「第50回多摩めぐり 作家吉村昭の書斎を訪ね、あわせて多摩地域の東端エリアを散策する」を12月21日(日)に開催します

第29回多摩めぐり
北多摩を貫く都内で一番長い直線路
多摩湖自転車歩行者道を歩く《Part2完結編》

行く先々で花が待っている自転車歩行者道を歩く参加者たち

ガイド:味藤 圭司さん

主なコース

西武新宿線・小平駅(集合) → 彫刻の小径 → 延命寺・多摩野神社 → 大沼田用水 → 小平ふるさと村 → たけのこ公園 (昼食) → 花小金井駅 → 第3 水路急下跡 → 馬の背 → おおぞら公園 → 多摩湖自転車歩行者道0.0㎞ポスト → 千川上水 → 境浄水場 → いなげや武蔵野関前店:境浄水場俯瞰(解散)

東京水道の生命線の一つである村山・境線の導水管。東大和市の村山貯水池(多摩湖)堰堤下から武蔵野市の境浄水場まで地中に潜らせている。この地上を一直線に東進する「多摩湖自転車歩行者道」を6月11日に中間点の西武新宿線小平駅まで歩いたのに続いて、9月17日、小平駅から東側も味藤圭司さんのガイドで参加者20人が歩いた。このPart2のコース参加者の8割以上が直線部分の全10㎞を歩き通したことになった。

東京の水道事業の始まりは小石川上水(後の神田上水)。432年も前だ。その後も続く江戸市中の人口急増に対応するために玉川上水を開削した。以来368年。さらに衛生面などを改善するために求められたのが近代水道だ。その中枢の一角を担っているのが村山貯水池。大正13年(1924)に境浄水場と地中に埋めた導水管で繋げた。

村山貯水池が完成して95年、ともに歩んだ境浄水場は、現在、東京都全体の4.6%(日量31万5千㎥)を賄っている。都水道局による数次にわたる水道事業の拡張や送配水の幹線網整備を重ねてきて、現在、全施設の1日当たり684万㎥を送配水できるまでに能力を高めた。境浄水場をはじめ、各施設では全都への安定供給の機能をさらに高めるためにいまも改修・改善を重ねており、その工事現場を目の当たりにして日常、何気なく使っている生活用水の重みを実感した。

この地表に昭和59年(1984)多摩湖自転車歩行者道が敷かれ、名実ともにグリーンベルトとして親しまれている。自転車歩行者道は全線通じて緑のトンネルが続き、沿道の風景の様変わりも体感した。住宅が連なる小平駅以西に比べて、以東では江戸時代に開削された玉川上水から引き込んだ小川用水などの分水路や、憩いの空間を表すベンチが点在し、江戸時代の新田開発が元になる野菜畑や果樹園が目につく。西東京市域では庭木の苗畑が広がる。精密機械メーカーの跡も見た。「逃げ水の里」といわれた江戸時代以前に人を寄せ付けなかった北多摩地域に玉川上水から分水が引かれて人々が定住して産業を支えた分水。その効用も見た。

窪地に秋色の公園

この日のスタート地点は、小平駅に近い「あじさい公園」。紫や白などのアジサイやハスの花が水面に映え、カエルが水に浮かんでいた6月の瑞々しさと違い、緑の葉を濃くした秋色だった。公園の南西縁を囲む小川用水の水も澄んでいた。用水に足を入れて落ち葉などを取り除く監視員が掃除をしていた。

あじさい公園を取り巻く小川用水

小川用水は、明暦2年(1656)小川村が開拓された翌年に引水した。いま住宅が迫る水辺の効用は高く、公園の木々ともマッチして安らぎと潤いの空間になって久しい。

小平の地形を表す特徴がこの公園にあった。一帯は窪地であり、自転車歩行者道を土盛りしたことから公園へ下る格好になる。小平市には丘や山がなく、一見平坦だが、窪地が4ヶ所ある。その一つが、ここ天神窪だ。天神窪を起点に北に「さいかち窪」、南に「平安窪」と「山王窪」があり、いずれも地名になっている。

沿道に深み加えるブロンズ像

多摩湖自転車歩行者道のあじさい公園付近から東の花小金井駅前までの約2.5㎞区間を小平市が名付けた「齋藤素巌彫刻の小径」にユーモラスな「遺失物」(1950年作)や、稲穂を抱え込んでいる人物像の内面をえぐった「エゴイスト」(1957年作)など15基16点のブロンズ像に参加者の眼は興味津々だった。

ブロンズ像の「遺失物」を見入る人たち

齋藤素巌は、昭和49年(1976)2月、84歳で、小平で亡くなるまでの31年間住んでブロンズ像の制作に取り組み続けた。遺品240点の寄贈を受けた小平市が顕彰して沿道に作品を設置している。

この道には石造りの「みちしるべ」があった。自転車歩行者道の東から4.9㎞地点が今回、最初に出会った3基目の「野」で、それを屈んで見入る人たちで一時、休憩状態になった。「みちしるべ」は全区間で「武」・「蔵」・「野」・「乃」・「道」とそれぞれ彫られた5基からなる。私たちは西から歩いてきたから4.2㎞東のゴール手前にある「武」を目指して歩く。

全体の3番目の「みちしるべ」碑にも熱い目を注いだ

農業王国の顔見せる人だかり

沿道の樹幹越しに広がる野菜畑の入り口に駐輪場かと思うほど、多数の自転車が止まっていた。「畑のおじさん 吉野農園」の看板が目に留まる。穫れたてのキュウリを販売する小屋もある。奥の畑に目を転じれば、多数の人々が畑の手入れに余念がない。体験農業や市民農園、直売、出荷・市場型と農業形態が様々なのも小平農業の特徴と聞く。まさにそのパターンを見る人出だ。

農園に集まった人だかり。畑の手入れの大変さよりも世話をする楽しさが見て取れる

令和2(2020)年度の東京都農作物生産状況調査によると、小平市の11種が多摩地域のベスト10に入っている。市内最大の収穫はキャベツ337t、次いで207tのハクサイ、120tのサトイモが上位を占めている。多摩地域全体のベスト3に入っている種はウド21t(1位は立川市53t)、ゴボウ7t(1位は清瀬市16t)、サヤインゲン7t(1位は町田市14t)、ピーマン14t(1位は町田市35t)と堂々の農業地域だ。

都市農業の効用は、景観や市民の憩いの場だけではなく、平成27年(2015)に「都市にあるべきもの」の1つに農地を上げた都市農業振興基本法によって、災害時の防災空間の機能も規定されて農地の活用の流れが変わった。

創建300年の風格と静寂さ

自転車歩行者道の沿道の光景を一変させたのは延命寺だ。天神町の青梅街道に面した山門も歴史を感じさせて重々しい。江戸時代中期の享保年間(1716-35)野中新田を拓くために入植した人たちの願いを取り入れた野中善左衛門が開基となって享保18年(1733)に中藤真福寺(現武蔵村山市)の塔頭の一つを引寺したといわれる。

厳かな山門の延命寺

山門脇にあった庚申塔は嘉永3年(1850)造立で市内に現存する庚申塔の中でも珍しい形状だという。塔は小松石の唐破風の屋根がついた角柱石で、正面上段に日輪と月輪があり、青面金剛が魔物の天邪鬼を踏みつけて立っている。顔は柔和で笑っているようでもある。

柔和さが浮き立つ延命寺の庚申塔にも歴史を見た

台座も目を引く。烏帽子を被った三猿は、ともに狩衣を身にまとい足を上げている。1匹は左手に扇を持ち、右手で口を塞ぐ。もう1匹は左手に鈴を持ち、右手の扇で顔を覆う。別の1匹は、左手にご幣を担ぎ、右手で耳を塞いでいる。3匹で三番叟を舞っているようだ。

延命寺の境内続きに地元で「天王様」と呼ばれている多摩野神社がある。延命寺が建てられる10年ほど前に青梅街道沿いの野中新田に住む人々が祀ったという。

開拓促進した大沼田用水

境内の中央を大沼田用水が穏やかに流れていた。用水の法面を守るようにササが密集している。大沼田用水は境内の北側に延びる自転車歩行者道を潜った先の親水公園を取り巻いていた。享保7年(1722)大岱(おんた)村(現東村山市)の名主・當麻弥左衛門が大沼田新田を開発した際に引いた用水で、玉川上水から取り入れた水を鈴木用水、野中用水と分けた後の水を取り込んでいる。大沼田用水は、ここからさらに北へ向かい、西武新宿線を潜り、大沼町へ流れている。

延命寺境内の静かさを増幅させていた大沼田用水

地下40mに新たな導水管

親水公園に隣接しているのが白いフェンスに囲まれた工事現場だ。平日は大型のダンプが出入りしている。天神町3丁目のこの地から東の西東京市向台町4丁目までの、自転車歩行者道の地下約40mに東村山浄水場-境浄水場を繋ぐ2本の導水管を新たに埋設するためにシールド工法でトンネルを掘っているのだ。

東村山浄水場は昭和32年(1957)に完成してすでに62年が経過して施設の老朽化を解消するためのリニューアルの一環だ。同時に東村山浄水場の機能を境浄水場が補完するためでもある。

一方、境浄水場では現状の送水能力を高める必要があることから、別に工事を進めている。双方の工事が終われば、境浄水場からの浄水をいったん東村山浄水場の給水施設に戻して、再び既存の給水ネットワークで給水する大掛かりな工事が続行中で、時代とともに進化し続けて終わりがない水道事業の大変さを知った。

7つの開拓村が合併

小川用水や大沼田用水のように小平が拓けたのは玉川上水が開削されて分水が引かれて新田開発ができた後だ。小川村、小川新田、大沼田新田、鈴木新田、廻り田新田、野中新田与右衛門組、野中新田善左衛門組の7つの村が拓かれた。これらが合併して明治22年(1889)に小平村になった。市制を敷いたのは昭和37年(1962)。東京都11番目の市となった。

暗闇の土間、質素な暮らし

小平の開拓時代の古民家などの寄贈を受けた小平市は「小平ふるさと村」を開園。一行は、ここに立ち寄った。日の出を待って立ち働いたであろう開拓民の様子を伺わせた江戸時代初期の明暦年間(1655-57)の建物に足を踏み入れたら、真っ暗で土間の感触があるだけで足元が見えない。小川村を開発した名主の小川家に残る文書をもとに復元した2人宅だ。柱は栗の丸太を掘立てにし、床は竹の簀子、あるいはもみ殻、藁くずを敷き詰めて筵を敷いた。壁は萱や麦わらで囲っただけだ。当時は、ほかに4人宅、6人宅もあったという。

稗や粟などを育てた畑も再現した小平ふるさと村。奥の建物が開拓当時の民家

江戸中期の喰い違い四ツ間型

小平ふるさと村で最も大きい家屋は、旧神山家住宅の母屋。ここに移築する前は回田町にあった神山家の住まいで、元は小金井にあったと伝わっているそうだ。間取りは江戸中期の後半(18世紀)から後期にかけて見られる喰い違い四ツ間型。小平の新田開拓農家として江戸中期から後期にかけて見られる住まいの特徴がある文化遺産として展示・保存している。

柱などがススで黒光りした旧神山家(小平ふるさと村で)
水車が回る音に懐かしさが込み上げる人も(小平ふるさと村で)

軒先には稗や粟、黍(きび)、米といった穀物を稲架(はさ)掛けして、これらを運ぶ大八車や農具類を展示して当時の生活を浮かび上がらせていた。見学者などに向けて武蔵野うどんを提供している。戦後生まれの参加者には懐かしい品々だが、育った地域によって見た光景が違うことから互いに聞き合う姿もあった。

旧神山家住宅母屋の前で参加者が勢ぞろい(小平ふるさと村で)

贅を尽くした名主の玄関棟

ふるさと村に展示している名主だった旧小川家住宅の玄関棟は、平民の家とは大きく違った。母屋とは渡り廊下で繋がっていた玄関だという。正面と背面に破風がある入母屋造りで、正面左手に控えの間を設け、寄棟造りの屋根が直角に付いていた。部材にも贅を凝らしている。正面の破風はケヤキの千鳥破風を施し、屋根に懸魚を吊り下げるなど、木連格子(きつれごうし)を取り込んだ本建築だ。

小川家は、開拓以来、幕末まで200年に渡って小川村の名主を代々務めた。玄関棟は名主屋敷のものとして例を見ないことから別格の高い地位にいたことがうかがわれるという。

涸れた野中用水、東へ

自転車歩行者道をさらに東へ向かうと、右手の路肩を切ったような野中用水が現れた。玉川上水から引き込んだ大沼田用水の天神町分岐水門で枝分かれした分水で、青梅街道に並行する格好で東へ流れる。だが、用水は干上がっている。大沼田用水からの引水がないからだそうだ。

大福餅に人心地着く

小平ふるさと村から東へ約400m、昼食ポイントの小平市立たけの子公園に着いた。緑のトンネルが続く癒しの空間である自転車歩行者道に沿ってある、広々とした公園もまた良し。ケヤキやクヌギ、ナラ、サクラなどの木々が背比べをしている。その奥にひときわ緑を濃くした竹の表皮に清々しさを見た。

ここでサプライズの「ブルーベリー大福」を参加者にプレゼントした。自転車歩行者道の沿道脇の光が丘商店街で和菓子店を構える玉川屋(鈴木町)の名物菓子だ。ブルーベリー栽培発祥の地・小平に因んだ季節商品で、生地がなめらかで程よい甘さの中に清涼感を醸し出している餡に仕立てているのはブルーベリー効果だ。早速、頬張って「う~ん、いまの私の体に合うぅ」と言ってにっこりする参加者。歩き続けてきた心身を立て直してくれる一品になったようだ。

「わ~い、ベルーベリーのお大福だ」と手に取って早速、いただいちゃいました
(小平市立たけの子公園で)

玉川屋は創業47年。2代目の小日向辰雄さんは、この日、ふるさと村近くの自転車歩行者道で出店を張っていた。高校を卒業後、和菓子の修業を積んでこの世界の楽しさを知り、店を継いだ。餡に北海道十勝産の小豆を、砂糖に上質なザラメを吟味して朝早くから取り組んでいる。

この公園にも齋藤素巌彫刻の作品が設置してある。稲穂を力強く抱え込んだ「エゴイスト」など4点を見た後、再び東へ足を向け、花小金井駅を目指した。

ブルーベリー栽培の発祥誇る

駅前の南口ロータリーの中央は、ブルーベリーの木で埋まっていた。なぜ、小平市がブルーベリー栽培の発祥地なのか。東京農工大学の岩垣駛夫(はやお)博士が国内で初めてアメリカからブルーベリーを取り寄せて育成に成功し、昭和43年(1968)岩垣博士の教え子だった島村速雄さん(花小金井南町)が実家の畑で栽培したのが始まりだ。島村さんは、いまも「島村ブルーベリー園」を営んでいる。

ブルーベリー栽培発祥の地・小平をアピールする畑(花小金井駅南口ロータリーで)

現在、東京都内でブルーベリーを多く出荷しているのは50tの青梅市を筆頭に、町田市が39tと続き、19tの小平市はベスト8だ(2019年度東京都農産物生産状況結果報告書)。

水路急下の規模を覗かせる

足元に送水管が埋まっていることを忘れてしまいそうな商業地域の花小金駅前の雑踏を抜けつつある地点で足を止めた。この日、初めて見る水道施設だった第3水路急下跡だ。大正13年(1924)に完成した導水管の村山・境線には当時、開渠部分が3ヶ所あった。その3番目が、この地だ。

開渠で導水していた第3水路急下跡

導水管は、これより東にある田無用水を潜らせる必要と、東方で地面が低くなることからこの地点で水位を下げなければならなかった。そのために小型のダムのように落差を設けて水位を下げた。昭和初期に撮影された写真では急降下する水がしぶきを上げて落ちる。相当な水量だったことをうかがわせる。現在、施設は埋め立てられて、当時の石組が露出している程度。ここに「水の碑」のモニュメントがある。

人馬や宿場救った命水

第3水路急下跡の東方を南北に渡る田無街道の西側に田無用水が通っていた。江戸時代初期に整備された青梅街道だが、田無宿では飲み水に事欠いて、北方の谷戸へ朝な夕なに水を汲みに出ていた始末だった。元禄9年(1696)玉川上水の喜平橋付近から田無用水が引かれたことで一息ついた。しかし、その分量も玉川上水を流れる水量の0.2%にも満たなかった。

田無宿へ引水できた34年後の享保15年(1730)田無用水から分水して鈴木用水を引いた。この用水も今は干上がっている。古くは鈴木新田の人々の暮らしを潤し、東の石神井川に流れ込むまでに作物を育てた。五日市街道の、いわばバイパスだった鈴木街道も鈴木新田を通っていただけに行き交う人馬の命水になっただろう。

住宅と畑に沿って掘られた鈴木用水。水の流れはなかった

100年変わらない「馬の背」

この日のコースの中間点を過ぎたあたりだろうか。光景が一変した。自転車歩行者道の「馬の背」といわれる高い土盛りが続いているのが遠目にわかる。土盛りを境に南北とも畑と住宅が連なる。馬の背の中間あたりでは、ちろちろと水が流れる石神井川を跨いでいる。

歩行者は5mほど高い、見晴らしが効く「馬の背」の上を、自転車は下を行く

なぜ、土盛りをしたのか。石神井川が侵食した地域で一帯が窪地になっている。導水管を通すために高さ5mほど、長さは300mもあろうか。この区間に土手を築いて導水管がむき出しになるのを防いだという。この地点は小平市内で最高の標高差だ。もちろん、ここでも自転車歩行者道を象徴するように直線の土手だ。しかも導水管を埋めて以来100年間も同じ光景であることに胸に響くものを感じた。

「馬の背」の上から見ると、両サイドに畑と住宅が連なっていた
「馬の背」の東端を示すかのようにエノキの大木が植わっていた

野菜畑から苗圃へ姿変える

西東京市域に入った。自転車歩行者道の沿道で目に付くのは、小平市で野菜畑多かったのと違い、植木の苗圃が広がっていた。両市の苗圃面積は、西東京市が2427aで、小平市の2569aに及ばないものの、東京都全体で堂々の4位(小平市)、5位(西東京市)と上位に食い込んでいる(2019年産東京都農作物生産状況調査結果報告書)。

苗圃の脇で西東京市は苗木の町であることをアピールしていた「風景の窓」。
表側は真っ赤なデザインだ

小平市の畑で見た「防災協力地」「元気です 小平の農業 私たちが小平の『緑』を守ります」という大型看板とは違い、西東京市域では赤や青の色鮮やかなボードの一部を四角くくりぬいた看板に「風景の窓 苗木のある西東京市」とアピールしている。くり抜かれた窓から覗くと単なる苗圃ではなく、その風景は絵になり、写真を撮りたくなった。苗圃では営農者によって違いがあるものの、ケヤキ、ヤマボウシ、ヒメシャラなど落葉樹の若木を育てている。

工場跡地に病院やマンション

西東京市新町の徳洲会病院付近は、境・東村山浄水場リニューアル工事の東側の現場だった。徳洲会病院のほか、その東側には沿道では見なかった高層の建物が飛び込んできた。約800戸が入居するマンション、キヤノン西東京データセンターが立ち並んでいた。平成19年(2007)10月に閉鎖されたIHI田無工場の跡地だという。

同田無工場は、昭和32年(1957)に当時の石川島重工業がジェットエンジン専門工場として開設した。半世紀に渡って航空機用ジェットエンジンの各種部品を製造・修理し続け、大型衛星打ち上げ用エンジンの部品開発などを行った。田無工場の機能を福島県の相馬工場や瑞穂町の瑞穂工場などに分散した。

エンジン開発の変遷示す公園

これらのビル群南側の跡地に「おおぞら公園」があった。IHIが「ジェットエンジンのふる里」としてジェットエンジンを象徴する部品のブレード(翼)を表したモニュメントを設置しているほか、田無工場が手掛けたエンジンの変遷を追った説明板がある。この台座のレンガは、田無工場開設当時から事務所で使われていたものだ。

航空機の翼を立ててデザインした「おおぞら公園」。
左の建物がキヤノン西東京データセンター、右が高層マンション

IHIが田無に進出した前後にお菓子の「キャラメルコーン」を製造していた東ハトやシチズン、住友重機工業、日本チューナーなど従業員500人規模の企業も進出した。田無の利便性などの立地が魅力だったようだ。

「水の神殿」見て達成感湧く

自転車歩行者道の前方に車の往来が激しい井ノ頭通りと五日市街道が交差する関前五丁目交差点付近が見えてきた。終着点の境浄水場は近い。自転車歩行者道のモニュメント「水の神殿」が立つ。路面に埋め込まれた距離表示のプレートは「0.0㎞」。東側から歩いた場合の表示だ。西側から歩き始めた一行の目には「10.0㎞」に見えそうだった。一行から「ご苦労様でした」の拍手が沸いた。

多摩湖自転車歩行者道のゴール「水の神殿」モニュメントに着いて一安心

関前五丁目交差点を潜る千川上水を見た。「江戸の6上水」と言われた1つだ。元禄9年(1696)5代将軍徳川綱吉の白山御殿(文京区)へ通水するために玉川上水の境橋から分水した用水だ。その後、沿線の農業用水に使われ、幕末から明治期にかけて滝野川・王子で大砲の製造や製紙用といった工業用水にも流用された。昭和46年(1971)通水が止められたが、東京都の清流復活事業で平成元年(1989)から下水の高度処理水が流されている。

立ちはだかる壁の浄水場

目前に迫る境浄水場だが、ここは土手に囲まれ、一部には塀もある。施設全体を見渡すことができないはずだ。自転車歩行者道の地中にある導水管の村山・境線が浄水場へ入る地点まで行ったが、高い壁で遮断されていた。

ガイドの味藤さんには仕掛けがあった。浄水場の南に隣接するいなげや武蔵野関前店屋上から一望しようと同店に事前に入店許可を取っていた。屋上に上がった一行は、誰しも歓声を上げた。浄水場内には87×54mのろ過池が20面、整然と並んでいた。

ろ過池の水面を光らせていた境浄水場。
東に三鷹駅周辺の高層マンション群が立ち並んでいた
いなげや武蔵野関前店屋上から境浄水場を一望する参加者たち

境浄水場は大正13年(1924)に建造された施設だが、その後、改修に次ぐ改修を繰り返してきた。いまもまた新たな整備が進んでいる。緩速ろ過方式の浄水場としては現在、日本最大だ。

村山貯水池と山口貯水池から自然流下で送り込んだ原水は水圧が高いことから減勢施設で勢いを弱めた後、大開渠に流している。さらに各ろ過池へ配水する。

ここで取り入れている緩速ろ過方式は、ろ過砂の表面や内部に繁殖した微生物(藻類や細菌)による水の濁りや不純物を取り除く方法だ。いわば自然の浄化機能を取り入れていることによって最終的においしい水が供給できている。その後、塩素殺菌した後、自然流下で和田堀給水所(世田谷区)へ送り出している。

2つの浄水場間を双方向で送水

今進行中の東村山浄水場と導水管が直結できれば、東村山浄水場から日量100万㎥を超える水量を受け入れ、さらに境浄水場から東村山浄水場へ日量30万㎥を送り込める。これらとは別に新設中の小平市の上水南浄水所へ日量10万㎥が送水できることにもなる。そんな計画を聞きながら、一行のメンバーは境浄水場を長く俯瞰していた。

味藤さん
味藤さん

Part2においてもPart1と同様に、単調な直線路を歩くだけに留まらないように、話す内容や構成に気を遣いました。

今回のストーリー構成の3本柱は、「小平の今の農業」、「小平の新田開発と用水」、「西東京への工場進出」とし、歩きながら眼に入って来るものをきっかけとして話を進めました。

途中、小平産ブルーベリーを使ったブルーベリー大福を頬張って楽しんでいただくなど、最後はサプライズとして伏せていた境浄水場を俯瞰できるスポット(いなげや武蔵野関前店)を訪ねて、Part1から続いた多摩湖自転車歩行者道の足下を流れる多摩川の水の終着点である浄水施設を眺めてシリーズの締めとしました。

日ごろ通っている多摩湖自転車歩行者道沿道もよく見れば「多摩を深める」いろいろなものが存在していることに気付いたという感想を多くの参加者からいただきました。

【集合:西武新宿線・小平駅 9月17日(土)午前9時30分/解散: いなげや武蔵野関前店 午後3時ごろ】