ガイド : 菊池 等さん
小田急線鶴川駅(集合) → 香山園(かごやまえん) → 能ヶ谷神社 → みんなの古民家 → 武相荘 → 真光寺川 → 広袴公園(昼食) → 神明社 → 鎌倉古道早ノ道 → サッカーJ1川崎フロンターレグラウンド → 桐光学園 → 真光寺公園 → 入谷戸バス停 ―(バス)→ 日影バス停 → 汁守神社 → 柿生発電所 → セレサモス(JA直売所) → 小田急多摩線黒川駅(解散)
町田市北東部の東京都と神奈川県の都県境域は、多摩川左岸に広がる平坦な武蔵野台地と違って森と川がある丘陵斜面の連続だった。釜の底を成す真光寺川沿いには真新しい戸建て住宅が広がり、水田が里山風情を象徴する。茅葺屋根の民家も見た。尾根上には時代を遡った鎌倉時代に諸国と鎌倉を結ぶ往還路の一つ「鎌倉古道早ノ道」が突き抜け、兵どもの声が足下から忍ぶようでもあった。「町田・真光寺川沿いの鎌倉古道早ノ道を歩く~里山の暮らしに触れる古民家も」というテーマで、令和5年(2023)6月4日、ガイドの菊池等さんを先頭に歩き続けた19人は、それぞれにロマンを抱き、木陰の風を感じながら、多面的な多摩の素顔の一面を楽しんだ。
新田勢に滅亡された戦道
鎌倉古道は、関東を縦断するようにあった上ノ道、中ノ道、下ノ道のほか、これらの枝道が多摩丘陵などに多く張り巡らされていた。その一つが早ノ道で、上ノ道と中ノ道を結ぶ近道だった。早ノ道は、現在の多摩市貝取辺りで上ノ道と分かれて川崎市麻生区黒川を経て町田市真光寺、広袴(ひろはかま)、能ヶ谷を南下して川崎市麻生区岡上(おかがみ)、横浜市青葉区、緑区青砥(現中山)辺りで鎌倉古道中ノ道に合流していたといわれる。
この早ノ道を駆け巡った軍勢がいたのは元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの一団だった。以来、この道は「早ノ道」と呼ばれるようになったとか。この鎌倉攻めにより源頼朝から始まって150年ほど権勢をふるった鎌倉幕府は滅亡した。早ノ道は、北条家末期の執権だった守時にとって引導を渡された戦道でもあった。
古道の往来を睥睨する館
小田急線鶴川駅付近を縦断している早ノ道の往来を見張るかのような位置にあったのは24代当主神蔵(かみくら)甚左衛門盛清の館だった。近年まで香山園(かごやまえん)庭園美術館だった。この能ヶ谷に入植して開拓したのは鎌倉時代。紀州田辺郡から神蔵甚左衛門重信、鈴木四朗佐衛門、夏目与左衛門、森半兵衛の4人だったという。この中の神蔵家がその後の大永5年(1525)、盛清の代に扇谷上杉勢に戦勝し、小田原の北条氏綱の高い評価を受けて24万坪(79万2千㎡)の地を得て館を建てて、その後、一帯を直ヶ谷と名付けた。戦国時代の天文13年(1544)に瑞香殿母家を建てて規模を拡大。だが、江戸時代前期に瑞香殿は幕府に取り壊された。
趣豊かな美術館と庭園
再建したのは江戸中期の元禄6年(1693)。現在の大屋根一枚の書院造りの建物は明治39年(1906)に再築したもの。元禄時代の柱や棟札、大戸が使われているという。いま、戦国時代の遺構はないが、伝来の美術品を公開する美術館と、再築した当時に設けた池泉回遊式の池を配した庭園がある。庭の周囲には四季折々の花が咲き、カワセミやアオサギ、オナガなど野鳥も舞い込んできていたという。平成7年(1995)のNHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」(吉宗役・西田敏行)の撮影ロケに使われた名園だった。平成27年(2015)まで香山園庭園美術館として公開されていたが、現在は町田市が来年度の開園を目途に改修している(現在閉館中)。
築城に最適な丘陵の突端
この地は、鶴川街道と津久井街道が交差し、真光寺川が流れているという交通の要所で、戦国時代に香山丘陵の東端に元木山城があったと伝わる。元木山柵、大笠館(大傘館)ともいった。周辺には円墳や横穴墓の能ヶ谷香山古墳群もあり、地元の豪族だった小山田氏らの支配地だったという伝承もある。鶴川街道の鶴川駅東口交差点から香山園の森を見ると、丘陵の突端にお椀を被せた姿をしており、ここに城を築く絶好の地形だった。
地形にあやかった「直ヶ谷」が元
鶴川駅東口交差点から真光寺川に架かる新矢崎橋を渡った。この地は鶴見川の合流地から上流500mほどだ。真光寺川の左岸を遡り、真新しい住宅地の坂道を登った。行く手に立ちはだかる数十段もあろうかという階段。この天頂に能ヶ谷神社があった。
神蔵甚左衛門盛清が一帯を真っすぐに流れ下る真光寺川の谷にあやかって、一旦は直ヶ谷と名付けたものの、小田原北条氏最後の当主(5代目)北条氏直の代になって「直」を避けるために天正2年(1574)、「能」に変えたとか。
神木のヤブツバキ植栽した境内
能ヶ谷地域の鎮守だった能ヶ谷神社は江戸時代の天保年間(1644~47)創建で、元は東照宮と言っていた。大正3年(1914)、それまで周辺にあった住吉神社、天照大神社、神明社、表谷(うわや)神社の4社を合祀して生まれたのが能ヶ谷神社だ。平成20年(2008)に焼失したが、22年11月に再建した。神木のヤブツバキは、樹高は高くないが、幹にいくつものコブを太らせて力強さを見せていた。境内の南側の眼下に住宅が密集し、その奥の空高くに丹沢山塊が横たわっていた。
築150年の茅葺屋根の民家
能ヶ谷神社から階段を急降下して再度、坂を登った。その先にこんもりとした森の中に庭を抱えた「みんなの古民家」と名付けた茅葺屋根の石川健さん宅だ。16代目の石川さんが昭和52年(1977)まで暮らした母家だ。いま、隣接の別棟に新居を構えている。この日は、先約があり、庭先からの見学になったが、築150年に及ぶ建物の重量感を感じ取れた。
石川さん宅は江戸時代初期から代々続く農家だ。茅葺屋根の母屋は、入口の土間をはじめ、その奥に竈(かまど)と流しを設える。土間の左手に10畳の大広間と8畳の間がある。奥まってあるのが8畳の書院と4畳半。2方に縁側が渡してある。典型的な農家の造りだ。
しきたり守って語り継ぐ主
別棟に新築の母屋を構えた石川さんだが、変わらずにしきたりを守っている。毎月1日と15日にサカキと供え物を神前に捧げて、柏手を打って家内安全と五穀豊穣を祈っている。ほかに大神宮と荒神様、周りの山や庭に稲荷様、水神様、御嶽様を祀っている。母屋の周囲には昔の生活が分かるように農具などを置き、庭にはいまも水が湧いている。
石川さんは、茅葺の家を大切にすると同時に、多くの人たちに茅葺屋根の家の雰囲気を味わってほしいと平成26年(2014)にレンタルすることにした。コスプレイヤーの撮影などに貸し出しているほか、紙芝居や折り紙のワークショップ、一日限定カフェなどを行っている。こうした利用申し出などから石川さんは「『みんなの古民家』は、もう家族だけのものではないことを教えてもらった」といっている。
こうした体験を石川さんから多摩めぐりの参加者に直に話しをうかがいたかった。近くに多摩ニュータウンが開発されてすでに半世紀になるが、時代の流れも影響して周辺の景観や人々の生活スタイルが大きく様変わりした。石川家の変容もまたその一つだろう。それを点描したかった。
古民家に60年住み続けた白洲一家
真光寺川に戻り、能ヶ谷橋を渡って鶴川街道を右折して武相荘(ぶあいそう)へ向かった。私たちを武相荘へ誘うのは、第2次近衛文麿内閣(昭和15年(1940)7月22日成立)の司法大臣だった風見章さんが生前に、細目に書いた「武相荘」の文字だ。
白洲次郎(1902~1985)
兵庫県生まれ。若くして英国に留学、ケンブリッジに学ぶ
白洲正子(1910~1998)
樺山伯爵家の次女として、東京に生まれる。学習院女子初等科卒業後、米国のハートリッジスクールへ入学
(武相荘パンフレットから)
ここは、実業家であり、元貿易庁長官だった白洲次郎さんと随筆家だった白洲正子さん夫妻、さらに3人の子供とともに昭和18年(1943)に新宿・水道橋から移り住んだ自宅で、武相荘と名付けた。夫妻は60年ほど住み続けた。この地が武蔵と相模の境にあることと、不愛想を自任していた次郎さんご自身の思いを表したという。次郎さんは、欧米事情に詳しかったことから日本の敗戦と、その後の食糧事情を予想して農業ができることを最優先でこの地を選んだようだ。
書き直した敗戦の受託演説文
次郎さんの人物像が浮かび上がるのは、戦争直後に吉田茂首相に請われてGHQと折衝に当たったときのエピソードだ。GHQは、次郎さんを「従順ならざる唯一の日本人」と見ていた。昭和26年9月、サンフランシスコ講和会議に全権顧問団として臨んだ次郎さんは、受託演説の原稿について、外務省の役人を一喝した事件がある。「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を相手に相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と。英文でまとめられていた原稿を一夜で全文を日本語にして和紙に毛筆で書き換えさせた。
その長さは30mになり、くるめると直径10㎝に及んだという。その原稿で吉田首相は受託演説をした。次郎さんと神戸一中の同級生の小説家であり舞台演出家でもあった今日出海さんは、次郎さんの人となりを「野人」と言っていた。遺言でも「葬式無用、戒名不用」といい、「自分の信じた『原則(プリンシプル)』には忠実」(正子さん)だった。昭和60年(1985)83歳で亡くなった。
「韋駄天お正」の多くの足跡
正子さんは、薩摩出身の樺山伯爵家の次女で、幼少から能に親しみ、米国ハートリッジ・スクールに留学。帰国後に次郎さんと結婚した。「韋駄天お正」といわれるほどの行動派で、自分の目で見て、足を運んで執筆する姿勢は始終変わらなかった。古典文学や紀行と幅広いジャンルで活躍して読売文学賞を2度受賞するなど著書多数。平成10年(1998)87歳で逝去。次郎さんと同様、葬儀をせず、戒名はない。
自作の品々を配して出迎え
幕末から明治初期に建てられた木造平屋建ての典型的な養蚕農家に夫妻が引っ越した当時は、ネズミが這いまわり、大掛かりに茅の葺き直しもした。その後、大きな改造をしておらず、水回りを修繕し、西側に倉庫を増築した程度だ。落ち着いた家周りに多くの白洲ファンが見学に訪れている。
一行は、次郎さん自作の新聞受けに目を引かれながら、小ぶりで落ち着いた感じの長屋門をくぐった。芝高輪で見つけて移築したものだとか。門の高さを超える柿の木もまた農家の造りに似合う光景だ。小ぶりのアジサイやホタルブクロなど季節を感じる花々が庭にさりげなく配してあるのも夫妻の繊細さを表したものか。
元々の納屋を次郎さんの工作室にしていたほか、2階はバー&ギャラリーだとか。家の周りのあちこちにカギなど作業や生活用品を置いている光景に夫妻の気さくさが滲む。レストランは入店前のお客で長蛇の列だった。
夫妻の個性あふれる家と展示品
母屋の上がり框は、正子さんの実家で使っていたまな板だとか。足を踏み入れた白いタイル張りの入り口は、床暖房が施されている。それほどの寒さを感じる農家屋だったことを想像した。正子さんの書斎には蔵書がびっしりだが、窓外の木々の勢いが飛び込んできていた。そんな光が差し込む文机に向かった作家の思いは、いかほどだったか。
(武相荘パンフレットから)
次郎さんのゴルフクラブやスーツ、正子さんが親しんだ着物や骨董の数々も展示してあり、東奔西走したであろう先々で多種多様な品々に会い、いつも一生懸命に楽しんだ2人の様子が見て取れる。共に信条とした「自由に生きる」日々がいまも武相荘にあるようだった。
深い思い出を身近に置いた温もり
母屋前の竹林に三重塔があった。この下には次郎さんの遺髪や愛用した食器などが埋め込まれているという。墓地は実際には兵庫県にあるが、頻繁に墓参できないことから正子さんが所有していた鎌倉時代の塔を墓に見立てて据えたものだという。「鈴鹿峠」と刻んだ碑があるのも夫妻の思い出の地だ。2人で旅をしていた途中、鈴鹿峠で霧に阻まれて次郎さんが運転を危ぶんだことから、正子さんが車から降りて、歩いて峠を下った思い出を再現したものだ。母家の裏にあった雑木林には広がりと清々しさがあった。丘陵の一角にさりげなく佇む農家屋は温もりに満ちていた。
里山風情溢れる真光寺川流域
再び真光寺川に戻り、右岸を遡った。ほぼ直線の川沿いの両岸に高くコンクリート壁で囲った基礎の真新しい住宅が軒を連ねている。「直ヶ谷」とも「能ヶ谷」とも言った由縁を実際に見るような光景だった。真光寺川は町田市真光寺町が源で、この日の朝に訪れた川崎市麻生区岡上あたりで鶴見川に合流する2㎞余りの1級河川だ。
住宅が途切れた地点に広がっていたのは水田だ。農道沿いにはクリの花が下がり、水田では田植えの準備で耕運機を操作する人らがあちこちで立ち働いていた。水田の西側斜面には樹間に空を映す雑木林が延びて、水を張った田んぼには逆さ雑木が映っていた。まさに日本の原風景・里山の趣がいっぱいだ。
田畑掘った調整池は野鳥の楽園
真光寺川の上流端に位置している町田市広袴公園が昼食場所だ。公園の広さは調整池と合わせて2haに満たないが、池周辺の斜面の高台は、池全体を立体的に見せる格好の場だ。池を囲んでいたひときわ背が高いメタセコイヤやヤマザクラ、クヌギが景観を引き締めていた。平成3(1991)~4年に流域の鶴川台が開発されたことから田んぼや畑を掘って調整池を建設した。
ここは野鳥観察の好適地で、この日も「いる、いる。あそこに」と2人連れがアシに止まるカワセミを見つけて指差していた。カモが泳ぎ、ウグイスが鳴く。アオサギなど野鳥が止まり木にしていた中州のヤナギは、直前の台風2号で倒れて水没していた。
神域の管理を受け継いでいる姿
広袴の坂を登ること数分。住宅街を抜けると、光景が一変した。藪の中という別世界に入った。尾根直下に神明社があった。この境内を掃き清めていた地元の人がいた。明治初期の1880年ごろ、すでにあった神明社を「新編武蔵風土記稿」では妙全院が守護していたと記している。境内を掃き清めている地元の人の姿を目の当たりにして、長く神に仕えることを受け継いできた形を見るようで感慨深かった。
嘉永7年(1854)ごろ、広袴にあった7社の神社を神明社に合祀した。現在の社殿は昭和35年(1960)に再建された。天照大神を祀る。境内には合祀した際に移された石仏の中に延宝7年(1672)に建立された「青面金剛像」がある。5猿が衆生の生き方を示しているようだった。鎌倉古道早ノ道を行き交った人々もここで手を合わせただろう。
芝光るフロンターレのグラウンド
神明社の本殿は尾根沿いに建ち、早ノ道の脇だった。早ノ道に時代を感じて興奮した思いを他所に、ガイドの菊池さんは寄り道をした。脇に入ること100mほど。サッカーJ1川崎フロンターレの麻生グラウンド(川崎市麻生区片平)だった。練習グラウンドだが、天然芝が光るほどに手入れされていた。
グラウンドを見下ろす道路脇はスタジアムの観覧席に思えた。一望した景色は東北に稲城市片平、北に小田急多摩線黒川駅の奥に広がる麻生区はるひ野の建物群。眺望が効く典型的な谷戸の地形で、そのてっぺんにいることを実感する。
フロンターレは2017年以降、リーグ戦で4回優勝。さらなる躍進を目指して今年のキャッチフレーズに「Exceed(限度を超える、上回る、突破する)」を掲げている。立ち止まることなくチャレンジし続ける思いを形にしようと2023年シーズンを戦っている。
フロンターレのホームグラウンドである等々力陸上競技場(川崎市中原区等々力)は整備中で2029年に完成すれば、収容人員が8千人増えて3万5千人の球技専用スタジアムになる。
豊かな緑地を通る早ノ道
元の尾根筋に戻った。われらが歩く早ノ道の入口に当たる町田市広袴の鶴川台尾根緑地は、ここも川崎市麻生区片平との都県境であり、市境でもあった。緑地は3.1ha。山道の趣が濃い雑木林の中に延びる早ノ道は、突然、左手の西側が開けた。眼下は広袴や真光寺あたりの住宅の屋根が覆い尽くし、その屋根は足下まで迫っていた。肩を寄せ合って生きている人の世界に例えたかった。遠くに丹沢の山々が泰然と立つ。秋や冬には富士山も見えるというが、この時期では……。
鎌倉への近道だったといわれる早ノ道を駆け抜けて、一刻も早く鎌倉へ報を届けるために馬に鞭を入れただろうか。いまでこそ対向者とすれ違うのがやっとというところもある山道だが、当時は、軍勢だけでなく、いまよりももっと往来があったのだろう。大山や冨士講といった参詣者も加わって。そんな古の様子を思い描きながら歩く。木々が続き、風に身を任せて歩く心地よさは、なんだろう。軍馬を走らせた兵の緊張した思いとかけ離れた面持ちに赤面する。
鶴川台尾根緑地に続いて川崎市の栗木山王山特別緑地保全地区に入った。ここでもクヌギやコナラ、真竹などが生い茂る。川崎市が平成24年(2012)に保全計画を策定して富士通川崎工場の協力で鳥類や昆虫などが生息できるように生態系保持に努めている林だ。広さは2ha。
早ノ道に映える快活な若者
足裏で早ノ道の軟らかさを楽しんでいると、小さな峠に立った。東は川崎市栗木、西は町田市広袴の都県境で、車道を挟んだ住宅地だ。両側に連なっていた雑木林は、ほどなくすると、東側がすっぽりと開けた。桐光学園のキャンパスだった。小中高校生3千人ほどが学んでいるという。テニスやサッカー、野球にと華やいだ生徒たちの声が早ノ道にこだましていた。サッカーの中村俊輔(横浜FCトップチームコーチ)、プロ野球の松井裕樹(東北楽天・投手)らの母校であり、春夏の高校野球では甲子園へ5度出場、高校サッカーでは準優勝1回、ベスト4に駒を進めたこと4回という実力校だ。
新選組の主力も行き交った
尾根筋の早ノ道に栗木道が坂下から入り込んだ地点に来た。町田市小野路と調布市の甲州街道布田五宿を結ぶ全長13㎞に及ぶ近道で、布田道ともいわれる。笹が生い茂っていた。黒川から小野路までの約4㎞は、いまも深い森を思わせる景観だという。林間には色艶を感じるウグイスの鳴き声が響いて森林浴効果が増したように感じる。
こんな思いを跳ねのけて新選組の近藤勇や土方歳三、沖田総司らは、小野路の小島家へ武道の出稽古に勇んで向かっていただろう。彼らは、京都へ上る前にこの栗木道を通い詰めていたという。
武蔵国の安泰願った汁と飯
なだらかな丘陵を生かした町田市の真光寺公園で一呼吸入れた後、歩道がない鶴川街道の移動を避けてバスに乗った。目指したのは武蔵国府に置かれた大國魂神社(府中市)に縁が深い汁守神社(麻生区黒川)だ。元は「汁盛神社」といった。
創建年は不明。天明2年(1782)11月に再建され、大正3年(1914)に日枝神社など3社を合祀して祭祀ができる神社に指定されたという。名の由来は、大國魂神社の末社として総社例大祭(くらやみ祭)で膳の汁物を奉納したのが起こりと伝わる。真光寺には飯守神社があり、こちらは大國魂神社にご飯を納めていた。両社の汁と飯で一対を成しており、身近であった神に五穀豊穣を願っていた。
汁守神社は小高い丘の突端にあり、西側に黒川上土地改良区の営農団地(20.3ha)が広がっていた。田植え機を操作する人や、ナスやキュウリなどの夏野菜の手入れに夢中の大人たちの脇で子供たちは裸足で用水に入り、小魚やオタマジャクシを網で捕って大騒ぎしていた。
丘陵に円筒形の水力発電所
営農団地の北斜面中腹にサイロのような円筒形の施設があった。神奈川県企業庁の水道導水路を使った小さな柿生発電所だ。水源は相模原市谷ヶ原にある津久井分水池(相模湖)。ここから川崎市上水道局の長沢浄水場へ導水する途中の黒川で多摩丘陵の落差12.2mを利用して自然流下で昭和37年(1962)から発電している。最大出力680kw。一般家庭の1630世帯の1年分の使用量に相当する。すべての発電を東京電力に売電している。
この電力量を石油の火力で発電した場合に比べると、約3600tの二酸化炭素を削減するという。この削減量は生田緑地(川崎市多摩区生田)の1.4倍の森が吸収する量だと、神奈川県企業庁の現地案内板がアピールしていた。
発電所は、水道水を利用している特殊事情から水を汚染しないように水中にある設備は油がいらない構造で、その他は油漏れ防止策を施しているという。
今回の多摩めぐりの町田市鶴川地区は、北側に川崎市、南側に横浜市と複雑に隣接する地域であり、鶴見川と、その支流の河川や街道沿い、さらに小田急線沿いの低地から幾筋もの尾根が連なるなど、高低差に富んだ丘陵地です。低地から丘陵に向かって住宅地が建ち並ぶ中、里山の風景があちこちに見られ、今も開発途中だということが分かります。
コースの目玉の一つである「武相荘」では江戸時代後期の農家の建物をそのまま使用して移り住んで、自らも農業に携わった白洲次郎、正子夫妻の生活用具や、随筆家でもある正子さんの書斎などの展示品に参加者は興味と感動を持たれたようです。
もう一つの目玉、「鎌倉古道早ノ道」では尾根道からの眺めが良く、遠く神奈川県の大山、丹沢山塊まで見渡せた景色に参加者から歓声が上がっていました。この道沿いには木々が生い茂り、当時を彷彿させる鎌倉古道早ノ道だったと思います。台風一過で天気にも恵まれ、土の自然道を歩き、東京とは思えない風景に出会えたと思います。
多摩川沿いから見る多摩丘陵は、優しく横たわる山容だが、その丘陵は、いくつにも枝分かれしていた。だからこそ鎌倉に代表される北条家討幕の最前線でもあったことを実感した。この”軍用路“は、意外にも平坦で歩きやすく、いま、斜面に住宅を建てて暮らす生活とは大きく違うことも見て取れた。それだけに尾根は死活を分ける前線であり、早馬が駆けた。遥か彼方の歴史の一幕だけに留め置きたくない、いまの姿も刻んだ一日だった。
【集合:2023年6月4日(日)午前9時45分 小田急小田原線鶴川駅北口/
解散:小田急多摩線黒川駅、午後3時ごろ】