「第43回多摩めぐり 戦争遺跡の浅川地下壕と緑の聖域武蔵野陵墓地をめぐる」を4月21日(日)に開催します

第27回多摩めぐり 北多摩を貫く都内で一番長い直線路~多摩湖自転車歩行者道を歩く《Part1》

深い緑に包まれた多摩湖自転車歩行者道を歩く多摩めぐり参加者たち

ガイド : 味藤 圭司さん 

主なコース

西武多摩湖線武蔵大和駅 → 東村山浄水場 → 空堀川 → 東村山中央公園 → 九道の辻・野火止用水 →萩山公園 → 江戸街道 → 小川用水 →あじさい公園 → 西武新宿線小平駅

6月11日に行った27回目の多摩めぐりで、都民の水瓶の一つである村山貯水池(多摩湖)を起点にして境浄水場(武蔵野市)まで、暗渠で送水している“水の道”の地上に引かれた多摩湖自転車歩行者道(約10㎞)の中間地点にあたる西武新宿線小平駅近くまで歩いた。この道は平坦な武蔵野台地を象徴し、北多摩地域を横刺しにした直線の道だ。都民にいち早く送水することを狙ったのかと感じさせるほどの真っすぐであり、彼方まで見通せるのもこの道の特徴だ。ガイドの味藤圭司さんが参加者18人に語ったのは、古くは玉川上水が開削(承応2年=1654)されて江戸市中へ、そして、近代水道事業がスタートしたと言われる明治31年(1898)以降も東京の人口急増に対応した悪戦苦闘の給水の軌跡でもあった。一方で狭山丘陵の谷を埋めて建設した村山貯水池・山口貯水池(狭山湖)を一大観光地にして鉄道を敷いたことも際立たせた。

仮の開業駅を移動して本格始動

この日の集合地は、西武多摩湖線武蔵大和駅。多摩湖鉄道が昭和5年(1930)に村山貯水池駅の仮駅として開業したのが始まりだ。仮駅としたのは旧西武鉄道に東村山-箱根ヶ崎駅間の路線計画があり、鉄道会社が違う線路が交わることから計画路線の審査を待たざるを得なかった。昭和11年、旧西武鉄道の計画免許が取り消されたことから村山貯水池仮駅は、北へ400m移動して現在の貯水池下で武蔵大和駅と名を変えて開業した。この日のコースのほとんどが西武多摩湖線と拝島線、国分寺線、新宿線の沿線であり、これらの路線が複雑に絡み合うことになった経緯も各所で紐解いた。

水の吐き出し口にモニュメント

村山貯水池から送り出された水が余水吐を通って送水管に入った。
奥に水門モニュメントがある

東村山市側にあった武蔵大和駅前から西側の多摩湖線ガードをくぐると、ここは東大和市域。青梅街道武蔵大和駅西交差点の北側にある狭山公園入口に水門のモニュメントがあった。大正13年(1924)に村山貯水池の底辺層から送水されて落差1.3mのこの地で地上に現れた水の出口門だ。実物の2分の1。それでも横幅は、ざっと3mあり、全体的にはほぼ四角形のゲートだ。水の吐き出し口から出た水をさらに一定量以下にするためにプールの役割をする余水吐(よすいはき)を通らせた水は、目的地である約10㎞東の境浄水場(武蔵野市)へ埋設管で送水していた。

人口増と衛生対策に苦慮し続け

江戸・東京の飲み水確保に奔走して430年以上にわたる。江戸市中の上水を確保するために小石川上水を引いたのは天正18年(1590)、人口増加に伴って寛永6年(1629)に井の頭池を水源とする神田上水を設けた。その後も江戸の人口増加は留まらず、承応2年(1654)に開削した玉川上水は11ヶ月という驚異的な短期間で完成させて通水した。

玉川上水の取水口から中流域の水は清流だが、市中に近づくにしたがって腐敗物を含み、流域住民に衛生規制を強めても効果が見られなかった。明治10年(1877)ついにコレラが大流行してしまった。最初の発生から20年間で6回の流行に見舞われ、全国で30万人が罹患して死亡した(明治13年の総人口3592万5千人)。いま感染が収まらない新型コロナで亡くなった人は全国で3万人を超えている。これに比べると、明治期のコレラ感染死亡者の多さが分かる。

その後、上水の浄化策で玉川上水から引いた水を淀橋上水工場(新宿区)へ入れ、ここから送られる本郷や芝の上水池では機械を導入するなど東京市内へポンプで供給する方式に切り替えたほか、明治30年には淀橋上水工場に沈殿池を設置した。近代水道が実質的にスタートしたのが明治31年(1898)だ。しかし、水の供給量を上回る東京の人口増加は変わらず、明治42年時点で70万人が水道を待っていたことから水道拡張事業が急がれた。

東京水道網の拠点の一角に

大正13年(1924)に村山貯水池から境浄水場へ暗渠の水路で通水したのをはじめ、羽村取水口-村山貯水池間に導水渠、境浄水場-和田堀間の給水管と導水渠完成で和田堀から東京市内への配水が急ピッチで整備された。羽村取水口-山口貯水池-境浄水場ラインも昭和8年(1933)に送水を開始した。

戦後に至っても整備拡充が進められた。昭和35年、新たに東村山浄水場を造り淀橋浄水場の機能もここに移転させて、都内各所へダイレクトに配水することができた。

昭和49年(1974)には利根川水系の水を確保した。2年後には小作取水口から山口貯水池へ直接、原水を送ることもできた。こうしたことから東村山浄水場と境浄水場は東京水道事業の要の施設になった。それを支えるのが多摩湖自転車歩行者道の地中に埋まる原水管であり、都民の命を守るラインだ。

公園化した自転車歩行者道

水門モニュメントの南東に延びている道が、きょうのメインルートである多摩湖自転車歩行者道だ。多摩湖の周遊部を含めて21.9㎞に及ぶ自転車(幅約3m)と両サイドにある歩行者(幅各2m)の専用道路だ。管理する東京都は「東京都道253号保谷狭山自然公園自転車道路」とした。都は昭和59年(1984)に「多摩湖自転車道」としたが、その後の交通状況などから名を改めて「多摩湖自転車歩行者道」とした。

一行が歩き始めた自転車歩行者道の「10㎞」地点で礎石を見る参加者たち

この日、めぐり歩く直線部分の村山境線は、大正13年(1924)に多摩湖から境浄水場まで水道の原水を引くために埋設された導水管の上を道路としたもので、地中には2本の送水管が埋まっている。導水管を中心に地上の両側2mを緑化して都立公園として昭和54年6月、「都立狭山・境緑道」と名付けて共用した。

自転車歩行者道と並行する西武多摩湖線を見る
レールが交わるあたりにあった多摩湖鉄道村山貯水池駅の仮駅の地点を見る参加者たち

自転車歩行者道の中央を自転車が行き交い、両サイドの歩行者道を散歩する人やジョギングする人たちが絶えなかった。緑地帯ではアジサイやシロツメクサなどの群落のほか、実をつけたビワ、ヒバ、葉の色を濃くしたサクラやケヤキ、マツの木などが目を休めさせた。

路上に出現する工事用の鉄板にも興味津々

4本の導水管飲み込む浄水場

東村山浄水場は、東京市第二水道拡張事業で小河内貯水池(奥多摩湖)と並行して建設され、戦争による中断を挟んで昭和35年(1960)に通水した。その後、淀橋浄水場を東村山浄水場に統合して、さらに昭和39年に荒川、翌年に利根川水系とも送水管が接続され現在、東京都全体の18.5%(日量126万5千㎥)を賄っており、朝霞、金町浄水場に次ぐ規模だ。

東村山浄水場の接合井スライド門。
手前の道路下に山口貯水池からの送水管が埋め込まれている

東村山浄水場脇の接合井スライド門前に立つと、厳重にフェンスに囲まれた奥に大きな施設があった。ここには4経路の送水管が集まっている。私たちが歩いてきた村山貯水池下からの2本(第1、第2村山線)と、接合井の門に直角に射し込んでいる道路の下に山口貯水池からダイレクトに送水されている山口線の管が埋め込まれている。

このほか、この浄水場に入っている送水管は、さらに2本ある。玉川上水の小平監視所から送水されている砂川線と、荒川・利根川の原水連絡線だ。原水連絡線からの水は接合井に入れず、着水井に入れて浄水処理される。また、村山線と山口線の水の一定量も接合井に入れないで、そのまま境浄水場へ導水(村山境線)している。

東村山浄水場の西門で水が送り込まれている様子が見えた

施設の接合井スライド門からは、まったく水が見えないが、西門に回ると、地上に設えられた水路にあふれんばかりの水が青く滔々と自然流下していた。この日、流れる水が見えたのは、ここだけだった。

“ダム”で水位を下げて川底越す

空堀川を越えさせるために設置された第一水路急下跡がいまも見られる
(東村山浄水場で)

注目したのは第1水路急下跡だ。浄水場を建設した大正時代の施設で導水路がこの先にある空堀川をくぐらせるために取り入れたもので、石で造った落差約6mのダムだ。現在は、接合井の地下で暗渠やパイプを通して高度を下げている。その落差を生かした水力発電を浄水場内の電力に利用している。

モニュメントの中に水路延びる

コースは接合井部分を回り込んで、いったん自転車歩行者道を外れたが、再び自転車歩行者道に戻った。浄水場の東側に出たところに「虹の水門」のモニュメントがあった。この地点あたりは、東大和市にあった出口水門から約1㎞で、導管の高低差は1mに満たない。モニュメントは虫眼鏡を長方形にしてレンズ部分をくり抜いた形で、石造の下部に落水する水をデザインしている。繰り抜かれた中央部分から前方に延びる水路である自転車歩行者道が見えた。ジョギングを楽しむ人が、くり抜かれたモニュメントの中央に丁度、はまっていた。

第一水路急下があったことを示すモニュメント「虹の水門」

モニュメントは、境浄水場近くの五日市街道までの間に5ヶ所と、自転車歩行者道の別名「武蔵野の路」の道しるべも5ヶ所にある。

汚名返上の川、憩いの場に

東村山浄水場からさらに東方へ進んで空堀川に架かる狭山堀橋を渡った。この日も空堀を示すようで水量は少なかった。「砂の川」の異名もあるそうだ。橋から川底まで5mもあろうか。飲み水の送水管と交わることから送水管を、さらに川底深くに下げざるを得なかった現場だ。ここで必要だったのが急下施設だ。

空堀川は、高度経済成長の時代に都内で一番汚い川といわれた汚名をもらったが、近年は河川改修されて、土手に植栽した桜は見ごろ期になり、近所の人たちはウォーキングやジョギングを楽しんでいた。

空中分解したまちづくり

到着したのは都立東村山中央公園だ。自転車歩行者道の南側にあり、多摩湖線の跨線橋を降りたら、ここが公園入口だった。公園は東西に細長く、木々に囲まれていた。広さ12万1千㎡。中央の広場は、ただただ広く、寝転びたくなる。四方のウメモドキ、ムラサキシキブといった実のなる木、ケヤキやクヌギ、サクラなど種類が多い。一連の木々が屏風となり、野鳥のさえずりが渡って癒された。

自動車試験道路があったあたりは、草地が広がり、清々しかった
(都立東村山中央公園で)

この地は、大正14年(1925)東京土地住宅株式会社が宅地開発に乗り出した一画で、旧西武鉄道の新宿-東村山駅間の路線を敷設したことがきっかけで開発計画が浮上した。面積は東村山村の4分の1にあたる100万坪(330万㎡)だった。計画人口は10万人で、分譲地や官公庁、学校を設置、会社も誘致しようとしていた。前年に箱根土地が谷保村(現国立駅南口)で行った学園都市開発に倣ったものだった。

東京土地住宅の得意先や株主に優先販売した人たちの中に野間清治・講談社社長、山本粂太郎・満州鉄道社長、さらに後にNHK会長に就く岩原謙三氏らが購入した。これらを呼び水にした販売戦略で30万坪分を売約したものの、その後、販売不振で昭和5年(1930)に会社は破綻した。

その後、土地購入者は整理組合を作り、30万坪の3分の2を対象区域として区画整理して久米川駅前周辺を整備した。箱根土地もその一社だった。7万坪の大グラウンド用地は、トヨタ、日産、ヂーゼル工業(現いすゞ)の三大自動車メーカーへ売却した。

新時代の車開発、テストコースも

一方で、商工省(現経済産業省)は自動車工業を確立するために昭和15年(1940)に機械試験所自動車部を設立したことで、自動車メーカーは、買っていた土地を国に寄付して自動車技術の向上に寄与することになった。太平洋戦争の勃発で整備計画は大幅に遅れたが、ガソリン車に代わる木炭自動車の研究棟や試作・製造の機械工場、自動車試験道路を作った。戦後も排ガスなどの低公害車の試験研究を続けた。昭和31年(1956)には日本初の自動車耐久試験専用道路も備えた。

緑地求めて運動した住民の願い実る

その後、この施設は通産省工業技術院機械技術研究所東村山分室となり、昭和48年(1973)に筑波学園都市へ移転した。

こうした国の動きに対して、跡地を緑地として生かすように訴えた市民運動が実って昭和61年(1986)都立公園になった。全体の23万6千㎡のうち半分ほどが公園面積で、残りは小学校、高校のほか、市立富士見文化センター、東京都水道局八坂給水所、都営アパート、経済産業省研修所になっている。

西武国分寺線の踏切を渡りながら、交差する多摩湖線にも熱い視線を送った
(東村山市栄町で)

東村山中央公園の東側から出ると、それまで地上の平面を走っていた多摩湖線は土盛りを登り、高架に上がっていた。この先で南北に走る西武国分寺線と、さらにその東で府中街道と交わるからだ。

八方に通じる「九道の道」 いまも要

「九道の辻」といわれた府中街道八坂交差点。通行車両が多い中で説明に耳を傾けた

我ら一行は、さらに東方の多摩湖線八坂駅方向へ向かい、古くから交通の要所と言われた「九道の辻」に立ち寄るために府中街道に沿って右折した。南へ約150m地点が八坂交差点で、元弘3年(1333)に新田義貞が鎌倉攻めしたときにすでにあったという「九道の辻」だ。古くは9本の道が交差していたといわれるが、現在7本が確認される。

小平市小川東町の高層階から見た「九道の辻」

片側2車線の南北に走る府中街道は、ひっきりなしに車が走る。交差点周辺には病院、民家、銀行、交番、都営アパートなどが密集していた。交差点に立って南北に貫く府中街道を中心に時計回りに見てみた。

  • 清戸道(現清瀬市)
  • 引股道=野火止用水に沿って引又宿(現志木市)へ。
  • 江戸道=いまも江戸街道といっている。
  • 鎌倉街道=南の府中を経由して鎌倉へ向かう。現在ブリヂストンの工場があり、跡をたどることができない。
  • 御窪道=国分寺・恋ヶ窪へ達する。御窪は、恋ヶ窪を指すのだろうか。
  • 大山街道=野火止用水の上流へ向かう道で、現神奈川県大山に達する。
  • 秩父道=西の現瑞穂町・箱根ヶ崎へ至り、その西方の秩父へ。
  • 宮寺道=狭山丘陵の西、現埼玉県入間市の宮寺へ。
  • 奥州街道=西武多摩湖線に遮られたが、遠く奥州へ通じていた。鎌倉街道と共に明確な姿を留めていない。

新田義貞が道に迷って桜植える

この交差点に立つと、北に西武多摩湖線、南に西武拝島線が府中街道をまたいでいる。西には西武国分寺線が見える。3路線の三角形の中心地に位置するのも九道の辻だ。

主要路であるが故に多くの道が交差していて元弘3年(1333)久米川の戦いで北条氏を急追して鎌倉へ攻め上っていた新田義貞が、ここで道に迷ったという逸話がある。自分と同じ者があろうと鎌倉街道の道しるべとして三角地点に一本の桜を植えたという。それが「迷いの桜」だ。代を繋いで植えられたが、大正年間に枯れてしまった。いま、「迷いの桜」を解説する案内板の近くに「迷いの桜」と関係なさそうな桜が植わっている。

交差点に馬頭観音と橋供養塔

八坂交差点を横切る野火止用水の野火止橋脇にある碑を熱心に見る

「九道の辻」のど真ん中を流れるのが野火止用水だ。歩道の小さい橋の詰めには馬頭観音と橋供養塔がある。玉川上水開削の労として玉川上水から川越藩主・松平信綱の領地に水を引くことを許された用水だ。家臣の安松金右衛門が陣頭指揮して承応4年(1655)に完成。飲料水や生活用水はじめ、田用水に使われて武蔵野の田畑を潤した。用水は高度経済成長期に汚濁し、昭和48年(1973)に通水を停止したが、東京都の歴史環境保全地域に指定されたことから昭和59年に高度処理水を流して通水が復活した。

野火止橋の供養塔(左)と馬頭観音

入居者が管理する民設第1号公園

野火止用水に沿って歩き、再び自転車歩行者道に戻った。西武拝島線萩山駅に近づくあたりに2つの萩山公園に挟まれた「萩山四季の森公園」のベンチで小休憩した。芝で覆われた公園中央を取り囲むように園路があり、その外周に木々が植わる。周囲の木漏れ日が弱い分、公園中央の芝生に射し込む光が浮き立って風情があった。

まさに緑陰といった趣の萩山四季の森公園

一般の公園は自治体が管理しているが、この公園は、平成19年(2007)東京都の民設公園制度を初めて適用してできた公園だ。この地は元々、1.5haの西武鉄道所有のテニスコート場だった。ここに11階建て184戸入居のマンションを建設した。

都市計画公園・緑地指定地域であることから、新たに整備する公園を一般に公開し、住民側が管理することなどを条件にしてマンションが建設された。入居者で作る管理組合が公園を管理している。このため公園部分の1.0haの固定資産税・都市計画税が減免されおり、維持管理費(戸当たり月額1400円)は実質無料になっている。

合併・吸収くり返した西武鉄道網

四季の森公園の目の前を西武多摩湖線と西武拝島線が走る様子を見ながらガイドの味藤さんが話題にしたのは、東村山市を中心に西武鉄道の路線が複雑に入り組んでいるわけだ。最寄りの萩山駅では両路線が平面交差する特異な駅でもある。

現在の西武鉄道が戦後の昭和21年(1946)に誕生するまでに、多摩地域に路線が誕生して半世紀がかりだった。多摩地域に最初に私鉄の路線を敷いたのは国分寺-川越駅間。川越鉄道が運営した。その後、川越馬車鉄道を母体とした電力会社を立ち上げた川越電気軌道、池袋-飯能駅間で開業した武蔵野鉄道、学園都市開発で一躍名を挙げた箱根土地会社が着手した国分寺-萩山駅路線を手掛けた多摩湖鉄道の、大きく分けて4社の鉄道会社が明治28年(1895)以降、吸収・合併を繰り返していまの西武鉄道となり、狭山丘陵周辺の鉄道網が出来た。昭和5年(1930)ごろまでに、ほぼ現在の路線が出来上がっていたが、路線変更や駅の移転、駅名などを変更して昭和43年(1968)に西武拝島線が拝島まで延伸するなどして現行になった。

戦後になっても乗客を増やすために西武鉄道は沿線の開発を緩めなかった。戦後すぐに遊園地を開設、スキー場をはじめ、ゴルフ場、団地の造成・建設、野球場開設、大学誘致、さらに車両の快適化などを進めて、今に至っている。

「ダム」と呼んだ第2水路急下跡

萩山駅東方まで直線だった自転車歩行者道は、緩やかに曲がり始めた。小公園風な緑地にベンチがある。地元の人たちは「ダム」と呼んでいた地点で、2つ目の水路急下跡だった。2mほど水を落としていたそうだ。開渠だった時代の写真を見ると、流水口が2つあり、急降下で流れ落ちる水は、白い泡が沸き立って、まさに急流の光景だ。この緑地の西方に急下跡を示す石造の「水の碑」が立っていた。

地元の人たちが「ダム」と呼んでいた第二水路急下跡で小休憩を兼ねて・・・

江戸の往還路も渡る送水管

第2水路急下跡を出ると、すぐに交わる道路があった。江戸街道だ。瑞穂町の箱根ヶ崎から田無・橋場へ続き、青梅街道に繋がる。いまこそ自転車歩行者道の沿道は住宅が軒を連ねているが、江戸街道を行き交った江戸時代あたりは、武蔵野の原野で一人歩きもままならなかっただろう。九道の辻へ向かった人々も多かった。

安定送水するために設けている「空気弁」にも興味を示す参加者たち

2つの駅を統合した小平駅

沿道は商店が軒を連ねる光景に変わった。西武新宿線小平駅前だ。駅の開業は昭和2年(1927)だったが、現在の姿になったのは昭和24年(1949)と比較的遅い。これには訳があった。現在の小平駅よりも西側に昭和3年に多摩湖鉄道の小平駅ができた。翌年に本小平(もとこだいら)駅と名を変えて、その後、多摩湖鉄道は、いまの西武鉄道と合併して、さらに2つの駅を統合して小平駅になった経緯がある。

小平駅から南下する「あかしあ通り」のアカシアの街路樹が新緑のように色鮮やかで目を見張った。南口前の一般道の地中に導水管が埋まっていることを一瞬忘れるような色映えだった。

西武新宿線小平駅付近の多摩湖自転車歩行者道に設置してある齋藤素厳作品
「競技への招待」に目を凝らす。
花小金井駅までの区間は「彫刻の小径」でもある

見ごろのアジサイと彫刻作品

この日の最終ポイントである「あじさい公園」は、花見客で一杯だった。藍やピンク、白などのアジサイが1500株ほどあり、見ごろだった。玉川上水から引いた小川用水の水が澄み、水生動物や水生植物も楽しめる。窪地の周囲にはクヌギやコナラといった武蔵野を代表する樹木の緑も歩き通してきた身を癒した。

形も色もとりどりのアジサイに目移りしてあじさい公園を一周してしまった

園内には小平市学園東町で制作に励んだ彫刻家・齋藤素厳(そがん)さん(1889~1974)の作品「農業」など3点がアジサイに寄り添っていた。小平駅から東の花小金井駅間の自転車歩行者道を「齋藤素厳彫刻の小径」と名付けて15基16点を設置している。この日見た作品以外は次回(9月)の多摩めぐり・自転車歩行者道part2で見られるのを楽しみにしよう。

アジサイと齋藤素厳作品「農業」とともに記念写真

足裏で感じた水への衛生観念

自転車歩行者道の5㎞区間を歩いて水を見たのは東村山浄水場西門の金網越しだけで、歩いてきた足下に絶えず送水管が埋まっていることに現実感がなかった。逆に教えられるものを感じた。東京の発展には都民に安全・安心な水の提供を欠いては語れず、その目的を達成するために水に人を近づけない任務を併せ持っていることだった。

味藤さん
味藤さん

今までの「多摩めぐり」で「村山貯水池」「山口貯水池」を訪ねましたので、そこから各浄水場までを歩くプランが生まれたのはごく自然な発想でした。しかもその区間は地図を見ると明らかなように「真っすぐ」で、どうやら東京都で最も長い直線道路のようだということもわかり、「これは何としても歩かなければ」という強い思いで企画しました。
ただ、その沿道には立ち寄るスポットがあまり多くないので、歩くことだけに終始するとスポーツウォーキングになってしまうことから、「多摩を深める・多摩めぐり」として内容のあるものにしようと工夫してみました。
即ち、神田上水・玉川上水から始まって現在に至る東京都(市)の苦難の水道事業の歴史(多摩川水系分)の話、およびコースに沿って歩くと必ず目に入る西武鉄道各路線の複雑な軌道の敷かれ方とその歴史的な変遷についての話、これら2つの大きなテーマについて、コースの各所で説明を繋いで、ゴールに着いた時には、それぞれのストーリーが一応完結するように構成しました。
参加された皆さんに、それがうまく伝わったどうかが気になるところです。
梅雨時の実施となりましたが、雨に降られることもなく歩くことができ、アンケートの回答でも全員が「愉しかった」と感想を持たれたようで、ホッとしたところです。

小平駅以東の多摩湖自転車歩行者道の境浄水場まで約5㎞を歩くPart2は9月17日(土)に開催を予定しています。詳細が決まり次第、多摩めぐりの会ホームページでお知らせします。

【集合:西武多摩湖線・武蔵大和駅 6月11日(土)午前10時/解散:西武新宿線・小平駅 午後3時ごろ】