「第44回多摩めぐり 南町田にできた新しい街グランベリーパークを訪ね多摩最南端の地に足跡を残す」を5月18日(土)に開催します

第31回多摩めぐり 新選組のふるさと日野を訪ねる
~ 志士を生んだ風土と時代を探る《日野宿編》

日野宿に家並みが連なった甲州街道を新選組の志士たちも歩いた。
多摩めぐりの参加者は、その足跡を訪ねた

ガイド : 永江幸江さん、 相山誉夫さん 

主なコース

JR日野駅(集合) → 八坂神社 → 宝泉寺 → 西の地蔵 → 矢の山公園 → 新選組のふるさと歴史館 → 御駒止之松 → 大昌寺 → 日野用水上堰堀 → 問屋場・高札場跡 → 日野宿交流館(昼食) → 佐藤彦五郎新選組資料館 → 日野宿本陣 → とんがらし地蔵 → 欣浄寺(ごんじょうじ) → 井上源三郎資料館 → JR日野駅(解散)

日野では450年以上前の室町時代に多摩川から日野用水を引き、近隣の人々は「嫁に行くなら日野へ」と羨んだ穀倉地帯だった。江戸時代中期以降、江戸を中心とする地回り経済の発展は、農民の間に富裕層と生活が立ちいかない人々の違いを生んだ。さらに天明・天保の飢饉が、農村を荒廃させた。時はペリーが浦賀で幕府に開国を迫っており、江戸の政情は不安定だった。進取の気鋭が強い風土の日野宿周辺では農家の次男、三男は武士になることを夢見て血気が熱かった。

日野宿名主の佐藤彦五郎は暴漢に襲われたことがきっかけで剣道を習い、自ら道場を開いて天然理心流宗家の近藤勇や沖田総司らと出会い、八王子千人同心とも交流した。土方歳三とは義兄弟だった。侍としての意思が高い同志は、幕府が募集した浪士組に応募して京都へ上った。その後、「新選組」を名乗り、今日も語り継がれる池田屋事件で幕府から功績を認められた。続く禁門の変、鳥羽・伏見の戦いなどに出陣した。だが、状況は悪化の一途をたどる中、戊辰戦争が始まり、勝沼戦争など幕府方につく新選組は敗走を余儀なくされ、江戸城の無血開城へと向かった。

そんな時代背景を追いながら、31回目の多摩めぐりは「新選組のふるさとを訪ねる~志士を生んだ風土と時代を探る」というテーマで11月20日、永江幸江さんと相山誉夫さんが参加者20人を案内した。

23人連名で上達祈願の奉納額

ケヤキの大木が八坂神社境内の空気を引き締める。参拝者の柏手(かしわで)の音が境内に響く。神社の言い伝えによると、多摩川両岸に広がる土淵郷(日野市一帯~多摩市関戸)の淵に金色の牛頭天皇像が打ち上げられていたのを里の古老が拾い上げて、勧請して祠を建てたのが、いまの八坂神社の始まりだ。700年以上も前だ。

新選組と八坂神社の関係に耳を傾ける参加者たち(八坂神社で)

拝殿には安政5年(1858)8月に奉納された天然理心流近藤周助門人23人の名前が入った額がある。日野宿問屋場を仕切り、名主だった佐藤彦五郎が自宅に開いていた佐藤道場の門人たちが上達を祈願したものだ。島崎勇(後の近藤勇)、沖田総司、井上源三郎らが列記した。この5年ほど後に浪士組として京都へ向かった仲間で、日本を揺るがす出来事に邁進していく新選組の中心メンバーだ。土方歳三は、額を奉納した翌年に入門したので名前がない。

天然理心流の武術上達を祈願した近藤勇ら23人が奉納した額
(「八坂神社初代宮司 土淵英」から)

本陣と脇本陣を置いた宿場

江戸幕府代官頭・大久保長安の直轄地だった日野に日野宿が置かれたのは慶長10年(1605)。東西9町(約1㎞)区間に西から東へ上宿、中宿、下宿があった。宿が本格化したのは天和年間(1681~83)以降。宿場機能を果たしたのは元禄年間(1688~1703)の中頃と見られる。中宿の西側に本陣と東側に脇本陣を置いた。本陣を切り盛りしていたのは佐藤隼人家(上佐藤家)、脇本陣には佐藤彦右衛門家(下佐藤家)が当たった。

日野本郷一村限絵図(明治初年)を元に作成した日野宿概略図
(「新選組のふるさと日野ー甲州道中日野宿と新選組ー」から)

本陣の向かいに荷物などの継立をする問屋場があった。問屋場の間口は3間半(約6.3m)。月初めから15日まで下佐藤家が、晦日まで上佐藤家が担った。問屋の補佐には20組の年寄(組頭)40人が当たり、2人ずつ昼夜詰めた。その配下に帳付けや人馬を割り振る馬指(うまさし)25人などがいた。

継立人馬は、人足25人、馬25頭がいて、幕府公用の伝馬役の費用は住民持ちで、家屋の年貢などは免除されていたとはいえ、負担だった。継立人馬の利用件数は、文化13年(1816)から数年間の史料によると、多い年で1万人強、少ない時で8千人弱、馬は3千~4千頭。高島藩(諏訪)や高遠藩、飯田藩の参勤交代で登城する3月、4月が多く、公用人馬は12月に多かったようだ。

旅籠20軒など民家420軒余り

日野宿交流館の展示資料によると、天保14年(1843)の日野宿の人口は1556人、家は423軒、旅籠が20軒あった。府中宿へ2里(約8㎞)、八王子宿へ1里27町(約7㎞)余りで双方の宿の規模に比べて、日野宿はやや小さかったことから宿泊客よりも休憩の旅人が多かったという。

街道に面した民家は、短冊形の敷地に町屋造りの建築だった。母家は街道に寄せて、間口いっぱいに建てていた。土間は、農家の場合、農作業や調理場として使われていたのと違い、店の接客や職人の仕事場だった。この奥に住居を置いた。母家の奥に庭があり、蔵や納屋を配した。さらにその奥の畑で自家消費の野菜などを育てた。多摩川から取水した水で周囲の田んぼは潤っていたという。渡船場も近かった。いま、街道沿いでは町屋風の建物は消えたが、町割りは変わっていない。

平癒な治安求めて武術を

名主の佐藤彦五郎は暴漢に襲われたことがきっかけで、自衛を考え、日野宿に住んでいた八王子千人同心の井上松五郎が天然理心流近藤周助の門人であったことから周助の門人となった。その後、近藤勇とは義兄弟になり、新選組を物心両面で支え続けた。彦五郎の妻とくの弟が土方歳三だ。こうした関係から彦五郎は、近藤勇と土方歳三の要になっていた。

遠江で発祥した天然理心流

天然理心流は、寛政年間(1789~1801)に遠江国(現在の静岡県西部)の浪人だった近藤内蔵之助が創始した武術で、剣術をはじめ、柔術、棒術、気合術を加えた、いわば総合武術だ。近藤内蔵之助の道場は、両国薬研堀(中央区東日本橋)にあったといわれ、ここから各地へ出向き、門人を得ていた。

文化4年(1807)に近藤内蔵之助が亡くなった後、武州多摩郡戸吹村(八王子市戸吹町)の名主・坂本戸右衛門の長男が近藤三助と称して2代目宗家を継いだ。三助を通して八王子千人同心を中心に多摩地域に天然理心流が広まった。

佐藤彦五郎通じて門人募る

三助が亡くなった(文政2年=1819)後、三助の門人・増田蔵六が実質的な3代目だったが、千人同心の名跡があったため、近藤姓を継がず、宗家不在の時期が長かった。その後、近藤姓を名乗ったのは多摩郡小山村(町田市小山町)の島崎周助(寛政4年=1792~慶応3年=1867)だった。三助の死後、10年以上経っていた。周助は剣術だけを指南したが、天保10年(1839)に江戸市谷甲良屋敷(新宿区市谷柳町)に試衛館を開いたことで門人域を広め、新しい門人を増やした。

そのエリアの一つが甲州街道沿いであり、近藤勇の実家である上石原村(調布市上石原町)の農家・宮川家、日野宿名主・佐藤彦五郎ほか、小野路村(町田市小野路町)名主・小島鹿之助などへ稽古に出向いた。文久元年(1861)近藤勇が4代目宗家となり、多摩地域が天然理心流の中心地になっていった。

上洛の近藤勇ら浪士組揺らぐ

江戸時代末期は世相が不穏であり、安政の大獄(安政5年=1858)、桜田門外の変(万延元年=1860)、生麦事件(文久2年=1862)……世の正常化は見込めず、文久3年(1863)近藤勇らは、幕府が募集した浪士組に加盟して上洛した。だが、一変して江戸に戻るという浪士組に反対して京都に残留、新選組の前身となる壬生浪士組を結成した。近藤勇らは京都守護職・松平肥後守の「御預り」という身分となった。

しかし、不逞浪士の取り締まりの日々は変わらず、近藤勇らの熱い尊王攘夷の志が実現せず、新選組の存在意義を見出せなかったことから元治元年(1864)5月3日、会津藩を通じて幕府に新選組を解体する旨を訴えた。

池田屋事件で親王幽閉計画摘む

その矢先の6月に勃発したのが池田屋事件だった。京都三条の旅籠・池田屋に潜伏していた長州藩と土佐藩などの尊王攘夷派志士を新選組が襲撃したことで計画を未然に防いだ。この計画とは御所に火を放ち、その混乱の中で中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜、松平容保らを暗殺、孝明天皇を長州へ移す企みだ。これを摘んだことで新選組が高く評価され、近藤自身も脚光を浴びた。

海外諸国の実情知り、新たな構え

その後、新たな隊士を募集するために9月に江戸へ戻った近藤勇は、幕府典医で蘭方医の松本良順に会って、想像を超える西洋諸国の事情を知り、認識を改めた。松本良順は、世界地図や海外の戦況、軍事機器の図などを広げ、銃と刀など日本との違いの大きさを説いた。目を見開かされた近藤勇は、諸外国の実情を知り、幕府が攘夷へ踏み切れない立場を理解した。近藤勇は幕府を信じて新選組を率いていくことを確認した。

3年後の慶応3年(1867)新選組は、総員が幕臣に取り立てられ、土方歳三以下は御家人で、近藤勇は旗本になった。

右肩を狙撃されて形勢変わった

その年の12月、近藤勇は新選組から分離した伊東甲子太郎一派の残党に狙撃され、右肩を負傷した。これが元で肩を上げられず、剣を握ることができなくなった。

新選組の形勢は、いよいよ不利になり、幕府方も後退せざるを得ない様相だ。慶応4年(1868)3月、新選組は甲陽鎮撫隊として出陣するが、敗走。再起を図った千葉・流山で新政府軍に包囲された。出頭した近藤勇は、4月25日、板橋宿の馬捨て場で斬首された。享年35。

髷落として銃に持ち変えた歳三

肩を撃たれた近藤勇に代わって部隊を率いたのが、副長の土方歳三だ。近代装備の薩摩・長州軍と初めて衝突した鳥羽・伏見の戦いに完敗して、土方歳三は、もはや刀と槍の時代でないこと痛感していた。武士にあこがれてきた土方だったが、対応は素早かった。江戸に戻った土方歳三は、髷を切り、服装を身軽な洋装に改めた。近藤勇が亡くなった後、土方歳三は東北各地を転戦し、近代戦争の指揮官へと変貌を遂げた。 土方歳三は、榎本武揚らとともに立ち上げた「蝦夷地仮政権」で陸軍奉行並に就き、局地的な戦闘を指揮して勝利。その強さは群を抜いていた。新政府軍の猛攻撃を受けたのは明治2年(1869)5月11日。箱館が陥落しそうな中、土方歳三は弁天台場に立てこもる新選組隊士の救出に向かっている途中、馬上で腹部を撃たれて最期を遂げた。享年35。

甲陽鎮撫隊見送る沖田総司

戊辰戦争勃発時、副長助勤、一番隊長を務めた沖田総司はすでに病床にあり、狙撃された近藤勇とともに大坂へ下り療養していた。

一隊が甲陽鎮撫隊として出陣(慶応4年=1868)する3月に、沖田総司は日野まで隊に同行した。しかし沖田の体力は、そこまでの行程がやっとだった。その2ヶ月後、江戸・千駄ヶ谷で療養していた沖田は、享年27で逝った。

川が見えない給油所前に欄干

多摩めぐりの一行は、いま往来が激しい甲州街道を一旦、東へ進んだ。向かう先に江戸期の小さな残照があるからだ。日野市役所入り口交差点のガソリンスタンド脇に擬宝珠が載った橋の欄干が再現されていた。金子橋だ。高さ1mほど。近くに金子家があったから名付けられたという。ここは、この日の後半で話題に出るところだ。

菩提達磨像の出迎えを受ける

甲州街道を横切った先にある宝泉寺は、新選組と濃い繋がりがある。宝泉寺は元徳年間(1329~30)に現在の新町で鎌倉建長寺の曇芳同応大和尚が開祖した。その後、焼失して現在地の日野本町で再建。嘉永6年(1853)に建てられた六脚檜造りの山門をくぐると、等身大ほどの菩提達磨像が迎えてくれた。平成13年(2001)に本堂を新築して境内も整備された。本尊の釈迦如来を脇侍の文殊菩薩と普賢菩薩が守る。

淀千両松で散る井上源三郎

井上源三郎を顕彰した碑を見る参加者たち(宝泉寺で)

奥まった墓地で眠るのは井上源三郎だ。文久3年(1863)に上洛した後で結成された新選組の副長助勤であり、六番隊長だった。池田屋事件で土方隊の探索隊長として出陣した。だが、慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで、淀千両松(伏見)で被弾して亡くなった。享年40の短い人生を顕彰する碑が墓地入り口に立っている。

井上源三郎の墓で手を合わせる人も(宝泉寺で)

源三郎の首と刀を運んでいた近藤勇の小姓で源三郎の甥、12歳の井上泰助には源三郎の首が重過ぎて、途中にあった日野の宝仙寺と同名の門前の田んぼに埋めたという。遺骨や遺品は、いまも分っていない。日野本町にある井上源三郎資料館は、この日の午後に立ち寄る。

皇太子が見下ろした日野台地

宝泉寺の山門を出て、坂を登った。日野宿西の「坂下地蔵」と地元で親しまれているお地蔵さんがある。宿の東口の「東の地蔵」とか「福地蔵」と呼ばれるお地蔵さんと一対になっている。

日野宿の西に立つ坂下地蔵(西の地蔵)

「坂下地蔵」とは、よく言ったものだと実感したのは、お地蔵さんの向かいを遮蔽する段丘だ。16mほどの標高差を登りきると、矢の山公園にたどり着いた。ここは「傘松御野立場」といわれ、大正10年(1921)11月17日に多摩川で行われた陸軍特別大演習に当時の皇太子(後の昭和天皇)が演習の模様を総観した地だ。

イチョウの葉の色づきが眩しかった矢の山公園

この公園は日野市の西から八王子市の東に延びる台地の高所(標高99m)にあり、黄色いイチョウ、赤いモミジなどの葉に遮られながらも眼下に透けて見えたのは北東に多摩川の沖積地、南東に多摩川の支流・浅川の河岸段丘だ。これらの平坦部などに住宅や工場が敷き詰めたようにあった。昔言われた「穀倉地帯」を探し続けたが、様相は一変していた。中央高速をまたぎ、地元の人がいう「百段階段」のなんと急勾配なことか。めまいがしそうだった。

中央高速(手前)を挟んで坂下橋から北東を見たら日野市街地は足元に
昭和28年ごろの日野駅周辺。右側の高台が日野台地(提供:日野宿発見隊)

新選組の足跡をあぶりだす

新選組のふるさと歴史館ロビーで京都壬生の建て替え前の屯所や函館五稜郭の写真、都立日野高校生が爪楊枝19万800本で制作した土方歳三像に出迎えられた。まさに新選組一色だった。日野と多摩地域の歴史と文化を織り交ぜて新選組にスポットを当てている。八王子千人同心と日野、天然理心流と多摩、新選組の京都の日々、戊辰戦争と日野など新選組の足跡を追う形で多摩地域や日野をあぶり出している。敗走した新選組の同志たちだが、明治時代前期の自由民権運動も視野に入れて強いメッセージを発信していた。

新選組ふるさと歴史館ロビーを飾る京都壬生の屯所や
日野高校生徒による爪楊枝アートの土方歳三

朝廷と幕府の結合に介在者

なぜ、浪士組の立ち上げが成功したのか? 展示パネルは訴える。「朝廷と幕府の結合を強化することによって威信が回復することができると確信する幕臣グループがいたからである。その中核にいたのが山岡鉄太郎(鉄舟)など幕臣尊攘派であった。しかし、幕府の政策として決定されるには幕府権力トップの介在が必要であった。政事(まつりごと)総裁職の松平春嶽、その盟友の山内容堂、公武合体に尽力していた板倉勝静、小笠原長行たちの存在があった」と。

近代化で隊士の意思表出

明治時代を迎えて「御一新」というが、日野では徳川幕府の崩壊を意味する「瓦解」という。日野と幕府の結びつきの強さを表した苦渋が読み取れる。

だが、新選組の熱い遺志は、維新後の薩摩閥政府の前に国会開設を求めた自由民権運動に継がれる格好になった。明治以降の日野では多くの人が自由民権運動に参加した。その後に起きる殖産興業の指導者が輩出され、日野の近代化・工業化にも大きな影響を与えた。

静かにたたずむ御駒止之松

多摩めぐりの一行は日野台地から下り、中央高速の下をくぐった。その先にあったのは御駒止之松。松は直径30㎝ほどで枝ぶりも小柄だ。静かにたたずむ。大正10年に陸軍大演習を視察した皇太子は、ここに立った。山道入口で馬を降り、山を登ってたどり着いた。多摩川沿いに展開する日野の水郷ぶりや家並みなども望んだろう。松を植樹して御駒止之松と名付けた。

坂の途中で木々に覆われて静かにたたずむ御駒止之松

住民の願い叶えた地に眠る

さらに一行は、住宅街へと入り込んで大昌寺の境内に立った。慶長7年(1602)八王子市大谷町にある大善寺を開山した讃誉牛秀(さんよぎゅうしゅう)和尚が隠居場所として建立したのが元といわれる。隠居所と聞いた日野宿の人々が懇願して大昌寺が開かれることになったという。江戸時代には梵鐘が時の鐘になり、周辺の人々の暮らしに欠かせないものとなった。讃誉上人直筆の「説法色葉(いろは)集」(全10巻)は寺宝であり、東京都有形文化財になっている。

村人に時刻を知らせた「時の鐘」に見入る参加者たち(大昌寺で)

境内の奥まった墓地に新選組を物心両面で支え続けた佐藤彦五郎(下佐藤家)が眠る。この地に讃誉上人を招請した佐藤隼人(上佐藤家)の墓も並ぶ。

墓地の一画には慶長10年(1605)に81歳で亡くなった讃誉上人の墓碑がある。大昌寺に移って3年後に亡くなった。また、幕末の江戸の狂歌師だった玉川居祐翁(ぎょくせんきょゆうおう)こと中村太吉の墓も並んでいる。

上佐藤家の墓地。佐藤隼人が眠る
下佐藤家の墓地。佐藤彦五郎が眠る

「多摩の米蔵」生んだ用水

大昌寺の裏山門前を流れる日野用水には多摩川から引いた、ひときわ澄んだ水が流れていた。周囲は住宅街で、「多摩の米蔵」と言われた一面に広がっていた田んぼの様子は覗えない。用水の両サイドにめぐらした擬木の柵があって水辺に人を寄せ付けない。

日野用水が開削されたのは室町時代の永禄10年(1567)に美濃国(岐阜県)出身の佐藤隼人(後の日野本陣・上佐藤家)によって行われた。佐藤隼人は、美濃の大名・斎藤道三の配下で勤め、織田信長の美濃攻めの折に関東に渡ってきたようだ。佐藤隼人は、用水や灌漑の技術を持ち、日野の用水流路や取水堰の設置にも歩き回っただろう。その結果、米蔵といわれる穀倉地帯を生んだ。

柵に囲まれた中を流れる日野用水。
長く穀倉地帯を潤し、いま、水辺空間として人を潤している

「嫁に行くなら日野へ」と羨望

本格的に用水の開削が始まったのは江戸幕府が開かれてからだ。貞享元年(1684)日野用水の取水堰は多摩川右岸に設けられ、上堰堀(八王子市平町)と下堰堀(昭島市中神町)があった。2本の水路は合流と分水を繰り返して甲州街道周辺に広がる日野領に水路を網の目のように巡らした。一面の水田から江戸中期には約2300石を収穫し、多摩地域では一番多い石高だった。2位は府中本町の約1900石。それだけに「嫁に行くなら日野へ行け」といわれたほど周辺の地域から羨望の眼差しで見られていた。水が入った田んぼが一面に光り輝く光景は昭和30年代初めまで見られた。

いまも120㎞流れて水辺潤す

昭和37年(1962)に日野用水堰を建造した折に下堰を閉鎖して上堰堀から下堰堀に分水したが、今日も総延長39㎞の流路を占めている。ほかに市内には浅川や程久保川から取水している用水が十数本あり、全市の用水総延長は約126㎞にも及んでいる。日野用水の流路は現在もほぼ同じ地域であり、流末は市内石田の根川に注ぎ、再び多摩川に流れ込む。

しかし、日野の用水も例にもれず、昭和30年ごろから始まった高度経済成長のあおりで水田が減り、工場排水や生活雑配水によって清流が汚濁した。清流を取り戻そうと立ち上がった日野市では昭和51年(1976)に清流条例を制定して水質浄化に取り組んだ。農業用水の働きを見直し、ビオトープや親水公園を整備した。市民ボランティアも取り組んだ。「清流のまち・日野」がよみがえり、平成8年(1996)には浅川を中心に「水の郷百選」(国交省提唱)に選定された。

相山さん
相山さん

多摩川中流域の沖積低地の開拓は、時の領主にとって魅力的だったようです。室町時代末、北条氏照の経済戦略の一環として、佐藤隼人(後の日野宿本陣、上佐藤家の祖)が多摩川から引いた日野用水の開削は、江戸時代に入って一層進展します。その後、浅川、程久保川からも用水が引かれ、日野は一大穀倉地帯に発展、「多摩の米蔵」と呼ばれるようになりました。今日では住宅地が広がって風景が一変していますが、多くの水路が保存されており、水の流れが往時を偲ばせてくれるような気がします。

物産やグッズ販売など情報発信

一行は、再び甲州街道に出て、日野宿の中心地だった問屋場と高札場の跡に着いた。高さ約1.2mの標石がその印だ。この並びにある日野宿交流館に入った。観光案内所であり、新選組のシンボル模様であるだんだらの幟が何本も立ち、法被やお菓子、グッズ、さらに日野の物産も所狭しと並ぶ。

日野宿本陣と脇本陣の向かいに問屋場と高札場があったことを示す碑

2階では宿場のジオラマをはじめ、宿場の東入口にあった道標を復元しているほか、江戸時代から昭和初期までの日野宿の暮らしぶりや変遷が分かるパネルも展示している。

日野宿の成り立ちなどの展示物を見る参加者たち(日野宿交流館で)
日野宿のジオラマ。宿場を中心に南北に田んぼが広がっていた(日野交流館で)

物心両面で支えた彦五郎

日野宿で剣道熱を高めた一人は佐藤彦五郎(下佐藤家)だ。その人物像を浮き彫りにしている佐藤彦五郎新選組資料館は、真新しいレンガ積みのようなデザインを施している建物だった。

佐藤彦五郎は11歳で名主を継ぎ、日野本郷3千石を管理した。近隣の治安を憂いたことから天然理心流の近藤周助の門を叩いたことがきっかけで近藤勇と義兄弟の契りを交わし、義弟であった土方歳三を支えた。宿場の本陣を預かりながらも屋敷内に道場を設けて出稽古に来る近藤勇や沖田総司、井上源三郎、山南敬助、土方歳三らが出入りし、多摩地域の門下生の武術鍛錬を後押しした。

幕府が全国の志士を募った際には代官・江川太郎左衛門から直に誘いを受けた佐藤彦五郎は、名主であるが故、なくなく辞退。これに応じようとしていた近藤勇を支援した。さらに土方歳三を代わりに出し、井上源三郎ら10人も近藤勇に同行させた。

動乱期に地元多摩地域の各地で火の手が上がった武州一揆を鎮圧するために農兵隊を率いて出動したり、八王子の旅籠・壺伊勢屋に押し入った浪士の捕縛に身を挺して盗賊犯を捕らえたりした。一方で甲陽鎮撫隊の勝沼戦争には最新式の元込め銃20挺で武装した春日隊を組織して自らも参加した。こうしたことから新政府軍から「彦五郎だけは何としても捕らえる」と厳しい追及も受けた。

新選組隊士らとの強い絆で結ばれていた佐藤彦五郎。
展示品を前に先祖の佐藤彦五郎を語る16代目の佐藤福子さん
(中央。佐藤彦五郎新選組資料館で)

資料館には彦五郎の長男・源之助が東征軍に捕らえられたことを知った土方歳三が「おそらく刀も取り上げられたことだろう」と源之助に送った葵の紋入りの拝領刀『越前康継』があるほか、佐藤家の家宝でもある槍や太刀、近藤勇から譲り受けた短銃、土方歳三が愛用した刀や龍笛、手紙など、展示されている品々を見ていると、時代の緊張感、京都に吹き荒れた嵐が身に刺すようだった。館長である16代子孫の佐藤福子さんは「どれも新選組隊士たちとの絆の強さを物語る品ばかりです。代々守り続けてきた先祖を顕彰していきたい」と多摩めぐりの参加者を前に話した。

格式が高い式台備えた本陣

多摩めぐりの一行は佐藤彦五郎新選組資料館の北側にある日野宿本陣の門を入った。都内で唯一残る江戸時代に建てられた本陣跡の建物だ。嘉永2年(1849)1月18日の日野の大火で母屋とともに長屋門も焼失した。その後、再建した長屋門も大正15年(1926)の大火で被害に遭った。現在の冠木門は、被害を免れた一番太い柱(30×21.5㎝)を生かしており、重装感があふれている。

庭を挟んで建つ母屋は、木造平屋建て、切妻造りの瓦葺きの屋根の大きさが際立つ。上屋桁行、梁間は横11間4尺(約21m)、奥行き5間(約9m)、北面中央に横2間(約3.6m)、奥行き1.5間(約2.7m)の入母屋式の式台が備わっており、重々しさがさらに増している。当初の敷居面積は100坪(約330㎡)だったという。瓦葺きの高い大屋根と入母屋造りの玄関があり、本陣建築の意匠が優れていることなどから江戸末期の建築構法を伝えると平成22年に東京都は史跡に指定した。

本陣は佐藤彦右衛門家(下佐藤家)の住宅でもあった。日野の大火後の文久3年(1863)4月に上棟され、翌年の元治元年12月から使われた。下佐藤家は当初、本陣の佐藤隼人家(上佐藤家)に対して脇本陣を切り盛りしていたが、慶応4年(1868)2月に苗字御免が下り、以後、本陣を名乗ったのを今日も受け継いでいる。

大屋根の本陣建物の中央にせり出す式台の前で参加者が全員集合

最上段の間、床の間、欄間も

玄関口の土間から奥の部屋を見る。土間と床上は2.5尺(約76㎝)ほど高い。一般の民家と比べると、高く造られているという。目に飛び込んできたのは、左手の勝手と正面の18畳の広間の間にある黒光りしている大黒柱だ。四面それぞれが2尺(約60㎝)もあろうか。壮大な母屋を支える一本柱だ。

左の勝手の奥に茶の間や仏壇の間、納戸が続く。
黒光りした大黒柱(中央)の太さが目に付いた本陣

広間の奥を見る。10畳の玄関の間。この右手に式台がある。玄関の間の奥に6畳2間が続く。供の者が控えていたのだろう。これらが遠近法で絵に表したように奥まで部屋が続き、本陣の格式の高さを漂わせている。

大名など身分の高い人々は、式台から上がって玄関の間から廊下へと進み、中廊下を経て下の間、中の間、御前の間を通って最上段の間に入って休息、宿泊したという。上段の間には床と床脇を設えてあり、草花の透かし彫りの欄間も組み込んでいる。北側にある控えの間や廊下の境は板戸で仕切られて、他の部屋とは明確に区別されていた。

手前から広間、玄関の間、2間続きの控えの間と奥行きが深い本陣
本陣の上段の間。12.5畳で、床の間とは別に違い棚を設えた脇床があった

出稽古通いの志士たち、里帰りにも

佐藤彦五郎は、本陣の敷地の東側に佐藤道場を開いていた。嘉永3年(1850)に天然理心流3代近藤周助の門下になってからだ。ここに出稽古に来ていた近藤勇や土方歳三、井上源三郎らが通い、京都から里帰りした折も顔を見せていた。道場跡を示す碑が門前に立つ。

明治26年(1893)にも一帯の54軒を焼く大火に見舞われた。この時、有山家(佐藤彦五郎の四男の養子先)が焼失したことから下佐藤家は、脇本陣を構成していた上段の間と、これに続く一間を有山家に移した。

甲州道中45宿の中で現在残っている本陣は日野宿のほか、神奈川県相模湖町・小原宿本陣と山梨県大月市・下花咲宿本陣だけだ。

唐辛子備えて「ヤンメ」治す

昔むかし、目が悪い人々が日野宿本陣から北へ「とんがらし地蔵」を目指して願掛けにやってきた。真っ赤な目をして。お地蔵さんに唐辛子を供えて手を合わせて願うと快方する言い伝えを頼りに、秋には地蔵堂の扉の前に赤唐辛子が山となった。

地蔵堂が建てられたのは明和3年(1766)。当時の日野の暮らしぶりと風習を伝えるお地蔵さんで、「ヤンメ(病んだ眼)地蔵」ともいうそうだ。地蔵堂脇には宝暦5年(1755)・宝暦6年といった年号が彫られた庚申塔がある。

帽子をかぶり、前垂れをかけ、
帯を締めていた「とんがらし地蔵」

地蔵堂周辺の北原地区の人々は念仏講を作り、2月1日にテントウ念仏(お天道様があるうちに念仏を唱える)、10月23日には「おこもり」といって夜更けまで念仏を唱えていた。いつとはなしに講中の当番の家へお地蔵さんを運んで、それぞれが供え物を持ち寄ったこともあった。その席はよもやま話に花が咲いた。近年では席を自治会館に移したが、この敷地を返還するあたり、平成27年(2015)2月を最後に念仏講は解散した。いまも地蔵堂には目に似た形をしたドーナツ型の石が供えられている。「日本のお地蔵さま百選」に選定されている。

寺子屋の恩師顕彰碑に名刻む

「とんがらし地蔵」の並びにあるのは浄土宗の嶺北山硯伝院欣浄寺(ごんじょうじ)。欣浄寺は、元和6年(1620)に八王子滝山大善寺の僧・硯伝が草庵を結び、正保元年(1644)芝増上寺の長老だった超誉が中興開山したと伝わっている。山門以外は大正7年(1918)2月に焼失、昭和4年(1929)に再建された。

本堂左手にある台形の「寺子屋の碑」が目に付く。千人同心の日野義貴が、上宿の金子橋周辺で開いた寺子屋で、教え子たちが恩師を顕彰したものだ。日野義貴は、文久3年(1863)8月に亡くなった。当時、新選組として京にいた井上源三郎にも碑の建立が知らされたのか、台座の裏に名が刻まれている。

碑を建立した日野義貴の子息・義順(天保10年1839~大正5年=1916)も千人同心で、千人同心解散後は彰義隊に加わった。明治6年(1873)日野宿の普門寺境内に創設された日野学校(現在の日野市立第一小学校)初代校長を務め、明治33年(1900)に日野町長に就いた。

日野義貴を顕彰した「寺子屋の碑」

井上兄弟の実像と生涯見せる

欣浄寺の向かいに建つのは井上源三郎資料館。新選組六番隊組長の生家だ。佐藤彦五郎に天然理心流の仲立ちをしたのが井上源三郎の兄・井上松五郎とされ、歴史の一役を担った。松五郎は家を継ぎ、代々、勤めてきた八王子千人同心に加わり、将軍徳川家茂が東海道を上洛した時、松五郎らが警護に当たった。 源三郎は近藤勇、土方歳三、沖田総司らとともに中山道を上った。近藤勇らとともに京都に留まり、京都守護職で会津藩主の松平容保預りの身となって新選組に加わった。鳥羽伏見の戦いで砲煙弾雨の淀千両松で銃弾に倒れた。享年40。最期の様子は、甥の井上泰助が生家に伝えた。

展示ホールには松五郎や源三郎を囲むように近藤周助、沖田総司といった面々が語り合った囲炉裏を再現している。近藤勇の京都土産の刀「大和守源秀國」、千人同心で日光勤番に出た松五郎が着た装束、旅の記録や手紙を含めて200点を超える資料を展示している。松五郎の5代目子孫の井上雅雄さんは「展示している天然理心流の免許や多くの資料などから武士道を貫いた松五郎・源三郎兄弟の実像と生涯が汲み取れる」と入館を進めている。

八王子千人同心だった佐藤松五郎と、その弟・源三郎の
新選組にまつわる資料をそろえている「井上源三郎資料館」
永江さん
永江さん

「新選組のふるさと日野」ということで、近藤勇とは義兄弟の契りを結び、土方歳三とは従兄であり義理の兄であった佐藤彦五郎と新選組との関係を軸にご紹介してみました。

新選組が日の当たる場所に出たのは昭和になってからと言われます。それまでの間、ゆかりある人々はつらい思いをした時代もあったと聞きます。そんな時期にも先人の生き方を信じ、プライドを持って遺品の保存に努めてこられた御子孫や縁者の方々。その心意気が今日まで様々な資料が保存され、全国からファンが訪れる「新選組のふるさと日野」を作り上げたのでしょう。
街中に掲げられた写真パネルには、見つける度に足を止めて見入ってしまいます。

◇来春予定している「新選組ふるさと日野を訪ねる(高幡不動編)」では、土方歳三の足跡を追って日野市石田や高幡不動をめぐる予定です。

【集合:11月20日(日)午前9時30分 JR中央線日野駅/解散:日野駅 午後3時30分】