語った。「将兵が国に尽くすのも、我々が社会に尽くすのも、道みな一つである。できることはだれでもやる。できないことを世の中のためにするのが本当に社会に尽くすことではないか」。掛け替えのない故郷の山河を小河内村は自ら捨て去る決意を固めていた。

小沢一平・小河内村長

建設進まず窮状訴える村長

翌年(昭和7年)7月13日、東京市議会は小河内ダム建設案を可決した。水没地区は小河内村の3分の2、山梨県の丹波山村と小菅村のそれぞれ一部。水没家屋は440戸。しかし、神奈川県の二ヶ領用水組合の反対があがり、計画の進捗は膠着状態に陥った。その間2年余り。村民の畑は崩れ、クワの木は立ち枯れ、収入は細るばかりで暮らしは荒んでいった。

その窮状を小沢村長は、再び東京市などに訴えた。「もはや小河内村民の気力は衰え切って、工事頓挫より来る精神的打撃は、その容易ならざることを痛感せられたく候。耕運のため、野畑に立つも心身ともに委縮して、一歩耕して鍬を膝に当て、地を眺めて嘆息し、二歩進んで力なく天を仰ぐ。困窮疲弊を極めて業績さらに挙がらず、精神苦、経済苦、日を追うて深刻なる」。ダムの建設反対ではなく、早く着工を叫ぶ。「都会の声は直ちに田舎に通ずるも、田舎の声は容易に都会に通ぜず」。苦汁をなめた。

ムシロ旗掲げて村民、東京へ

村民には未だ補償もなく、東京市議会のダム建設案可決から3年後の昭和10年12月13日。小河内村民700人が東京へ押しかけようとムシロ旗を建てて立ち上がった。青梅署は、多摩川に架かる氷川橋で阻止線を張り、陳情団のほとんどを検挙した。一方の中心メンバーの陳情団47人は内務省土木局長、府知事に直接陳情でき、「精一杯努力する」旨を引き出した。強硬に反対していた神奈川県知事も譲歩した。翌年3月2日、両府県が協定書を交わすと同時に、ダム建設が本決まりになり、小河内村の水没が確定した。

その6日後、村人の誰もが再び怒りをあらわにして、失望と不信感を募らせた。移転費用と補償額の少なさに。決着がついたのは昭和13年(1938)6月6日だった。建設計画が持ち上がってから45年、一村の水没を決意してから7年が経っていた。

小河内貯水池のダムサイトに設置されている湖底の故郷碑

水没などで945世帯移転

移転者には買収・移転費とは別に総額50万円の更生資金と一切の公共諸費用として3万円の合計53万円が支払われた。水没したのは小河内村の14集落(熱海、出野、原、湯場、河内、青木、南、岫沢、本田、麦山、川野、小留浦、坂本、日指)と山梨県丹波山村鴨沢と小菅村金風呂地区を合わせて945世帯が移転した。移住先は昭和村(現昭島市)の60戸を最大に、神奈川、千葉、埼玉、山梨県など42ヶ所へと散った。満州(中国東北部)へ渡った16人もいる。

ダム建設の起工式が行われたのは昭和13年(1938)11月12日。村民へ配慮して簡素だった。昭和18年10月、太平洋戦争に突入したことで工事は無期限中止となり、再開したのは昭和23年9月10日。竣工は昭和32年11月23日だった。

重苦しく湖畔の道を歩く

小河内村民が艱難辛苦をなめた小河内貯水池をドラム缶橋から見続けても見続けても語りつくせないものがこみ上げてきたのは私だけではないだろう。ドラム缶橋を渡り切って貯水池管理路でもある2.5㎞の「湖畔の小道」を山のふるさと村へ向けて一行が静かに歩いたのは、そのためだろう。沿道にはクルミやアケビの実がなる木々に混じってブナの木がすっくと立ち誇っているのは印象的だった。

湖面が見え隠れする湖畔の小道を歩く参加者たち
味藤さん
味藤さん

多摩の祭りをテーマにした多摩めぐりをいつかはやりたいと思っていたところ、令和4年(2022)11月に、ユネスコが奥多摩町の「鹿島踊」を世界の無形文化遺産のリストに記載することにしたというニュースが流れ、「よし、それでは早速2023年の祭礼時に、多摩めぐりで見学にでかけよう」とプラン作りを始めました。

プランでは、ユネスコのリストに記載された鹿島踊を単に見学するだけでなく、小河内ダムの建設によって消滅してもおかしくなかった伝統芸能が、故郷から移転させられた人々によって、現在もしっかりと受け継がれていることを知ること、さらに住民の移転で廃村となった集落の現在の姿を見ること、このような内容を組み入れるというかなり欲張ったプランを組み立てました。

その結果、奥多摩湖畔を1時間近くめぐることになったり、集落内では急な坂道を歩き続けたりと、ちょっとハードな行程になりました。とはいえ、なかなか体験できない多摩めぐりになったのではないか、と密かに思っています。

ワサビ田跡、オート三輪、家の石垣

到着した「山のふるさと村」は、秩父多摩甲斐国立公園に含まれる自然公園施設で、東京都が都民のレクリエーション需要に応えて平成2年(1990)10月に開設した。面積は32ha。ビジターセンターやレストラン、テント泊やログキャビン泊などができる自然ふれあい施設を備えている。

奥多摩湖周辺に生息する動物の骨格も展示している山のふるさと村ビジターセンター
入り組んだ湖畔で説明を聞く参加者たち

この奥まったあたりが岫沢、日指地区だった。完全水没こそ免れたものの、隔絶された地域となったために住民が移住した。岫沢や日指では奥多摩湖に注ぐ水量豊富なサイグチ沢が音を成して谷底を流れ、巨岩には厚い苔が張り巡らしていた。流域にはワサビ田跡らしい平面もあった。中でも岫沢の湖畔ではオート三輪が置き去りになっている光景を目の当たりにして、ここに暮らした人の気配を感じた。

湖畔に置き去りにされたオート三輪
離散した水没前の岫沢集落
日指集落の家々を結んでいた道路はいまも残っている

日指へ向かうと、城壁かと思うほど立派な石垣を重ねた住宅跡がそのまま残っていた。尾根には昔道もあった。檜原を経由して甲斐の国へ通じる尾根道だ。絹を運んだ商人たちが行き交ったであろう。如意輪観音像や馬の水飲み場、馬頭観音(文化年間造立)にも山や畑に入る村人はじめ、行き交った人々の面影が映った。

住宅跡を示す石垣に手を添える人もいて往時をしのばせる
峠の古道には石像や馬頭観音もあった

継いできた元村民家族が心捧げる

最奥には加茂神社跡があった。いまでも使えそうなしっかりした社だ。この日午前に見た鹿島踊発祥の旧神社だ。日指や岫沢地区の氏神で、祭神は鴨別雷神(かものわけいかずちのかみ)だった。明治中期に氏子らが資金と労力を出し合って7年がかりで建立したという。例年9月15、16日に祇園踊ともいわれた鹿島踊を奉納していた。そんな穏やかな暮らしの中、昭和13年(1938)に降って湧いたのが小河内貯水池の建設計画だった。着工に向けてやむを得ず離れて、ご神体も小河内神社に合祀して住民は転居した。

現存する旧加茂神社の社

鹿島踊保存会は、世界遺産に登録されたことを元の加茂神社に報告するために来る10月1日、70年ぶりに旧加茂神社の前庭で鹿島踊を上演する。笛と太鼓を奏で、舞い踊る舞台がすでに組み上がっていた。保存会の面々の先人と郷土を追慕する思いを表した舞台だ。

旧加茂神社前の庭には70年ぶりに小河内の鹿島踊が上演される舞台が組まれていた

参加者の一人が呟いた。「多摩めぐりに参加できたこと、本当に幸せでした。歴史的、文化的にも、そして、未来に向けても大変啓示に富んだ体験ができました。他にもドラム缶橋を渡りながらの湖底への想い、加茂神社跡での古を偲ぶ村落の佇まいなど深く記憶に残る多摩めぐりでした」と。水一滴に人の歴史あり。全国各地に同様のことがあることに思い染む。

【集合:JR青梅線・奥多摩駅 9 月 10 日(日)午前9 時15 分/解散:午後 4 時半頃 奥多摩駅】