「第43回多摩めぐり 戦争遺跡の浅川地下壕と緑の聖域武蔵野陵墓地をめぐる」を4月21日(日)に開催します

第34回多摩めぐり 中島飛行機武蔵製作所のあった土地、激動の昭和の時代をたどる

武蔵野競技場線跡の堀合遊歩道など緑陰に吹く心地の良い風が
戦禍の重い気持ちを少し和ませた(堀合遊歩道脇で)

ガイド:味藤 圭司さん

主なコース

JR中央線三鷹駅北口(集合) → 三鷹跨線橋 → 武蔵野競技場線跡 → ぎんなん橋 → 関前高射砲陣地跡・関前公園 → 源正寺 → 延命寺 → 武蔵野中央公園(昼食) → 武蔵野競技場前駅跡 → グリーンパーク野球場跡 → 武蔵野陸上競技場 → 下野谷遺跡 → 東伏見稲荷神社 → 西武新宿線西武柳沢駅(解散) 【歩行距離 約8km】

令和5年(2023)5月14日朝、34回目の多摩めぐりに参加する22人がJR三鷹駅北口に集まった。この日のガイドの味藤圭司さんが掲げたテーマは「中島飛行機武蔵製作所のあった土地、激動の昭和の時代をたどる」だ。戦前、武蔵野町の中心的企業であり、国内最大規模の飛行機を生産していた中島飛行機武蔵製作所は79年前の昭和19年11月24日、アメリカ軍による初めての本格的な本土空襲で従業員57人が死亡、75人が負傷した。以来、敗戦の20年8月15日までに9回の空襲で500発に及ぶ爆弾が投下されて従業員200人以上が死亡、500人を超える負傷者が出た。被害は周辺の住民にも及んだ。この一帯は、「山林に自由存す」と国木田独歩が書いたほど緑豊かで独歩自身が雑木林に癒やされ、自由の尊さを歌い上げていた。駅前ロータリーには駿馬にまたがる女性像「世界連邦平和像」があり、ここに武蔵野市民と中島飛行機武蔵製作所従業員の犠牲者名簿が納められており、像を制作した彫刻家・北村西望ら多くの人々の「非戦」の思いを形にした像だ。いま、中島飛行機武蔵製作所跡は、緑に覆われた公園や住宅、学校などに生まれ変わっている。そんな武蔵野の昭和の戦跡を辿って、今日の平安な日々を肌身で感じた。訪ねた先々で「きょうの日は『戦前の静けさ』でないことを」と願い続けた。

ブロンズ像に込めた「非戦」

躍動感みなぎる「世界連邦平和像」(三鷹駅北口で)

この日の序章は「世界連邦平和像」。北村西望が制作したブロンズ像で、敗戦から24年後、武蔵野市が世界平和都市宣言10周年を記念に建立した。像は、早馬のごとく跳んで世界を駆けるような姿の馬の背に女性が左手に持ったトーチを掲げて万民に平和の尊さをアピールしているように見える。

像の台座は各国から寄せられた48枚の石を組み合わせて出来ている。その中心に第2次世界大戦で亡くなった武蔵野町民470人余りと中島飛行機武蔵製作所の犠牲者200人余りの名簿が収められている。

武蔵製作所の犠牲者は、昭和19年11月24日、サイパン島から飛び立ったアメリカ軍のB29によって日本本土最初の本格的な爆撃によるもののほか、日本の敗戦までに9回による爆撃の犠牲者だった。付近住民も逃げ惑った。

太宰治の至福の時

地下道でJR線の南側に出た一行が目指したのは、作家・太宰治が散歩でよく訪れていた三鷹跨線橋だ。中央線で南北を分断された住民のために昭和4年(1929)に鉄骨で造られた跨線橋だ。長さ90mある。一行が到着する前に付近の親子連れら10人を超す人々が橋下を通り抜ける電車を見つめていた。西方に数十のレールが並んでいる辺りが三鷹車両センターだ。

いまも人気の三鷹跨線橋。太宰治が散歩で通った

ここに太宰も友人らとともにやってきて南方から北方に連なる山々や富士山を眺めていたそうだ。物語を編むイメージを膨らませたか、至福の時間だったのだろうか。私たちが目にする着物姿で橋上に佇む太宰の写真は写真家の田村茂さんが撮ったのもだという。

跨線橋に立つ太宰治

戦火を生き抜いた跨線橋は、建設されてから今年で94年になり、階段の鉄骨などはすり減って丸みがあり、錆たりして老朽化が目に付く。維持管理費がかさむことからJR東日本は令和4年に撤去を決めた。三鷹市も一部を保存することを検討していると伝わる。

緑尽くしの廃線跡続く

跨線橋を降りたあたりから始まる堀合(ほりあわい)遊歩道は、戦後の昭和26年(1951)に三鷹駅から北の武蔵野競技場前駅まで敷設された3.2㎞、所要時間6分、国鉄の単線、武蔵野競技場線跡だ。遊歩道は武蔵野風情がいっぱいの雑木のトンネルとなり、沿道にはエアポケットのように点在する畑、戸建て住宅や住宅団地も建つ絶好の散歩道だ。堀合遊歩道は三鷹市部分で延長約0.6㎞。

快適に足を運ぶ参加者たち(堀合遊歩道で)

その先へ約1.3㎞延びる武蔵野市側をグリーンパーク遊歩道と呼んでいる。グリーンパーク遊歩道の左脇に都道調布・保谷線が近くなると、玉川上水が間もなくで、その対面に境浄水場がある。玉川上水に架かる「ぎんなん橋」が、きょうのもう一つのポイントだ。

橋上にレールのモニュメント

武蔵野競技場線が架かっていた玉川上水の「ぎんなん橋」。
右端の欄干が「いちょう橋」

武蔵野競技場線ができる前の昭和18年ごろ、武蔵境駅から境浄水場まで敷かれた引き込み線を利用していたのが中島飛行機武蔵製作所だった。結果として、武蔵野競技場線は、利用者が少なく廃線となり、撤去されたとき橋台だけが残った。橋台はいまも「ぎんなん橋」の両脇にある。また「ぎんなん橋」の床面にレールが敷かれているのは、かつての様子を伝えるモニュメントだ。平成23年(2011)に共用された都道に「いちょう橋」が新設されている。

子らの声華やぐ高射砲陣地跡

一行は緑のトンネルであるグリーンパーク遊歩道を北上する。親子連れが集い、遊技施設がある関前公園に表示されていたのは「武蔵野の戦争の記憶を訪ねて」の解説板。戦中は、この地の畑の中に日本陸軍が敵方の爆撃機B29飛来の防備に高射砲(八八式7cm)6門を設置していた。高度1万mを飛来するB29への高射砲の命中精度は低いうえに砲弾の量が十分ではなく、大きな成果を上げられなかったという。

米軍のB29から投下する爆弾

昭和20年(1945)4月12日、B29は、やってきた。春霞が濃く、視界度が低い日だった。目標をはずれた1t爆弾の爆撃で地上の高射砲陣地が直撃された。兵士30人近くが亡くなった。この日の爆撃で田無駅前でも多くの犠牲者が出た。そんな事態だったことに一行は、静かに耳を傾けた。近くでは親子のはしゃぐ声が響き、足下ではのびやかに育つシロツメクサが群落を成していた。

児童公園に立つ高射砲陣地の解説版を前に説明を聞く参加者たち
(関前公園近くで)

車必需品の米国人を当て込んで

グリーンパーク遊歩道から五日市街道に入る直前で一行の中から歓声が上がったのはロウバイの木に実がいくつも下がっていたからだ。口々に「初めて見た」「そうそう」と相槌の声も高い。五日市街道沿いの古い建物の修理工場が、否が応でも目に入る。ガイドの味藤さんは言った。「創業年はわかりませんが、この街道沿いには古くから自動車の修理工場やガソリンスタンドが多かった。なぜでしょうか」と質問した。敗戦後に日本にやってきたアメリカ人の多くが車を持っていて修理や給油の需要が高かったからだという。「へぇ~やるもんだねぇ~」と声を交わしながら浄土真宗西本願寺派の源正寺に行き着いた。

慰霊の碑と無残な弾痕の墓石

中島飛行機武蔵製作所の進出で昭和12年(1937)、当時の住職は、自らも土地を提供したほか、西窪(現在の西久保)地区の他の土地所有者を取りまとめた。空襲で本堂や庫裏が大破し、戦後に再建した。中島飛行機武蔵製作所創業者の中島知久平と源正寺の関係が深かったことから爆撃による犠牲者の中で遺族の引き取り手がなかった遺骨5体分(5人とは限らない)が源正寺に残ったのを昭和23年(1948)に「倶会一処(くえいっしょ)」と刻んだ碑を墓地に建てて慰霊している。

遺骨が引き取られなかった中島飛行機従業員を供養する「倶会一処」の碑(左)
(源正寺で)

墓地の中ほどには爆撃や機銃掃射で大きく欠けた墓石がある。背面が無惨に砕かれている。被弾の痕は直撃弾か。えぐられた墓石を見ていると、空襲警報のサイレンや爆撃機の重低音が響いて来るようだった。施主は「戦争のむごさと、二度と戦争をしないことにつながる『空襲被害の証言者』」だとして修繕していないという。

着弾でえぐられた墓石から目を離せなかった(源正寺で)

爆弾の破片前に慰霊塔

源正寺の西側にある真言宗智山派の延命寺には投下された250㎏爆弾の実物破片を展示していた。終戦から33年目の昭和52年(1977)には平和観音菩薩像も建立して戦没者と戦災殉難者72人を慰霊している。家族全員が亡くなった一家もあり、10代までの幼い子や若者20人の名前もある。

爆発で変形した爆弾(延命寺で)

解放感いっぱいの自然公園

グリーンパーク遊歩道に戻って、さらに北の都立武蔵野中央公園へ向かった。公園は目が覚めるほどに視界が広がった。平成元年(1989)に開園した約10万1千㎡の自然公園だ。広場は木一本ない原っぱ。電線は視界の外だ。親子連れがボールを投げ合い、少年野球の一団がプレーするなど、それぞれ思い思いにオクターブが高い声を出しながら走り回っている。

人が小さく見えるほどに広い都立武蔵野中央公園の「はらっぱ」

開墾地に飛行機工場進出

公園になる前の歴史は古い。この地に開拓農民として西久保城山町(現港区芝)や関村(現豊島区関町)、上保谷村(現西東京市保谷)などから移って一面のコナラやクヌギ、カヤなどが生い茂る荒野を開墾した。そんな土地の60万㎡の畑を買収して昭和13年(1938)、中島飛行機が大規模な工場を建設した。振り返れば、この時点で第2次世界大戦が進行し始め、敗戦へまっしぐらに突き進んだといえよう。

規模拡大、高まった軍需機能

昭和8年(1933)、三鷹駅北方の武蔵野町にはすでに横河電機が渋谷から工場を移転しており、日中戦争が苛烈する中で、航空計器や航空機器などの軍需工場機能を高めつつあった。さらに戦局は拡大し、昭和13年に中島飛行機は同町西窪に武蔵野製作所を開設した。交通の便の良さと、立川と所沢の陸軍飛行場に近いことが主な理由で選定された。

中島飛行機創業者の中島知久平


群馬県出身。明治36年(1903)海軍機関学校に合格。卒業し海軍入隊後に、海外の最新航空機事情を視察し、アメリカでは飛行機学校に通い、飛行士資格を得る。大正6年(1917)自宅に飛行機研究所を設け、その後、中島飛行機製作所を立ち上げた。四型6号機は日本の民間企業が造った第1号機となったのは大正8年。翌年に陸軍から70機、海軍から水上機30機を受注。昭和12年(1937)日中戦争が始まり、軍部の要請に応えて新たな陸軍用の飛行機エンジン専用工場を建設。それが中島飛行機武蔵製作所の本格的な始まりだった。

工場の建物は、鉄骨スレート葺きのノコギリ型の屋根を設えた。トイレの手洗いはペダル式、ドアは自動開閉、下水も完備していた。目を見張るのは敷地内に張り巡らした地下道だ。延長7㎞にも及んだという。

中島飛行機の工場地下に張り巡らしていた通路のコンクリート床
(都立武蔵野中央公園で)

増強という名の縦割を解消して統合

当初、陸軍の航空機エンジンを製造していたが、海軍も必要として3年後に武蔵野製作所の隣地に多摩製作所を増強した。建物は鉄筋の地下1階、地上3階建て。当時の工場は平屋建てが一般的だったのに比べて威容を誇っていた。武蔵野製作所と同じに地下道を造り、付属病院も併設していた。昭和16年(1941)は三鷹駅に武蔵野口(現在の北口)が開設され、郵便局を中島飛行機正門近くに移転した。

昭和18年(1943)に両社は合併して武蔵製作所になった。合併によって陸海軍の縦割体制が改善され、陸軍の武蔵野製作所を東工場、海軍の多摩製作所を西工場と呼び、2社統合は中島飛行機が望むところだった。

統合によってエンジンの生産量は前年比を倍増した。従業員は2万8千人(全国からの徴用工や動員学徒らを含むと5万人というデータも)、機械4400台、エンジン月産933台と国内最大規模の企業になった。

三鷹駅北方一帯に横河電機と中島飛行機の下請けの中小工場が集まり、ここで働く従業員やその家族が流入した。中でも西窪地域では昭和16年までの5年間で人口が6倍以上に膨れ上がった。

高層階の集合住宅が立ち並ぶ中島飛行機の敷地跡
空襲前の中島飛行機武蔵製作所
中島飛行機武蔵製作所(東工場)
時計台の塔が焼け野原に立つ

敗色濃く最大規模のメーカーも

中島飛行機は、太平洋戦争で零式艦上戦闘機(ゼロ戦)をはじめ、陸海軍機を生産する国内最大規模の航空機メーカーにのし上がり、米軍の最大の標的になった。陸軍参謀本部を八王子・高尾山の前山に移す計画で掘っていた地下壕に昭和19年9月に中島飛行機の工場を移転させて部品を製造するまでに追い詰められた。だが、ここで機械が動いたのは2ヶ月ほど。従業員1000人で作り上げたエンジンは10台ほどだったという。

9回に及ぶ空襲に晒される

中島飛行機は昭和19年11月以来、延べ9回にも及ぶ空襲を受け、工場だけで220人、周辺住民にも多数の犠牲者が出た。昭和20年4月12日の爆撃被害は田無駅前にも及び50人余りが犠牲になった。敗戦後、中島飛行機は社名を富士産業に改称して飛行機製作から退いた。残ったのは巨額な負債だった。その後、富士産業は会社を分割・統合を繰り返し、現在の富士重工業がエンジン製作の技術を継いでいる。

工場跡地に米軍宿舎

灰塵と化した工場は戦後に閉鎖され、昭和28年(1953)、市民の反対運動を跳ねのけて工場跡地に米軍宿舎「グリーンパーク」が建設された。ここに入居したのは米軍将校と、その家族約760世帯二千数百人だった。その後、土地の返還を求めた市民や市議会などの運動が高まった。返還が実現したのは昭和48年(1973)だった。

公園計画で市民が望んだのは、自然のままの「はらっぱ」だった。その思いが形になったのが、いまの中央公園だ。

シンボルツリーも枯れて

公園東側には武蔵製作所時代の遺物がある。長辺2m以上もあるコンクリート片だ。跡地に建設された都営住宅地から出た武蔵製作所地下通路の床面だ。さらにその近くには幹回り1m以上のシラカシの切株が鉄骨枠に囲まれて保存されているようだった。だが幹は枯れている。武蔵製作所にあったシラカシをシンボルツリーとして残そうとしていたものだったそうだ。

中島飛行機武蔵製作所東工場の生き字引だったシラカシだが、
団地建替えが元で枯れ果ててしまった

宿舎跡地返還で「文化都市」に

広大な敷地にあった中島飛行機を実感させたのは、跡地にできた都営団地や巨大な民間マンションもさることながら、野球場も備えていたことだ。この野球場を核とした文化都市づくりを構想していた。しかも専用鉄道も敷いた。

グリーンパーク野球場は、戦後の昭和26年、フィールド部分を掘って周辺を土盛りしたもので、いまも周囲の住宅の建物より一段低くなっている。一見、児童公園風でもある。団地を取り囲む周辺道路は、緩くカーブしているのも野球場を中心に取り付けられたからだ。

周囲の集合住宅の建物より一段下がっているグリーンパーク野球場の
フィールド跡は、いまの公園でも見られる

5万人収容の巨大な野球場

球場の観客収容人員は5万人という当時では巨大な施設だった。プロ野球のプレーボールは昭和26年5月5日。名古屋(現在の中日ドラゴンズ)と国鉄(現在のヤクルトスワローズ)戦だった。6対3で国鉄が勝ち、勝利投手は金田正一だった。プロ野球としては変則のダブルヘッダーが組まれ、名古屋対巨人戦も行われた。以来、延べ8日間でセパ両リーグ16試合が行われた。

オープニングゲームの野球観戦でスタンドは人で埋まった

6大学野球の聖地といわれた神宮球場が占領軍に接収されており、週末しか利用できなかったことから6大学野球の26年シーズンはグリーンパーク野球場で19試合が行われた。

本格的な野球試合はこの年だけで、砂塵が舞うなどの不評で翌年には球場を運営していた東京グリーンパーク社が倒産してしまった。取り壊されたのは昭和31年だった。

リーグ戦開催日に1日20往復

この球場へ観客を運んだのが武蔵野競技場線。三鷹駅からの引き込み線だった。グリーンパーク競技場前駅までの3.2㎞区間が単線で、所要時間は6分だった。リーグ戦開催中は東京駅からも直通電車が20分間隔で出て1日20往復が運行していた。廃線になったのは昭和34年(1959)。

味藤さん
味藤さん

中島飛行機の工場建設から始まって、戦争、空襲、復興、戦後の発展といった昭和12年(1937)から平成元年(1989)までの約半世紀に亘る激動の歴史を振り返っていただこうというのが今回のテーマでした。中島飛行機工場の敷地56万㎡に起こった多くの出来事は時代を象徴する縮図になっていたことを感じていただけたならば幸いです。

ツアー中にお話ししようと思っていて話すのを忘れてしまったことを書きます。

東京グリーンパーク野球場のことです。この野球場跡地は、昨年(2022)「日本の野球の聖地150選」に選ばれました。明治5年(1872)に日本に野球が伝わってから150年を記念して、全国から150ヶ所の野球関連スポットが選ばれたのですが、1年で消えたこの野球場も選定されました。ドラマチックな生い立ちと、その後の運命は記憶に残すに相応しいものと思います。

そして、150年後の日本の野球はどうなっているかをみると、大谷翔平選手のような超一流選手を輩出し、WBCで世界一になるという、世界の頂点を極めるまでの発展を遂げてきました。

この発展を続ける球史の1ページに、野球を通じて「文化都市」をつくりたいという戦後復興期の熱い思いでできたグリーンパーク野球場が聖地として記されたことは素晴らしいことだと思います。

緑に包まれた住宅や公共施設

武蔵野競技場前駅だった付近は都営と民間の10階建て、12階建てなどの住宅棟や高齢者総合センター、商店街に生まれ変わっている。サッカー女子選手の岩淵真奈さんが卒業した武蔵野東学園もある。さらに武蔵野市役所、武蔵野陸上競技場、クリーンセンター(ごみ焼却場)といった公共機関がある地域も中島飛行機の敷地だった。都立武蔵野北高校が建つあたりも戦後、中島飛行機が同社の労働組合に払い下げた土地で、その後も数社が入れ替わった結果、昭和54年に同校が開校した。

武蔵野競技場前駅の正面側は10階、12階建ての集合住宅が繋がっている

3郡境の道路は分水路跡だった

一行はさらに北へ向かった。千川上水の西窪橋を渡って、上水沿いを上った数十メートル地点でガイドの味藤さんが止まった。上水側が武蔵野市緑町、上水の北西側が西東京市東伏見、その向かいの北東側が練馬区関前南。市区境界線だった。旧郡の多摩郡、入間郡、豊島郡の郡境であり、明治初期、この地点は神奈川県、埼玉県、東京府の府県境だった。住宅地を串刺しにしたように流れる千川上水。200mほど北側には青梅街道が通る。

西東京市と練馬区の市区境には緩くカーブした車1台が通れる路地があった。江戸時代に千川上水から分水していた関村分水の名残だという。この一帯は、武蔵野台地の北辺で水がなかった。青梅街道の北側を下ると石神井川はあるが、水をくみ上げる術がなかった時代に分水されたことでどれほど潤ったことかと感慨深い。

武蔵野市、西東京市、練馬区の市区境を武蔵野市側の千川上水から見る参加者たち

斜面に掘った4本の防空壕

石神井川にかかる溜淵橋から右岸を遡った。侵食で川底は深い。両岸に広がるのは早稲田大学のスポーツ施設。だが、崖にも目が行く。戦中、このあたりに4本の防空壕があり、中島飛行機の従業員が空襲を避けて逃げ込んだという。いまは、草木が植え込まれて防空壕跡はない。

千年以上も住み続けた縄文人

下野谷遺跡で縄文人の住居も写真に収める参加者

大きく蛇行し続ける石神井川沿いの遊歩道から斜面を登ると、そこは下野谷(したのや)遺跡だった。縄文時代中期の環状集落だ。南関東では傑出した規模と埋蔵品があり、平成27年(2015)、一部が国史跡の指定を受けた。水場が近い上に台地上で水害の恐れがない。狩りも容易だったろう。

集落には墓と思われる土坑群と、これを囲むように住居跡や掘立柱の建物群などを構成しており、縄文時代中期の典型的な環状集落だといわれる。石神井川の谷を挟んで複数の環状集落が発掘されていることから双環状集落と呼ばれる拠点的な集落の特徴が見られるという。住居跡や土坑などの形態や土器をはじめ、出土品が密集していることから1千年間という長い期間を継続して石神井川流域に拠点を置いて暮らしていたと見られている。近年行われた発掘調査で浅い地中から中島飛行機の社宅跡が掘り出されている。

永続求めて慰霊碑移設

さらに石神井川を遡った。目の前に大鳥居が立つ。東伏見稲荷神社だ。昭和4年(1929)、関東地方の稲荷神の信仰者らの求めに応じて京都・伏見稲荷大社に願い出て創建した。中島飛行機が武蔵野に進出して以来、神社に社員研修所を置き、鍛錬教育に力を注いだことなどから境内に国旗掲揚塔を寄進したりした。そうした縁が元で境内の奥まったところに中島飛行機の殉職者慰霊碑を建てた。

この慰霊碑は、昭和23年(1948)12月に中島飛行機の工場跡地に設けていたものを昭和39年11月に移設した。同社慰霊碑建設委員会の名前で碑は、こう刻む。

「武蔵製作所は終戦後、平和産業に転換できず、富士産業株式会社武蔵整理部として整理業務に専念し、毎年11月24日を迎える度に戦争の恐怖と罪悪を想起すると同時に、平和日本の礎となった殉職者の霊を慰める祭祀を行った。(略)武蔵整理部従業員有志によってささやかながら祭祀を続けて来たが、慰霊碑の完全な保存と永代祭祀のため、当初より多大の助力をされた東伏見稲荷神社の好意により境内に遷座することになった」と。

中島飛行機武蔵製作所の従業員が亡くなった慰霊碑前で

投下された模擬爆弾で死傷

重い気持ちが解けないうちに西東京市東伏見の児童公園「しじゅうから第2公園」に着いた。昭和20年7月29日午前9時23分ごろ、この公園近くの畑にアメリカ軍の模擬原子爆弾(パンプキン爆弾)が投下された。原子爆弾の投下試験だったという。投下地は当時、ジャガイモ畑で作業中の女性3人が亡くなり、11人が負傷した。

保谷村に投下された250㎏爆弾(西東京市柳沢公民館で)

近くの西武新宿線西武柳沢駅前にある柳沢公民館玄関ホールに戦争末期、北多摩郡保谷町(現在の西東京市保谷)に投下された250㎏爆弾の破片が展示されていた。変形しているが、太さはざっと60㎝、長さは1m以上か。爆裂の威力を想像すらできない。

80年ほど前の多摩地域のほとんどは畑と雑木が茂る台地だった。だが、戦時にはここに暮らす人々に安全地帯はなかった。そんな日々の思いを察する胸中の重さを表現する言葉は未だ見つけられない。口から出る言葉は「二度と戦争をするな!」だ。

【集合:5月14日午前9時30分 JR中央線三鷹駅北口/解散:西武新宿線西武柳沢駅南口 午後3時45分ごろ】